消えない悪夢
樹木の合間から見えていた蒼天は、残酷なほど紅く染め変えられていた。
自分はただ独り、立ちつくしている。
頼れる者はなく、その身を守る術もない
遠くに見える紅の合間に、闇色の大きな影がゆれている。
耳が痛い。
悲鳴のような耳鳴りが響き、頭を締め上げていく。
紅い空は見ているだけで悲しい気持ちになるのに、どうしても目が離せない。
逃げなくては
どこまでも走って
隠れて
決して見つかってはいけない
見つかったらきっと、きっと――あれに……
耳に絶叫が聞こえてきた。
遠くから流れてきていると思えた叫びが、自分の口から迸っているのだとわかるまで、相当な時間がかかってしまった。
夢だ。
馴染み深いただの悪夢だと、意識に言い聞かせ衝動を抑え込む。
衝動を抑えようと、手で口を塞いで叫びを止める。
その時、自分の腹部がごそりと動いた。
思わず総毛立ってしまったのだけど、毛布から飛び出してきたのがジュジュだとわかると、身体から緊張が抜けていった。
心臓が踊り狂っている。
別の生き物が、内部で蠢いているかのようだ。
気力を整えようと息を吸ってみる。
しかし、ひくひくと痙攣している喉で止まってしまい、大気が肺まで流れていってくれない。
「サキ、どうかしたか?」
扉の外から、低い声がする。
ああ、起こしてしまっただろうか。まだ日も昇っていないというのに。
大丈夫ですと返事をしたいけれど、声が出せそうにもない。
叫びで喉を潰したのではと馬鹿なことを心配したが、まだ口を塞いでいるだけだった。
でも、どうしたことだろう。
頭では理解できているのに、口から手を引き剥がせないのだ。
寝床の上で、氷漬けになっていれば「入るぞ」と宣言が聞こえてきた。
扉が開いたのを見たジュジュが、大慌てで走っていく。主の異常を訴えようと、同居人の足元にまとわりつきに行ったようだ。
視界の中で起こっていることは、分析すらできるというのに。やはり自分の身体は動かないままであった。
熱い海の気配と共に、静かな足音が響いてくる。
傍で止まった足音。足音の主が、寝床の脇机に置いていたショールをかけてくれた。
「大丈夫か……」
周囲に、真力が解き放たれる。
穏やかな熱い波によって、緊張がほどけはじめた。
全身の強張りも、少しずつゆるんでいく。
熱くて大きな両手が、口を塞いでいる手を包み。そっと労わってくれた。
「悪いな。約束を破ってしまった」
許可なく部屋に入ったことへの謝罪だろうか。
心配してくれたからこその行いなので、責める気持ちなど微塵もなかった。
謝らないで欲しいと、彼に伝えたい。
それなのに、頑固なまでに動かない唇は、いまだ言葉を生み出してくれない。
呪われた唇の代わりに、石のように固まっていた指が動き、骨ばったその手を握る。
ぬくもりが必要だった。
彼の熱に触れていないと、氷の彫刻になってしまうと信じられるほど寒かった。
季節は、夏に向かっている。
それなのに、毛布ではかばいきれないほどの寒さに全身が震えていた。
熱い海の気配が自分を包んでいる。けれど、それでは間に合いそうにない。
気配に乗った自分の思考を、読んでくれたのだろうか。
低い声が、耳元で響いた。
「おいで」
導かれるまま、彼の胸元に身体を寄せる。
無理に動かした身体は。どこかでひび割れているのでは……と、思えるほどぎこちない。
ぎこちないながらも勝手に腕が伸びて、見慣れない藍色の麻布をつかんだ。
使いこまれた彼の夜着を、命綱に見立て、必死になって握る。
ローグが、肩と膝裏に両腕を滑り込ませた。
自分のお腹にジュジュが乗ったのを確認して、横抱きのまま居間へと向かう。
連れられていった居間は、ランプが点いていないため薄暗かった。自室よりも気温が低く、移動しただけで震えが悪化した。
窓掛けの隙間から、弱い光が漏れている。
夜が、終わろうとしているらしい。
食卓のところでローグが立ち止まり、言霊でランプを灯した。
橙に染まった視界に安堵して、また少し緊張をゆるめる。
自分とジュジュを長椅子に下ろしたローグは、すぐに戻ると言って炊事場へと急いだ。言ったとおり、すぐに戻ってきた彼は、その手に水の入ったグラスを持っていた。
「飲めるか」
手渡されたグラスを、震えながら傾けて水を飲む。
口に注がれた冷たい水は、動きを止めていた喉を通過し。感覚を呼び起こすように、身体の隅々まで駆け抜けていく。
「ありがとう……」
言葉が帰ってきた。
しゃべることを思い出した身体は、同時に自由を取り戻したようである。
感謝を込めて、微笑みを浮かべた。
すると、黒い瞳のなかで感情の炎が激しく燃え上がった。
炎に見惚れて、ぼうとなる。
しばらくして骨ばった熱い手が、流れていた涙の跡を拭うように動いた。
いつの間に泣いていたのか。
いままであの悪夢で、涙を流したことなど一度もなかった。
