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栄堂奇譚  作者: よしかわ こう
華墨
10/12

華墨



 突然の冷たい雨だった。午後からの急な雨で傘の持ち合わせなどなかった公太はアーケードに駆け込んだ。

 今日の天気予報を信じていた善良な市民の大半は、出先では邪魔になる傘など持参していなかっただろうし、事実、アーケードを雨宿り代わりに駆け込む者が公太以外にも多数いた。

 まったくついていない。

 安傘を買うのはなにかに負けた気がするし、止まないにしても雨脚が鈍るまで時間潰しをすることにした公太は商店街の散策を始めた。といっても、いつもの本屋で立ち読みするか、古き良き昭和の匂い漂う純喫茶「車輪」でコーヒーに似た黒い液体をすすりながら、これはコーヒー以外の何物かだよなと、毎回疑問に思いつつも絶品の卵サンドを頬張るかのどちらかだ。

 あの無愛想な店の主人が作り出す卵サンドだけは称賛に値する。ほのかに甘い味付けで、ハムやレタスなどの余計なものも挟むことなく大口を開けても頬張り切れない分厚い卵サンドを今すぐ食べたくなった公太の目的は決まった。

 味の決め手は料理に注ぐ愛情も不可欠のはずだが、愛想の欠片もない店主の卵サンドの虜となった公太は一度だけお持ち帰りにしたことがある。自宅で食べた卵サンドは美味いのは確かなのだが、なにかが物足りない。

 色レンガをプリントしたクロス、点在する模造の観葉植物や他の調度品も煮出したコーヒーや煙草の匂いが染みついている。同じ歳月をかけて色あせた店内はどこをとっても切り出しても程よくくすみ、それらを等しく内包した純喫茶で味わうからこそ醸し出される風味というものが加味されているのかもしれない。

 車輪の入り口は店と店の間にある、僅かな隙間を無理やり切り出したような間口から続く急階段の二階にあった。公太のような中肉中背の男でも体を横にして慎重に階段を上る必要があるほど狭いのだから、階段の入り口に人が立っていると当然歩を絶たれてしまう。

 そんな狭い間口の前には和装に足元は草履という、階段では足を踏み外す典型の服装、さらには後ろ姿からでもかなりの老齢と思われる。

 どうやら公太と同じ場所を目的としているようだが、壁のような急階段を前に二の足を踏んでいるようだ。

 公太が心配する中、老婦人は果敢にも一歩目を踏み出した。余計なお世話かもしれないが、こんな危なげな階段を設けている車輪のマスターも目の前の老夫人に負けず劣らずの高齢だが、手すりすら設置していないとは、客の安全を軽んじている。

 心穏やかではいられない公太を他所に、老婦人はゆっくりと、しかし着実に上へと向かっている。

 目的地は同じなのだから最悪の場合、公太が下で受け止めるくらいの度量を見せればいい。

 危なげな足取りで老婦人が階段の中ごろまで差しかかったところで、公太も階段を上りはじめた。つかず離れず、前をいく老婦人との距離を計っていると老婦人の足が止まったと同時に勢いよく振り返った。

「階段を上がる女性のすぐ後をついてくるなんて、随分と失礼な方ね」

 公太は老婦人の突然の言動に呆気に取られて足元が疎かになってしまった。次へのステップに足をかけ損ね、おまけに雨に濡れたスニーカーの靴底はよく滑る。大きくバランスを崩した公太は咄嗟に両壁に手をつくことで転落を免れた。

 ほっと息を吐いたのも束の間、こちらを見下ろす老婦人の目に険が増した。

「まぁ、分かりやすいくらいの図星だこと。恥を知りなさい、恥を」

 体勢を立て直した公太は老婦人の言葉をようやく理解し、覗きなんて趣味は持ち合わせていないし、相応の歳の女性ならまだしも――言葉の(あや)だ。その前に和装の中を覗き込むなど至難の業ではないか。

「……僕も喫茶店に向かう途中でして……決して不純な動機があるわけではなく……」

 もにもにと言い訳を並べる公太に対して、老婦人の視線はこれ以上ないほどの剣を滲ませてから憤然と向き直り、店のドアベルを鳴らして店内に消えた。

 公太は急階段の途中でしばしの間固まったまま、自問自答を繰り返していた。結果、歳を重ねているとはいえ、立派な女性に対して不届きな態度を取ってしまったことは重々に反省するとして、このまま店に向かっていいものかどうか悩んでいた。

 先ほどの女性に改めて睨まれるのは嫌だが、このまま踵を返しては覗きという罪を認めてしまったようで居心地が悪い。

 いや、疚しいことはしていない。ここは堂々と車輪の軒をくぐることにした公太は、ドアチャイムを響かせながら店内に足を踏み入れた。

 店内はそれほど広くはない。カウンターテーブルと二人がけのテーブルが五脚並んでいる。そのテーブルとテーブルの間に埃の堆積した観葉植物が間仕切りの代わりを果たし、さらに店内を狭めていた。

 老婦人はカウンター席に座っていた。公太は足音を忍ばせながら、といっても老婦人の真後ろを通るしかないので隠しようもないのだが、老婦人から一番遠いテーブルに腰を据えた。

