ラブソングフロムヘヴン
――天国から聞こえる歌がある。
バン!と叩きつけるように、ニキータが樫材のテーブルに地図を広げた。
ランプ一つっきりの薄暗い部屋に大の男が五人、頭を突き合わせて覗き込む。
互いの輪っかがかち合って、チリンと鈴のような音を立てた。
「いよいよか?」
「あぁ、決行は今日だ」
マリオが笑って頷く。
「ついにここともおさらばだな」
こことは――つまり、天国。俺達は死人。
頭にはぼんやり光る輪っか。服は真っ白いシャツとズボン。
アルベルト、マリオ、ニキータ、JJ。順繰りに見回す顔触れに加えて、俺・マドック。
これでこの作戦に従事する奴は全員だ。
俺達は、作戦を練りに練ってきた。
何の作戦かだって?
決まってる。
天国を脱獄するのさ!
事の始まりは、アルベルトが言った言葉。
「ここから出ようと思う」
ドイツ人のアルベルトは、本当にクソ真面目な奴だったから、俺達は心底驚いた。
「そいつはつまり、脱走するってことか…!?」
「本気かアル!」
アルベルトはゆっくりと頷いた。
「妹に、会いに行きたいんだ」
ぽつりと零した一言に、俺達は揃って黙り込んだ。
マリオは恋人を、アルベルトはたった一人の妹を、それぞれ失くしている。
先立たれたんじゃなくて、置いてきた方。
JJなんかまだ十代だってのに、両親を残して死んじまった。
そして俺とニキータは、愛する妻と娘を置いて、何の因果か天国行き。
俺達は、揃いも揃って若くして家族を残して死んだ、馬鹿野郎仲間さ。
「神様のクソッタレ!」って最初は泣き喚いたさ。皆。
大体同じような時期にやって来た俺達は、お互いさま同士そういうダサいところを全部見ている。
でも、忘れた振りしてやるのが仲間ってもんだし、紳士協定ってヤツだ。
俺達は皆、同じ気持ちを味わってる。愛する誰かを残して来た苦み。
だから、
「娘に、アンナに会いたい、オルガに会いたい」
とニキータが泣き出した時、紳士協定は不要だった。
俺も含め四人共が皆、つられてすすり泣き始めたからだ。
JJなんか雲に突っ伏してわんわん泣いてた。
その肩を、アルベルトはそっと叩いてやった。
「…いいか、私達は天使に見張られてる。だけど天使だって四六時中監視してる訳じゃない。必ず隙間はある」
内緒話のように、ぼそぼそと喋るその静かな声に、俺とマリオは耳を寄せた。
「特に夜。皆が寝静まってからだ。見張りが少ない。そこを狙うんだ」
「狙うってどうやって?」
JJが突然飛び起きた。
おかげでマリオの顎に脳天を強くぶつけて、二人揃って引っくり返った。
その騒ぎを捨て置き、俺とニキータは勢い込んでアルベルトに詰め寄る。
いつもは寡黙な口に続きをせっつくと、アルベルトは一層声を潜めた。
「…協力してくれ。時間が無いんだ」
俺達は顔を見合わせた。
この時俺達はもう、多分本当に脱走するつもりだったんだ。
天国にだってルールがある。
大抵のことは好き勝手してていいけれど、守らなきゃいけない決まりはある。
例えば、天国から出ちゃいけないとか。
俺達死者は、広い広い雲の上で背の高い銀色の柵に囲まれて暮らしてる。
天使達は、俺達の世話や話し相手をしてくれるけど、俺達が地上に逃げて行ったりしないよう見張る役目もあるんだ。
アルベルトの作戦はこうだった。
“暗い夜に、天使の目の届かない辺りの柵をよじ登って乗り越え、雲の上を走って逃げる”。
言うだけなら簡単だが、実行するとなるとそんな楽なものじゃない。
「…まず天使の巡回路を調べよう」
「どこが一番雲の果てに近いのかもだ」
「地図を書かなきゃ。巡回路と距離を書き留めておこう」