「うなされていたのか」
自分は、いつの間にか泣き虫になっていたようだ。
里に来てからというもの、感情の起伏が激しくなってきている。こういう時は、本当に困ってしまう。
「はい、起こしてしまいましたよね。大騒ぎしてごめんなさい」
デコピン覚悟で謝れば、苦笑されてしまった。
「気にしなくていい。昨日の実習が響いたのだろうか……」
昨日の早朝に終えた、波乱に満ちた実習。
十五の娘にとっては酷だったに違いない。ローグはそのように考えているようだ。
「違うのです。……たまに怖い夢を見ることがあって。最近は見ていなかったので油断してしまいました」
夢……と、低い声が復唱した。
夢でうなされるなど、子供のようで気恥ずかしい。
しかし安眠を妨害してしまった手前、黙っておくことはできない。
「前からよく見る夢で。いつもなら騒ぐことはありません。どうも、気力が整っていなかったようで……」
「どのような夢だ」
からかうでもなく。笑うでもなく。強い意志を宿した黒の瞳が、自分の心を覗き込んでくる。
奥で燃え盛っている炎を見てから、ゆっくりと口を開いた。
「……全部、燃えてしまう夢」
そう、全部。
何もかもが忌まわしい紅に飲み込まれ、食べ尽くされてしまう夢。
逃げても、逃げても。どこまでも追いかけられる、そんな悪夢。
「怖かった」
ぽろりと口から滑り出した言葉は、自分でも驚くくらいの幼さだった。
黒が細められて、左の頬に手が当てられる。
「もう、大丈夫だ」
森での出会いを彷彿とさせる、確かなぬくもり。
あたたかさが沁みて、痛くて――うれしい。
ローグは自分が落ち着くまで、ずっと傍にいてくれた。
当初よりかなり図々しくなった自分は、ローグのやさしさに甘えようと決めた。
真力と気力を整えるのに必要なのですと女神に懺悔しつつ、彼の腕の中で、ぬくぬくとあたたまる。
自分にとっては、肌寒さすら感じる朝の大気でも、彼にとっては大したことがない様子。
袖無しの夜着一枚をまとって、腰帯を巻いただけの格好をしている。ズボンの生地も、夏用だとしか思えないくらい薄い。
ここまで熱を保てているのは、どうしてだろう?
自室から引き連れてきた毛布よりも、ローグの方がよっぽどあたたかい。
肩に回ってきた左腕をじっと観察する。
血管が、自分のと比べて太いように思う。
血を運ぶ力が違うせいだろうかと、彼を置き去りにしたまま仮説を作ってみた。
されるがまま。腕の自由を奪われているローグから、笑いがこぼれてくる。
以前、本を読んでいる時も、似たような笑いをしていたことがある。その時は、猫にじゃれつかれている気分だと言っていた。
何となく面白くなくなって、左腕に自由をお返しした。
例えるなら動物ではなく、花姫か精霊にしてもらいたいものだ。
……似合わないとは思うが、一度くらいは言われてみたい。
自分がつむじを曲げたのを察知したらしい。
一枚上手な悪徳商人殿は、視点をさらりと変えてしまった。
「そろそろ夜が明ける。今夜は早く寝ることにして、このまま起きてしまおう。休みは有効に使わないとな」
今日から二日間は特別休暇。
なので、学舎に急ぐ必要がない。
休みの初日に二人して早起きしたのだからと、時間の使い道をあれこれ考えてみる。
起きたばかりでもあるし、朝食の時間にはまだ早い。
ぬくもりながら時を過ごすのもいいけれど、それは少しもったいない気がした。
「サキ、散歩にでも行ってみるか」
「散歩ですか?」
「ああ。里の中を回り切っていないだろう。まだ、行っていない場所を散策してみよう」
言われてみれば。
二人ともあまり外出をしない方だ。
ローグは最近になって友人達の家や、喫茶室に出かけることも多くなった。
それでも学舎近辺と居住区から外れてはいない。後はせいぜい聖都に下りるくらい。
いままで、真導士の里をきちんと回ったことはなかった。
家からほど近い修行場に、顔を出したこともあったけれど。長くいれば、いざこざが起きそうな雰囲気があった。早々に退散して以来、近づきもしていない。
夏には泳げるという湖も、行く機会に恵まれないままであった。
「では、湖を見てみたいです。ティピアさんが、とてもきれいだったと言っていましたので」
決まりだと彼が言ったのを契機に、二人していそいそと立ち上がり、それぞれの自室に戻る。
ローグは自室へ戻る前に、居間の窓掛けを上げた。
天気の確認は、彼が一日をはじめる定番の儀式になりつつある。
外を確認したローグから、めずらしいと声が上がる。
つい気になって、扉に手をかけたまま後ろを振り返った。
「霧だ……」
一瞬だけ。
甲高い音が耳に響いたように思えた。
気のせいだろうか。
いまはもう、何の音もしない。
悪夢のせいで気が高ぶっているのだろう。
早く外に出たいと胸が弾んでいたのもあって、さして気に留めることはなく。そのまま居間を後にした。