 不機嫌ではないが、客商売をしている自覚もない不愛想な店主がお冷を持ってきたので、公太はお目当てのコーヒーと卵サンドを注文した。

 卵サンドを食べ終わるまでに雨が止んだら、手土産を持って栄堂に行ってみようか。不意に思い立って、背中を向けた店主に声をかけた。

「あと、卵サンドの持ち帰りもひとつお願いします」

 ささやかな楽しみを胸に、先ほどの老婦人との諍いは忘れよう。

 注文を待つ間、公太は店主と老婦人の会話になんとなく耳を傾けた。どうやら二人は顔馴染みらしく、なるほど、急階段を厭うことなく、わざわざカウンター席に座っているのも頷ける。

「ハツイちゃんもいつものでいいのかい?」

「今日は卵サンドを持ち帰りでお願い。あとは紅茶だけ頂くわ」

「あぁ……もう一年経つのか。わしも店終わりに線香あげに行くか」

「もう十八年よ。早いわねぇ」

「お互いに年取ったもんだね。もうそろそろ迎えに来てくれてもよさそうなものだけど」

「まったくねぇ。私も思い残すことはないんだけど。中々どうして、しぶとく生きてるわ」

 店主はまったくだとカラカラと笑い、一方の老婦人も楚々と笑った。

 ご老人特有の死に対する達観だろうか。二十そこそこの公太は死そのもの自体が曖昧だ。死は怖いものだと漠然と感じる一方で、まだまだ先の話だとそれ以上の考えは及ばない。若いからといって病気にならない確約もないし、事故に遭わないとも限らないのだが、やはり差し迫った問題ではない。

 酸いも甘いも、清濁を含めて年を重ねた人特有の含蓄、いや、枯淡にも似た会話だった。

 程なくして運ばれてきた黒い液体と卵サンドを胃袋に収めつつ、店主と老婦人の他愛のない世間話を音楽代わりに、窓越しから望む街並みが薄日に照らされていることに気づいた。

 雨はすっかりと止んでいた。薄雲の間からは光の筋が幾本も差し込み、憂鬱な午後を静かに彩っている。

 雨に降られるのも悪くはない。思いがけず至福の一時を得られたばかりか、久しぶりに食べた卵サンドはやはり美味かった。

 奇しくも同じ持ち帰り用の卵サンドを手にした老婦人は先に退店した。公太は公太で、栄堂に向かう口実でもある卵サンドを小脇に抱えてすぐにでも会計を済ませたかったが、階段での悶着を思い返せば、きっちり三分を費やしてから店を後にした。

 足取りも軽やかに、栄堂の軒をくぐった公太は弾まんばかりに「こんにちは」と来店を告げた。

 出迎えてくれたのはこの時間には珍しく招き猫として店番をしている白猫と、フィリッパだった。

「今日もまた、お喋りをしにきたの」

 フィリッパは白猫の腹を枕に午睡に耽っていたようで、思い返せば悪魔だなんだと騒ぎ立てていた割には現金なものだ。小人たちいわく、冬場の時計内はすこぶる冷えるとのこと。毛皮の温もりには抗えないようで、悪魔の腹を借りて暖を取るとは――白猫も別段気にする風でもない。

「今日は美味しいお土産を持参しましたから」

「後で味見をしよう……」

 食べ物には目がない小さな職人だが、暖房いらずの毛玉に体を摺り寄せ、やがて静かな寝息を立て始めた。

 栄堂の店主の姿は見えない。公太は店の奥の居住空間のほうを覗きこんだ。栄の住居は典型的な日本家屋の間取りとなっており、居間の奥の続き間は仏間になっている。そこに栄の後ろ姿と、あともうひとり。

 仏壇に向かっていた栄が振り返ると、相手も倣った。

 あっと声を上げた公太は慌てて口を押え、喫茶店に向かう階段途中で痴漢だと非難してきた老婦人も細い眉を神経質に上げた。

「あら、お知り合いなの」

 老婦人の声音は寒風よりも冷たかった。

「ええ、店によくお出でくださいます」

 公太はぺこりと頭を下げた。

「塩見公太と申します」

 不審者然を探る目から、一転して塩見何某という輩を吟味する眼差しに変わった。まじまじと値踏みされる公太の背中は否応なく伸びた。

「足繁くお店に通う割には、骨董好きには見受けられないわね」

 頗る勘がいい。この場合は年の功と呼ぶに相応しい。

 邪まな気持ち半分、公太は意味もなく済みませんと謝った。

「随分と助けられているんですよ。ひとりではなにかと手に余る作業も手伝っていただいて。そうそう、店先の大時計も塩見さんに運んでもくださったんですよ」

 栄堂の店主だけがニコニコと邪気もない。

「あら、そう」

 老婦人はまったくといっていい、興味のない一言と共に仏壇に向き直った。

「こちらは金沢ハツイさんです。祖父とは幼馴染の方で、今日は祖父の命日なのです。祖父の大好物の卵サンドまで持参していただいて、本当にありがとうございます」

 あぁ、世間は狭いし、こんな偶然もあるものだな。喫茶店での会話は意外にも栄堂に帰結していたらしい。

「こんな偶然も中々ないとは思いますが」

 なんとなく仏間に通された公太も卵サンドをお供えしてから、一応は栄のための卵サンドだったはずだが、粛々と手を合わせた。




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