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ギバウス幻想曲

「さあ、目覚めなさい」

(俺は)

「あなたはまだ――」

(俺は、誰に呼ばれているんだろう――)


 目の前は、永久とこしえの闇に包まれていた。

 一面が、夜色の深い深い闇だった。

「…………」

 よろりと彼は不安定な足で立ち上がる。そして覚束ない足取りで一歩、また一歩と歩き出した。

「――あなたはまだ、不完全なカケラなのですから」


 ただ声に、促されるがままに。


   ――…――


「事件だよー、事件だよー!」

 穏やかな昼下がりだった。

 街の住人のほとんどは、いつもと何一つ変わらずに、赤レンガで舗装された中心街を歩いていた。皆が集まる中心街には多くの店があって、花の甘い香りやパンの香ばしい香り、活気付いた店娘みせむすめの声に包まれている。

 小さな子供を連れた婦人や一人道行く紳士など、老若男女で溢れかえったその中心街。そんな中を一人の青年が大声をあげて駆け抜けていった。情報屋としてこの街で名を上げているスヴェラ・ハートンだ。彼のあまりにも我を見失ったかのような姿を見て、道行く誰もが何事かと互いの顔を見合わせた。

 スヴェラは息を切らしながらもその足を決して止めようとはしない。酸素を要求している口を必死になって開けながら、切れ切れの息を思い切って吐き出した。

「大変だ! ……あの、あのウェリウスが目覚めちまった!」

 スヴェラの鍛えられた声が、両側に立ち並ぶレンガ造りの建物の間で響いた。人々はぎょっとした表情をスヴェラの方へと一気に向ける。悲鳴に似たどよめきが上がった。

 頼まれてもいないのにスヴェラの進む道を作るようにと、あれだけ大勢の人が、すっと道の両脇へと避けていく。

 駆け抜けていくスヴェラの背中を見ると、街の者は恐怖と好奇心を膨らませて彼の後を一緒になってついて行く。振り返ってみれば、スヴェラの後ろにはまるで餌に群がるアリのように、多くの人だかりができていた。

 スヴェラは走る。目指す場所は、この街の広場だ。

 広場は円形になっている。中心には綺麗な細工が施された噴水が、何も知らずと澄んだ水を噴き上げていた。

 広場にいた人々は、スヴェラとその後ろから迫ってくる大勢の人の群れを見て。同じように駆け寄って、または端へと避難していった。噴水脇で水を飲んでいた鳩が、騒ぎに気付いて空へと飛び立っていく。

 決して暑いとはいえないこの空の下で、スヴェラは大量の汗をかきながら、その足を止めた。地鳴りのように響いていた多くの足音も、同時に止まる。

 蒼い空にはぷかぷかと平和そうに、白い雲が浮かんでいた。スヴェラは荒い息を二・三吐き出すと、民衆に向かって叫んだ。

「女が一人、東の森で倒れていた! 彼女の首筋には血を抜かれた痕がある。……間違いねえ。聖女のかけた封印が解けて、吸血鬼が……ッ。ウェリウス・クォルダンが目覚めちまったんだ!」

 それまで静かだった民衆は再びざわつきだした。穏やかだった街は一変して、恐怖に包み込まれる。一瞬前まで微笑を浮かべていた大人たちはスヴェラに向かって、怒号に聞こえなくもない恐怖に震えた声を我先にと張り上げた。状況を把握しきれない子供たちは、豹変してしまった大人たちを見て、きょとんとしていた。

