冬の女王 (下)
気がつくと公太は静かに冷えた部屋の直中に立ち尽くしていた。
「……は?」
前後不覚とはよく言ったものだ。公太も例に漏れず恐る恐る辺りを見回し、高い天井画にしばし目をやった。
部屋の四隅から垂れる色ガラスのシャンデリアも控え目な装飾ながらいくつもの灯かりが揺れ、辺りを仄明るく照らしている。
贅沢なほどに広い部屋の中央には高い天井から吊り下げられた豪奢な天蓋に覆われた寝具、他の家具や調度品も細部にわたって細工が施され、どれもが贅を凝らした作りとなっていた。
足元を見つめた。光沢のある毛足の長いビロードの絨毯は染みひとつなく、履き古したスニーカーがみすぼらしいほどだった。
公太は慌てて両の手の平を凝視した。確かについさっきまでスノードームと虫めがねを持っていたはずだが、そのどちらも失せていた。
「あれ? えっと……」
公太のすぐ隣に立っていた栄の姿もなく、白い猫の眠る棚も消えていた。
なにがどうなっているのか冷静に思考を巡らせる以前に、公太は急速に冷えていく身体の危機感を覚えた。
寒さを知覚した途端に公太はひとつ震え、両肩を抱いた。
「寒っ!」
公太の装いは半袖のVネックにショート丈のチノパンと、だらだらと先延ばされる残暑を少しでもやりすごすに見合ったものだから、息も凍るほどの氷点下にあっては随分と心許ない。
部屋の外に出ようにも、扉は鍵がかかっているのか押しても引いても開かない。
「なんだってこんなに寒いんだよ! まるで冬じゃないか……」
体の震えは収まらず、歯の根が合わずカチカチと耳障りな音を立てていた。
公太は立派なマントルピースを構えた暖炉を見つけて歓喜した。
目を見張るほどの室内に目もくれることなくいそいそと駆け寄るも、火は入れられていなかった。
さすがに落胆は大きかった。
他に暖を取るものがないかきょろきょろと視線を彷徨わせていると、絹のレースカーテンが揺れてバルコニーへと通じる大きな窓が開いていることに気づいた。
公太は悪態を吐こうとしたが、凍てついた風が首筋を撫でていったせいで妙な奇声を上げる羽目になった。
憤然と窓枠に手をかけ、カーテンの隙間から外を窺った公太はそこでようやく人影を認めた。
風にたゆたう流麗な白髪が、バルコニーに佇む女性の横顔を隠していた。うなじから肩にかけて垣間見える肌は抜けるような白さだ。
身に着ける衣装も白を基調としている。洗練されてはいるが、決して華美ではない。
公太はまるで血の通っていない真っ白な肩と胸元を露わにしたドレスを見るに、目のやり場に困るどころか「寒くないのか」と、なんの色気もない感想しか持てなかった。
病的に白い顔色とは対照的な真っ赤な唇はいっそ場違いなほど艶やかで、憂いを帯びた灰緑色の目がゆっくりと公太を見つめた。
歳は公太よりも少し上くらいだろうか。
目を伏せたその仕草だけで儚げに見えるのは美人の特典だ。それが証拠に、無表情の面輪であっても彼女を褒め称える言葉はごまんとあるだろう。その実、彼女のなにを語るものもないのだが。
「どちら様?」
「あの、塩見公太と言います。気がついたらここにいまして……ええ、ですから」
「そう」
淑女らしい身のこなしで卒なく頷いてはみせたが、まるで公太に興味などないかのように視線を外し、しまいには背を向けてしまった。
バルコニーの手すりに両手を預け、絶え間なく降り続ける雪に見入っていた。
公太も淑女に倣って空を見上げた。のっぺりとした灰色の雪雲から音もなく降り落ちる雪に、店主の言葉は正しかったのだと漠然と納得するも、現実感にはほど遠かった。
「嘘だろ……」
「ここが嘘なら、あなたの存在も嘘になるわね」
背を向けたままではあったが、淑女は公太の独り言にも満たない呟きにも返事をくれた。
最初は小さな気泡でしかなかった感情が次第に湧き立ち、どこかでなにかが振り切れた途端に恐怖が首をもたげた。
「そんなはずない……!」
寒さに震えているのか、それとも恐怖に戦いているのか分からないままにその場で腰を抜かした。
「お帰りならあちらの扉からどうぞ」
淑女が背を向けていて幸いだった。腰を抜かした間抜けな姿など人前に晒したくはない。公太は薄っぺらな体面を固持するように立ち上がった。
「扉が閉まったままのようなんですが、鍵をお持ちですか?」
「鍵……そんなものあったかしら」
涼やかな声音が恨めしい。
寒風吹き荒ぶバルコニーで、薄手のドレスのまま雪見に興じていられる……紛れもない酔狂だ。
大声で喚き散らしたい衝動に駆られたが、見目麗しい女性の前での痴態だけは避けるべく理性が先に立った。
「まさか、あなたもここに閉じ込められているんですか?」
冷たい風と共に雪が舞い込んだ。淑女を取り巻く雪は、まるで淑女を絡め捕る枷のようだとゾッとしないでもない。
突然に現れた公太もそっちのけに、一心不乱に雪を眺める淑女は首を横に振った。否定の意だろうと解釈するしかない。
寒さも限界だった。外よりかはいくらかましな部屋にとって返した公太は再び扉の取っ手に縋りついた。
「一体これはなんなんだよ……! 真夏に凍死するとか、笑えねぇぞ!」