アルベルトの話を、俺達は真剣に聞いた。
マリオとJJも、喧嘩を始めるより先に、頭や顎を擦りつつ計画の詳細を話し合った。
生前画家だったニキータが、地図を作った。
「おい、紙と鉛筆貰ってきたぞ」
「本当はキャンバスと絵の具が欲しいんだけどね」
「仕事なら雲の下に置いてきただろ」
「違いない」
木に登って写生しながら、柵の周りと柵から雲の端までの距離を計算して記録する。マリオも手伝った。
俺とJJで、出来上がった絵を繋ぎ合わせて一枚の地図に起こした。
交代で夜更かししながら、天使の巡回時間の記録を取った。
それらを突き合わせて纏めたのは、アルベルト。
アルベルトは軍人だった。でも、本当は小さい頃からずっと料理人になりたかったらしい。
マリオは実家のワイン農場を継ぐはずだったし、JJは元医学生。
皆で地上に居た頃の話なんかしながら、俺達は計画を実行する日取りを相談し続けた。
その日がついにやって来た。
「決行は今晩深夜だ…」
アルベルトが呟く。
雲の縁に日が沈んだばかりの頃。ランプ一つの明かりは、外と変わらない程に薄暗い。
頭を突き合わせながら、ニキータの広げた地図を覗き込む。
「柵を越える地点はここ。木の影か花の間に隠れやすい。
外に出たら真っ直ぐこの方向に走れ。
一旦見張りが通り過ぎてから戻ってくるまで、十五分ある。
急ぐことより、音を立てない方に気をつけろ」
アルベルトが、地図の上を指差しながら説明する。
俺は神妙な顔で頷いて見せた。
「今夜は月も無い。お誂え向きのいい夜だ」
マリオがにやりと笑う。
JJが差し出した拳に、皆が手を重ねて、それで気分も緊張も最高潮になった。
野球の試合直前みたいだ。これからの一番勝負。
俺達は十日間、この作戦を練りに練ってきた。
きっと成功させてみせる。
外へ出た。真夜中。空は真っ暗で星だらけ。
他の住人が寝静まった中、俺達だけが庭を歩く。
頭の光る輪っかは、使い古しの画用紙に包んでズボンの腹に隠した。
庭をうろつくだけなら、何も怖いことは無い。
柵に近付いた頃、そっとニキータが身を潜めた。
「そろそろ天使の見回りだ」
俺達もこぞってそこら辺に隠れる。
暫く身動きせずに待っていると、やがて柵の向こうに白い翼が見えてきた。天使だ。
俺達に気付く筈もないが、握った掌に汗が滲む。
こんなに時間が長く思えたことは無い。天使はゆっくりゆっくり飛んでいるように見える。
遠ざかっていく姿が小さくなるのを見送って。
俺達は一斉に柵に飛び掛った!
細いが頑丈な柵だ。背は高いが、気をつけるのは尖った尖端だけ。
音を立てないように慎重に、だけど素早く、俺達は柵を乗り越える。
一番先にアルベルトが飛び降りた。
次がマリオとニキータ。
俺はJJを待って、一緒に下りる。
後は雲の端まで一目散に走るだけ。
柵の外の雲は凸凹して走りにくかった。
暗い上に慌てているもんだから、何度も足を取られかけた。
と、
「うわぁ!」
JJが転んだ。
静かな夜に、その声は大きく響いた。
前を行く三人が振り返る。
俺は先へ行けと合図した。
後ろを見やる。
JJは飛び起きていたが、もう遅かった。
遠くから凄い速さで白い姿が飛んでくる。
「急げ!」
俺はJJの腕を取って走り出した。
もうどっちへ向かっているのか分からない。きっと三人がいるのとは違う方だろう。
光る翼はぐんぐん追い縋ってくる。
俺とJJは必死で逃げた。
「待ちなさい貴方達!」
天使の怒鳴り声は直ぐ後ろから聞こえたような気がする。
でも絶対止まれない。
先に見える雲の端から、下の世界が覗いた。
真っ暗だ。何も見えない。明かりもない、ぞっとするくらい暗い空。