「女は、……その女は生きているのか?」

「外れの診療所に運ばれた。医者の言う限りじゃあ、死んじゃいないって話しだ」

「首筋にあるのは、本当に血が抜かれた痕なのか!? 見間違えじゃあるまいな」

 男は憤りを露にする。スヴェラは頷いた。

「穴は一個だが、ありゃあ確かに血の抜かれた痕だ」

「証拠はあるのかッ? 穴だけじゃ証拠になんてならない。ましてや一個だなんて……」

 戸惑いの声をあげる男に、スヴェラは深く頷く。

「証拠ならばっちりだ。その女の首筋には、普通じゃできない、五芒星ペンタグラムの痣が浮かんでいた。五芒星の痣が浮かんじまうのは、吸血鬼に血を吸われた場合しかない」

 ざわつきはいっそう大きくなった。子連れの者の多くは、こうしちゃいられないという風を見せて、元来た道を引き返していく。

 スヴェラは彼らの背に向かって、もう一度声をあげた。

「奴は東の森の奥にある館にこもっているようだ。だが、すぐに自警団が杭や十字架を持って行ってくれるだろう。それに……奴ら吸血鬼は夜にならないと動き出さないからな。とにかく、十字架とニンニクは玄関や窓に吊るしておけ。命が惜しけりゃな!」

 そうだニンニクだ、そうだ十字架だと言う声に、広場は包まれる。スヴェラの言葉を聞くと、民衆は我先にと散っていった。

 大勢の人で溢れかえっていた広場は、一瞬のうちにして。まるで墓場と見間違えるほど、がらんとした寂しい風景に変わってしまったのだ。

 一人残されたスヴェラが、また別の街へと駆け出していく。

「事件だよー、事件だよー!」


 この日は週一回の一日授業だった。

 ……はずだったんだ。

 しかし突然教師たちが事務員のおじさんたちに呼ばれて。授業が中断されたかと思ったら、今度は血相を変えて戻ってきて、すぐに帰る支度をしなさいと言い出す。まだ時間は午後を少ししか過ぎていない。授業が全て終わるまでには、あと二つ時ほどあるにもかかわらずだ。

「いいですか。東の森に吸血鬼が出ました。なのでこれから数日間は自宅で家庭学習とします。学校での授業は連絡が行き届くまでないので、間違って来ないようにね」

 あせった教師の口調は自然と早口で、変に裏返っている。

 まだ無知な子供たちは、吸血鬼が一体どういう存在なのか、聖書や童話などでしか聞いたことがなかった。人間と酷似し見分けが付かない吸血鬼なんかに、たいした恐怖も抱きやしないのだ。

 結局は授業がない。それだけの事実とでしか、勉強嫌いな子供たちは受け入れなかった。

 人が死ぬ。もしくは吸血鬼へと変貌してしまう。そんなことなどおかまいなしだ。

 聖堂の鐘が鳴らない放課後を迎えた子供たちは、寄り道をしないで帰りなさいと言われたにもかかわらず、ふらりと歩いていって。大抵の子は緊張感に欠け、この場に不似合いな表情を浮かべていた。

 きゃっきゃと明るい声をあげながら、誰もいない中心街を駆け回る。乾いた風が、子供たちと共に駆け抜けていった。

 彼らの後を、数人の少女たちが歩いて行く。聖堂女の着るような――ただ普通のとは違って、白地に金糸の刺繍が施されている服を身に纏っていることから、彼女らが高等部の生徒であることが窺えた。細やかな文字などが刻まれている銀の十字架が、彼女らの胸元で揺れている。

 すっかり寂れて見える中心街をとぽとぽと歩み、大きな十字路で二手に分かれた。手を振り合って。「またね」と、いつ会えるのか解らないながらも別れの言葉を交わすと、おのおの進むべき方へと足を向けた。

 三人の女生徒は東の出なのか、十字路を真っ直ぐに進んでいく。

「ねえルゥシャ、シェナ。本当に吸血鬼が出たのかなあ……。東の森っていったら、すぐ傍でしょ?」

 不安を抱えた声色だった。

 腰まであるブロンドの髪を揺らしながら、リリア・ラスカは呟く。一緒になって歩いていたルゥシャ・ゲリエンスとシェナ・ヘンリスは、リリアの呟きに、解らないと首を傾げた。