公太は真鍮の取っ手を回して思い切り引いた。先ほどまではビクともしなかった扉がいとも容易く開いたが、扉の向こうは急な螺旋階段へと続いていた。
段差で足場を失い勢い余って転んだ。ぐるぐると渦を巻いて落ち込んでいく螺旋階段に向かって身を投げ出しながらも、公太は転落だけは免れた。それでも顎を強かにぶつけて衝撃と激痛に意識が揺らぎ、倒れ込んだまま唸るしかなかった。
「私は望んでここにいるのよ。ただ雪を眺め、冬が去るのを待っているだけ」
公太の背後から凛然とした声が響いた。
情けなく地面に這いつくばる公太など、足元の石コロほどに一顧だにしない視線を覚悟していたが、淑女は目を細め慈愛に満ちた笑みと共に手を差し出していた。意外なことに、手の平から伝わる体温は温かかった。
嫣然と笑う淑女に手を引かれながら、公太は妙な感慨を覚えた。十全に兼ね備えた淑女を前にして、そもそも邪まな感情など入る余地もない。
公太は恐縮しつつ感謝を述べた。
「足元にお気をつけて」
それが別れの挨拶となった。公太はせめて気の利いた言葉をと、あれやこれやと思い巡らせたが、知己に富んだ洒脱な文言をさらりと返せるほど小器用ではない。
「ではあなたは、春を望んでいるんですね」
考えあぐねた末の公太の言葉に淑女は小首を傾げてから、月並みな表現ではあるが、花が咲いたような笑顔を湛えた。
「春……長らく忘れていた言葉だわ」
と、同時に周りの景色が急速にぼやけ、同じ速さに後方に流れていった。
色が失せていく中で、扉が閉まる音が微かに聞えた。
「どうですか?」
聞き覚えのある声を耳にしても、公太はしばらく反応できなかった。
最初に知覚したのは肌に感じる温度だった。公太は急激な温度変化に目眩を覚え、次いで店員の声にようやく我に返った。
雑然と商品が詰め込まれた狭い店舗を見回し、不思議な目顔を寄越す店主の栄と気持ちよさそうに眠る白猫の姿に、本来公太がいるべき世界であることを理解した。
公太は棚に置かれたマグカップへと自然と手を伸ばし、まだ湯気の消えていない熱い紅茶を一気に飲み干した。冷えた体に染み入る温かさだった。
「もしかして……ついに扉を開いたのですか!? お城の中の様子はどうでしたか? 人は? 人はいましたか?」
公太本人ですら、夢か現か量り兼ねていた。事の顛末を話すべきか逡巡したが、紅茶が冷めないほんの一瞬の出来事を誰が信じるのだと、結局は黙っていることにした。
「はぁ……残念です……」
栄は分かり易いほどに肩を落とした。
「確かによくできたスノードームですよね。かなり古そうだし、骨董品にそれらしい逸話を乗っければ商品に箔がつきますしね」
お手本にしたいくらいの落胆に沈んでいた栄は公太の言葉に得たりとばかりに人差し指を立て、年代物のレジスターが据え置かれたレジカウンターへと駆けていった。カウンター脇の棚を漁り、随分と年季の入った黒い台帳をめくり、細かに書き込まれた一枚に手を止めて項目を指で辿った。さらに辺りを窺う素振りをしてから顔を寄せた。
「スノードームとは全く別物です、形が似ているというだけで。それに、作り話ではありません。城の主は自らの魔法によって、この小さな置物の中で永遠の冬に生きているのです」
声を潜める栄には悪いが、生憎とここには聞かれてまずい客はいない。
「以前にこちらを所有していた方の目録にも記載されています。あれ……その用紙はどこにやったかな」
滔々と語る店主は公太にお構いなく後を続けた。
「冬に囚われた城の主は絶世の美女らしいですよ。一度でいいからご尊顔に預かりたいものです。どうやったら会うことができるのでしょうね……これでも何度か試してみたのです。ガラスの容器を割ろうとしても割れず、勢い余って火を点けても燃えず」
「これ、売り物ですよね?」
栄は一旦言葉を切り、咳払いと共にその場をとりなした。
「行きすぎたきらいは否めませんが、頑なな魔法を解くにはやはり王子様が必要なのでしょうね」
公太は再度、怪しげで胡散臭い店の主を見つめた。邪気もなく店そのものを体現する栄の話は、手垢のついた物語にすぎる。
「でも王道に勝るものはないのです」
普段の公太であれば一笑に付しただろうが、ガラスの向こうにある世界を誰が信じなくても、公太だけは信じることにした。
あるいは、少し変わり者そうな店主の栄だけは手放しで信じてくれるだろうか。
ひとつだけ腑に落ちないとすれば、どういった巡り合わせであちらに足を踏み入れてしまったのだろう。公太はガラスを隔てて雪片の舞う古城でひとり雪を眺める淑女を思い返した。
「冬の女王か」
言い得て妙だ。
生憎と公太は淑女にとって待ち望んでいた王子様ではなかったようだ。
残念だと思う気持ちがないと言えば嘘になるが、白馬に乗れない身の上では潔く辞したほうが恥をかかないで済む。
真剣に語る栄に苦笑いを返した公太は、自身の魔法によって全てを閉じ込めた小さな置物を棚の奥に戻そうとして、ふと思い立って日当たりのいい窓際近くの棚に置いた。
「春になればその王子様とやらも現れるんじゃないでしょうか」
夏の日差しを思う存分に受ける雪がきらきらと輝いていた。記憶の中にある曽祖母のスノードームとまるで同じだと、公太は笑った。