「怖いよ…」
辿り着いた雲の縁で、JJが言った。
「行かないのか?」
ぜいぜい息切れしながら、辛うじて問う。
「俺は行く」
暗い世界の向こうに、妻と娘がいるんだ。
JJは怯え混じりの、だけど真剣な目で地上を睨んだ。
「よし、行くぞ!」
そして、真っ暗な空へ、二人で飛び込んだ。
「ママー!早くー!」
「はいはい、すぐに行きますって」
真っ白なドレスでおめかしした少女。その手を引く、水色のワンピースの優しげな母親。
小ぶりな花束を抱えて、二人は小高い丘を登り、まだ新しい墓の前へやって来る。
「パパー見てー。今度の発表会に着るドレスよ♪似合う?」
少女はあどけなく墓石に向けてターンし、ふわりと揺れるスカートを見せ付ける。
母親は花束を置いて、その隣にバーボンの瓶と飾り箱を置いた。
箱を開けば、穏やかなメロディが流れ出す。
オルゴールだ。
「楽譜をね、持ち込んで作ってもらったの。どうかしら?上手くできてる?」
問いかける妻は微笑み、
それを見て俺は涙ぐんだ。
耳に届く旋律は、聞き間違えるはずもない。
俺が、死ぬ数日前に書き上げた曲だ。それをオルゴールにしてくれたのか。
そっと隣に気配が並んだ。
俺は涙を拭って、追いついてきた天使に振り向く。
「すまなかった。覚悟はできてる。地獄でもどこへでも連れてってくれ」
天使は憮然とした顔で言った。
「そんなことはしません。私は貴方を連れ帰るだけです」
それから、呆れたようにふと笑う。
「さ、目的は果たしたでしょう?
帰りましょう。他の方々ももう戻ってます」
あぁ、あいつらも捕まったのかと、俺も笑った。
天使に手を引かれ、ふわりと空に浮かんだ時、甲高い声が俺を呼んだ。
「あ、パパー!ママ、パパだよ!
ほらパパがいるよ!天使様と一緒に木の上ー」
今度は我慢なんて無理だった。
頬を落ちる涙には構わず、俺はコーディーに向かって手を振った。
こっちを見上げるエルザにも、大きく手を振る。
娘は俺を指差してるが、妻には見つけられないらしい。
残念だけど、それでも構わない。
少なくとも、俺がここにいたことだけは、愛娘の言葉を信じるだろう。
可愛いコーディー、愛しいエルザ、さよならだ。
さよなら。
元気でね。
パパはずっとふたりを愛してる。
脱走犯たる俺達に科せられた罰は、お尻ペンペン20発。但し衆人環視で。
いい年こいて死ぬ程恥ずかしいわ、野次馬は大喜びの大爆笑だわ。
ほんと天国は平和だぜチクショウ。
戻った俺達は、口々につかの間の帰還の思い出を語り倒す。
「マンマに叱られたよ、こっちでも二股掛けてるってうっかりバレちゃって」
「親戚皆集めてパーティーしたよ。お祭りみたいだった」
「妻と一晩飲み明かしたよ。墓にウォッカも供えてくれた」
アルベルトは脱獄を企てたわけを話した。
「妹の結婚式だったんだ。綺麗な、本当に綺麗な花嫁だった。新郎も優しそうな男でね」
一頻り喋ってから、アルベルトが俺に尋ねた。
「娘さんには会えたかい?」
俺は満面の笑みで頷いた。
それから、びっくりしたことが一つある。
「聞いたんだけどね。天国の住人は来年から年に一回、里帰りしてもよくなるんだってさ。
俺達もちゃんと申請出せばいいって」
脱走されるよりはマシだと天使が語ったと聞いて、俺達は一斉に喝采を上げた。
あれから俺は、時々雲の縁に行って歌を歌う。
耳を離れない、オルゴールの音色にあわせて。
俺の作った、愛しい君の歌。
大切なエルザとコーディーに送る、愛の歌。
天国から響く歌。
ラブソングフォーユーフロムヘブン。
愛する家族のために、
今日も天国から歌を歌おう。
―― 了