「さあね。少なくとも昨日は一時近くまで起きていたけど、悲鳴は聞こえなかったよ」

 ルゥシャはその恰好に似合わず、頭の後ろで手を組みながら、鞄を持っていた。肩にも満たない栗色の髪はざんばらで、活発そうなのが一目で窺える。

 そんな時間まで何をしていたのよあんたは……とシェナは呟くが、ルゥシャは見事にスルーした。

「でもさ、やっぱり近くだとさあ……」

 どんな言葉を持っても、安心などできやしない。とでも言いたげに、リリアの大きな瞳が、少しばかり潤んだ。

「気になるの?」

「当たり前でしょ。だって家からそう離れていないじゃない」

 震える声色と共に、リリアの白く小さな手にきゅっと力が入った。それを見たシェナは、微かに口元を綻ばせる。


「じゃあさ……行ってみない。東の森に」


 三人は誰もいない道の真ん中で立ち止まった。シェナの一つに結われた小麦色の髪が、風に吹かれて踊った。その瞳は好奇心に揺らいでいる。

 突拍子もないことを言い出したシェナをルゥシャは呆然と見つめた。恐怖で今にも泣き出しそうなリリアは、ルゥシャの服を握りしめて放さない。

 こんなリリアを見てか、それとも本心でか。ルゥシャの表情は徐々に曇っていく。

「……シェナさあ、あんた正気?」

「勿論。私はいつだって正気だよ」

「自殺行為じゃん」

「大丈夫。吸血鬼は夜にしか動かないんだよ。この前祭司様が言っていたでしょ。それに、ルゥシャも気にならない? 本当に吸血鬼がいるのか否か」

「気にならない……」

 ルゥシャは両手を下ろした。精悍な瞳がシェナを捉えている。中心街は空気が止まったかのような、緊迫した静寂に包み込まれていた。

「……って言えば、嘘になる。あたしだって気にはなってたよ」

 目を瞑り、ルゥシャは淡々と言葉を発した。

「でも。……自らの危険を冒してまでするようなことか?」

 ルゥシャの声が、建物の間で反響した。静かだった中心街を、初等部の子供たちが三人を不思議そうな目で見ながら駆け抜けていく。小さな足音が東の方へと消えていった。

「シェナも知っているんだろう。今回血を抜かれたのが女性だって。……ということは相手は男だ。吸血鬼は異性の血しか吸えないからな」

「そうだね。もし襲われたとしたら、私たちの行く末は五芒星と血の海」

「解っていて何でそんなことをしようとするんだ。……じきに自警団が動き出す。それを待っていればいいじゃないか」

「でも、人間って好奇心の塊でしょ。一度心を掴んだ物ってのは、なかなか手放せないよ」

 シェナはその顔にフッと意味深な笑みを浮かべた。服を掴んでいるリリアの手にまた力が入っていくのが、ありありと感じられる。その瞳には明らかな不安が宿っていた。

 リリアは知っているのだ。ルゥシャとシェナ、二人が好奇心に勝てないということを。

 特にルゥシャは幼い頃から浮いた子で、冒険だ何だと男友達と街や廃墟を駆けずり回り、また体力で言えばそこらの男子にも負けず劣らずで、いわゆるガキ大将だった子だ。

 尤も今は高等部生にもなり、多少は落ち着きも出てきてはいるが、だからといって今まで磨いてきた元の部分を即座に変えるということなどできるはずもない。

 もしシェナの言動がルゥシャの好奇心に触れてしまうようなことがあったとしたら、間違いなくルゥシャは東の森に行こうと言い出すだろう。歯止めが利かないというように。

 乾いた風が三人を揺らしていった。リリアは紡ぐ言葉が見つからない唇を噛み締めて、怯える視線をルゥシャに向けた。

「そりゃあそうだ。今だってあたしの好奇心はうずうずしているよ。どれだけのスリルが待ち受けているんだろう、ってね」

 男子のような顔を、ルゥシャは無邪気に綻ばせた。あの精悍な瞳は確かに好奇心に満ちていて、今にも東の森へと突っ走って行きそうなくらいだ。

 ほらねと言いたげなシェナと、それとは裏腹にどうにもならない現実を目の当たりにしたリリアの視線とが、ルゥシャに注がれる。

 同じ種類の好奇心を宿したシェナが、何か言いたげにルゥシャに一歩近づいた。

「でも、やっぱり行くのはやめよう」

「何でッ? ルゥシャも気になっているんでしょ? だったら――」

 一歩近づいたシェナは予想外なルゥシャの発言に、驚きと期待を裏切られた怒りとで声を荒げた。道の両脇に建っている家々の間で、シェナの声が響き続ける。

「言っただろう。今回はあたしたち女には圧倒的に不利な条件だ。いくらあたしでも、この歳で死ぬのは惜しい」

「……そんな弱気なの、私の知ってるルゥシャじゃない」

 唇を噛みしめながら、シェナは呟く。だがそれは逆効果で、ルゥシャの息は嘆息に変わる。

「まだ解らないのか? シェナも知ってるんだろう。吸血鬼は普通じゃない。いくらあたしがこの街の男子をはっ倒せる力を持っているからと言っても、それは人間だけの話。奴ら吸血鬼の持つ超人的な力の前では赤子の手を捻られるようなもんだ。それとも、それを知ってまでわざわざ自分から相手の領域に飛び込むとでも言うのか?」

「…………ッ」

 今までとは立場が逆転してしまった。有利に物事を運んできたシェナは、いつもとはノリの違うルゥシャを前にして反論する言葉が見つからなくなってしまう。

 そりゃあシェナだって吸血鬼の存在が最も恐れられていることを知ってはいた。でもルゥシャならきっと頷いてくれる。……そう思い込んでいたから。

 だから今この状況を全て飲み込めない。いつもとは判断の仕方が違う友人の言葉が、どうしても飲み込めない。

 ぴりぴりと肌を刺すような空気が三人を覆っていた。鋭いルゥシャの視線の先で、シェナは嫌な汗をその背に伝わらせる。

 リリアの手が、ルゥシャの服から離れた。

「ねえ、二人とも。もう吸血鬼の話はやめようよ」

 か細い声だった。今のリリアが怯えているのは、きっと吸血鬼だけのことではない。

「それにいつまでもここにいたって、埒明かないし。先生にも寄り道するなって言われているし……」

 目の前でちらついている、今にも崩壊しかねない友情が、リリアには何よりも恐ろしかったのだ。

 この関係、この日常こそが、彼女たちの全てだった。それに亀裂でも入ろうものなら、今までの関係に戻れないのは目に見えている。それを黙って見ていられるほど、リリアの心は成長しきっていなかった。

 どんな些細なことでもいい。この状況を歯止めできる何かが、リリアには必要だった。だから本当にくだらない先生からの言いつけを、誰も聞きやしない言葉を。咄嗟に口にしていたのだった。

 白い制服が風に靡く。銀の十字架が悲しみを露にして、胸元で揺れていた。

 ルゥシャは口を引き結んだままで、視線は足元を彷徨っている。助かったという安堵としつこく心に残っている遣る瀬無さが、シェナの顔には見え隠れしていた。

 寂れたようにしんとした中心街。

 廃墟と同じ雰囲気を出した建物が、三人に乗り移ってしまったかのようで……。

「帰ろう。リリアの言うとおり、いつまでもここにいたって埒が明かない。それにあたしたちの住んでいる所は森が近いからな。親も心配して待っているだろう」

 行くぞと言うルゥシャの声も、最後の方はほとんど消え入っていた。

 不承不承に頷くシェナをルゥシャは確認すると、三人は自宅のある森の方へと再び歩みを進めるのだった。


   ――…――


(館って確かこの辺りじゃ……)

 時は日にちをようやく跨いだ頃。

 天空では星々がギバウスムーンと共に輝いている。しかし残念なことに今は深い森の中にいるので、生憎その姿を拝むことはできなかった。

 ランタンの微かな灯火を手がかりに、昼間でも薄暗い森の中をほとんど手探り状態でルゥシャは歩いていた。

 室内では耿々とした灯りを放っていたランタンでさえも、今や闇にも飲み込まれんばかりの頼りなさになっている。

 鬱蒼と木々が生い茂る森は、この間降ったの雨のためか、微かに湿り気を帯びた独特のにおいが充満していた。所々に木の根が飛び出す不安定な足元にルゥシャは足を捕られそうになる。だがそれでもコケの生えた倒木に掴まりながら、ルゥシャは一歩一歩確実に進んでいった。

 それにしても不思議なもんだ。夜になると全ての物がこちらの世界の物でないように見えてしまう。

 さわさわと不気味な風を指揮に、木々が歌いだす。夜鳥の鳴き声はやむことなく鼓膜を震わせ、ルゥシャはそのたびに苦い表情をそのボーイッシュな顔に浮かべた。

「ぅあ……っ!?」

 道を塞いでいた倒木の上にルゥシャは飛び乗った。

 だがびっしりと生えていたコケに足を滑らせ、ルゥシャはそのまま倒木の向こう側へとつんのめるようにして落ちてしまう。

 びちゃっと地面に付いた両手に、腐敗した枯葉の感触がした。においなんかよりもはっきりと解る濡れた不快感が手から伝い、更には地面に付いた膝からも伝わってくる。

「イッテェ……」

 すぐに立ち上がって腐敗した枯葉を落したが、ズボンの膝部分はぐっしょりと湿ったままで気持ち悪い。それによく見れば、いつ付けたのだろう。左腕には大きな切り傷があって、一文字に赤い色が浮かび上がっていた。袖にもその色は侵食してしまっている。

 最悪じゃんと七分袖から見える我が手をまじまじと見ながら、でも応急手当をするような物など持ってきていない、なのでルゥシャは鈍い痛みを発する腕をそのままに、ランタンを持って歩みを再開した。

 風と鳥の合唱は、未だやむことはない。


 開けた場所に館はあった。

 これからとんでもないことをするというのに、ダークブルーの空には小さな星が瞬き続けている。淡い蒼を宿したギバウスムーンは、頭のずっと上に居座っていた。

 どう贔屓目に見ても何も出ないとは保証することのできない館は、何世紀も前に建てられた物らしく、それなりに有名だった。造りこそ豪華なのだが、それでも今まで生きてきた中で、ここまで恐ろしいと感じた物が果たしてあっただろうか……。

 背筋を氷が滑っていくような悪寒が走り抜けた。七分の袖から見える腕が寒いのは、多分秋だからという理由だけじゃない。

 一筋吹いた風は未だに流れ続けている血に当たって、そこだけが無性に冷たかった。

 窓枠から外れかかった両開きの窓が、カタカタとホラー的な音を出しては、開いたり閉まったりを繰り返している。外壁に這いずり回った蔦はもう枯れていて、風が吹くと化け物の微笑のような声をあげた。

 今更だけど、ルゥシャは底知れない恐怖を覚えた。本当に行くの? 本当に入るの? ――同じ言葉を何度も何度も頭の中で反芻して。それなのに結局は悩む甲斐もなく、結論にまでは達しやしない。

 寒いはずなのに額にはびっしりと汗が浮かび上がっていて。そのうちの一滴が、輪郭をなぞって降りていく。しんと静かな場所で、心臓の拍動だけが妙に生々しく感じられ、視界も一緒に脈打つようだった。

 ルゥシャは背丈の短い雑草を踏んで、館の前まで来る。昔はどれだけ豪華で美しかったのだろう。正面玄関は今の時代であっても貴族階級の豪邸でしか見られないような、立派な物だった。

 ただ、今の廃墟と化した形になってしまっては、この不気味さに拍車をかけているとしか思えない。掲げたランタンに照らされて、大きな両開きの扉が、冥界へ通ずる門のように黒く聳えていた。

 本当に気味悪いったらありゃしない。

 ルゥシャは眉根をおもいっきり寄せつつも、丁寧な細工の施してある取っ手に、手を伸ばした。秋風に吹かれた取っ手はひんやりと冷たい。ぐっとその手に力を入れたルゥシャは、朽ちかけたその扉を勢いよく引いた。

 ズッ、ズズッと少しずつ開く扉は、思った以上に質量感がある。片手では到底開ききらないので、ランタンを足元に置くと今度は両手で力一杯引いた。踏ん張る足に力が入る。靴と砂とが擦れ合う音がした。

 少しずつ開いていく空間はいかにも不気味で、心臓が一つ、大きく脈打った。

「誰かいるの?」

「…………ッ!?」

 背後から突然聞こえた声に、ルゥシャの緊張感はいっそう高まった。と、一歩引いた足がランタンに引っかかってしまい空しい音をたてて灯火は闇へと消え入る。

 ハッと後ろを振り返れば、自分と同じぼんやりとしたランタンの灯火を持った誰かが、詰め寄ってくる。その距離が縮まるにつれて、その人がルゥシャの通っている学校の高等部の制服を着ているのが解った。白いスカートが風邪に揺られ、はためいている。

 ルゥシャの心臓は暴れ狂った。彼女は何の躊躇いもなくしっかりとした足取りでルゥシャの方へと歩み、確実に距離を詰めている。

 木々がざわめいた。鳥が飛んでいく音が、やけに大きい。

 どうしよう。もしもここに来ていたことがバレてしまったら――。

 ちらつく灯火を目で追いながら、ルゥシャは足を一歩引いた。ザッと再び靴と砂の擦れ合う音がする。

 掲げられたランタンがすっと上げられ、その灯りがルゥシャの姿を捕らえた。……と。

「……れ? ルゥシャ?」

 もう終わりだ!

 ぎゅっと目を瞑って怒声を覚悟していた。……にもかかわらず、耳には間の抜けた声が入ってくる。恐る恐るルゥシャは瞼を上げると、そこにはよく見知った顔があった。

「シェナじゃん。何だよ、脅かすなって……」

 ホッとしたためか、脱力感が一気に押し寄せてくる。何だか緊張を削がれてしまって、妙にいたたまれない。

 さっきよりも足早に近づいてくるシェナに、ルゥシャはため息をついた。

「どうしたの。昼間はあんなにここに来ることを否定していたのに」

 怒った口ぶりでシェナは言ってくるが、明らかにその顔には安堵の笑みが浮かんでいた。

「やっぱり気になるじゃん、こういうことって」

「じゃあ何であんな頑なに断ったの?」

「リリアは絶対反対派だったろ? そういう奴を無理強いして連れて行くのもなんだし。やっぱりこういうのは自己責任じゃないと荷が重い」

 再び取っ手に手をかけたルゥシャは、手伝ってとシェナを呼んだ。足元にランタンを置いたシェナは軽い足取りでルゥシャの方へと走ってくる。

「でも偶然だね。私たちってやっぱり似た所があるのかな」

「そりゃあね。一緒になって男子を泣かせていたもんな。蛇を持って追いかけて」

「そうだね。でも、教室にゲテモノを放したルゥシャには負けるから」

「ぬかせ」

 重かった扉は軋んだ音をたてながらも、少しずつ開いていく。ぽっかりと空いた空間は暗黒の闇のようで、先はまったく見えない。まるで誰かを飲み込むためだけにあるような印象を与える。

 ランタンを持ってきたシェナに残り火を分けてもらうと、消えたランタンに再び灯りが灯った。二つの灯りを揺らしながら、二人は館の中へと足を踏み入れた。

 館の中は外よりも肌寒かった。ひんやりとした空気は埃臭く、深紅の絨毯も足を動かすたびに、積もった埃が舞い上がる。

 噂に聞いていた豪華なシャンデリアは白い麻布で包まれていた。眼前には王宮かと見間違えるような大理石の階段と、いくつもの部屋に通ずる扉がずらりと並んでいる。どんな貴族が住んでいたんだろうと、余裕があれば考えてみたいものだ。

 広間の中央に棒立ちになりながら、ルゥシャとシェナは視線を巡らせる。吸血鬼探しっていったって、これのどこから探せばいいのやら……。

「ところでシェナ。あんたは何で制服で来たのさ。吸血鬼探しに何か関係でもあるわけ?」

「吸血鬼っていったら十字架でしょ。まさかニンニクのにおいを漂わせて歩いていくわけにもいかないし」

 にこにこ笑っているシェナを一瞥する。だったら十字架だけ持ってくればよかったんじゃ……。という言葉を飲み込んで、ルゥシャはランタンの小さな灯りに照らされた館内をぐるりと見渡した。

「ま、何はともあれじっとしていちゃ始まらないし。とりあえず片っ端から調べてみるか」

「オッケー。じゃあ私は向かって右側を調べてみるから、ルゥシャは反対側をよろしくね」

「解ったよ」

 言うが早いか、ランタンを振り回すんじゃないかという勢いでシェナは右側最奥の部屋へと駆けていった。

 あまりにもこの場に似合わない笑顔を振りまくシェナに苦笑しつつも、ルゥシャは左側最奥の部屋へと歩き出す。

 よく見れば、誰かも解らない肖像画やら静物画、風景画までもがその広い壁に飾ってあった。ここは美術館にでもしたかったのか……? ため息混じりにルゥシャはランタンの灯りを絵画にかざした。ちゃんとしなさいよ、と聞こえてくるシェナの声は、やはり昼間同様スルーして。

「真面目にしないと吸血鬼に後ろを取られるよ。元ガキ大将」

「五月蝿い。あたしがそう簡単に後ろを取られるものか」

 シェナは二つ目の部屋のドアノブに手をかけた。何の躊躇いもなく一気に引く姿が、まあ何とも清々しい。この調子だと早く終えたシェナに、まだ終わらないのかとどやされるに決まっている。

 もう少し絵画を見ていたかった衝動を抑えて、ルゥシャは仕方なくランタンを下ろした。

「さて、最初の部屋はどこですかっと」

「この先の書斎だが?」

「ああそうか。ありがとう、シェナ」

 スタスタとルゥシャは教えられた書斎に向かって歩き出した。

「ハァ? 何がありがとうなの、ルゥシャ。私何も口挿んでないんだけど?」

「冗談もほどほどにしろ。今書斎だって言ったばかりじゃないか」

「っていうか、何で私が部屋の位置を一々把握していなきゃいけないわけ?」

 意味が解らないと呟くシェナに、ルゥシャは眉根を寄せた。意味が解らないのはこっちの方だと。

 最初の部屋の扉を、ルゥシャも何の躊躇いもなく引いた。ランタンで中を照らしてみれば、確かにそこは書斎だった。大きな窓の傍には机が置いてあって、その脇にはガラス戸付きの立派な本棚が置いてある。背表紙に書いてあるタイトルは、ここからではよく解らない。

 ルゥシャはそこに誰もいないことを確認すると、次の部屋へと向かって歩き出した。

「そこは伯爵の仮寝室だ」

「なるほどねえ。いかにもご立派さがうようよしていると思ったら、そういうわけか」

 部屋にはキングサイズのベッドが堂々と置かれている。脇の小テーブルには、ランプがちまっと居座っていた。床に敷いてある絨毯には、よく解らない模様が描かれている。

「……一回寝てみたいものだね」

 これが仮って、一体どんな生活をしたら、こんなに贅沢ができるんだろうか……。

 ルゥシャはたまらず率直な意見を口からこぼしてしまう。

「じゃあ、今夜はお前と一緒に寝るかな」

 耳元ではっきりと聞こえたのは、明らかに少年の声だった。

 ばっと振り返ろうとしたルゥシャの身体を、しかし、いとも簡単に動きを封じてしまう。声をあげようと思った口はその前に塞がれてしまい、くぐもった声をルゥシャは漏らした。

 ランタンがルゥシャの手から離れ、無機質な音をたてて落ちた。再び灯った灯りは再び消えてしまい、その時シェナは、ようやく事態に気付いた。

「ルゥシャ? どうしたの」

 しんとした広間の先は真っ暗で、何も見えない。ルゥシャともう一度声をかけようとした瞬間、扉が閉まる音が聞こえた。

 シェナが慌てて駆け寄ると、そこには灯りのないランタンだけが、転がっていた。



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