表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妙薬はホムンクルス  作者: 滝田利宇
第一章
5/17

屍の上に生まれたもの



 ミレーネは、産声とも断末魔の叫びともつかない、誰かの悲鳴を聞いた。驚きすぐさま飛び起きた。

 どろどろした悪魔の鉄が皮膚の内側に流し込まれるような、痛みはないのに気持ちの悪い感触が全身を食いつくすようにむしばんだ。ふいに自分が何者かわからなくなるような危機感に苛まれた。


 自分は「ここ」にいるのか。この身がほかならぬ自分のものだと、はたして言えるのか。「あれ」は自分なのか。


 夢というにはあまりに生々しい夢を見た。まるで昨日の夜、本当に体験したことのようだ。それは一晩のうちに、ほかでもない己の手で次々と人を殺めていく悪魔のごとき所業。

 自我がかすみそうな不安と得体のしれないおぞましさに体は震え、口内に広がる誰かの血の味が思い出されて吐き気を催す。口元を押さえたが、漏れ出たのは小さなうめきだけだった。


 突然ミレーネは激しい頭痛に襲われる。脳みそを直接握られ、中身をぐちゃぐちゃにかき回されるような痛み。


(――痛い! もうやめて!)

 叫びそうになった瞬間、頭の中に、ある少女の記憶がなだれ込んできた。


「……っ!」


 その少女は貧民街に暮らす孤児で、一人の弟がいた。


 ある日突然、白いローブを着た男が、騎士風の一団を引き連れてきた。慈悲深き神からの施しを与えようとローブの男が高らかに宣言するなり、一団が炊き出しを始めた。いくら彼らが怪しくても、空腹にはあらがえない。香草がたっぷり入った温かいスープの匂いが、貧しい人々をひきつけた。そこを影から現れた騎士たちに取り押さえられた。痩せ細った腕では、屈強な男たちの前には無力だった。かろうじて逃がすことができた弟は無事だろうか。


 捕らえられた者たちは狭い牢に入れられた。何人も押し込まれ、窒息死する子供や老人もいた。生きている人も、どこかに連れられていき、二度と帰らなかった。骨が折れたまま手当てなしに放置されたもの。母親と引き離された乳幼児たち。汚物が片隅にこびりついた牢の中は、うめき声や泣き声と、すえた臭いに満ちていた。腐敗した空間は、だんだん静かになっていく。若い母親が連れ出されていった。少女は膝を抱えて自分の番を待った。抵抗すればどうなるかは散々見たので、何もしなかった。


 そのあとは、不可思議な儀式により理性を封じられ、人間ではない何者かになり、二人の男の傀儡(かいらい)となった。


 一人はミレーネの知る男だった。その男の声が横から聞こえた。


「目覚めたか」


 ミレーネはびくっとして、声のしたほうを向いた。


「美しい」


 ヒギンズの感嘆は、人間の美しさを褒め称えるものではない。たったいま脳に焼き付けられた少女の凄惨な過去と激しい頭痛にミレーネは目を泣き腫らし、顔は絶望に歪んでいた。

 ところがヒギンズは、あくまで「美しい芸術作品」に語りかけた。


「お前を見ると、出会った時のことを思い出す。どうやら少し幼くなってしまったが、これでいい。完璧な美をとどめている」


 ミレーネは自分が裸であることに気づき、とっさに両腕で胸と恥部を隠した。そのときヒギンズに言われた「幼い」の意味がわかった。豊かな乳房も記憶より小さく、陰毛も薄い。背も心なしか縮んだ気がする。

 ほの暗い石室の床に座り込むミレーネの目には、はっきり恐怖と困惑の色が浮かんでいた。何かを口にすべきなのに、言葉が出ない。


「どうした……? なぜおびえる。まさか自我が残ったというのか? そんな馬鹿な……」


 そのままぶつぶつと興奮気味にまくしたてるヒギンズは、ミレーネの知る無口で無感情な男とは思えなかった。


「だがよい!」


 唐突にヒギンズは諸手を挙げて大声を張り上げた。ミレーネは小さくなった体をさらに縮こまらせた。


「人としての理性をもちながら、人を超えし者! 死の理から外れ、永遠に高みを上り続ける究極の存在! あやつの口癖ではないが、素晴らしい!」


 ふっと蝋燭(ろうそく)の火を吹き消したように静まると、やがてヒギンズは尋ねた。


「至高のホムンクルスよ、お前の望みはなんだ」


 ミレーネの口がぱくぱくと開閉する。自分のことをホムンクルスと呼んだ。いったいそれは何なのか。自分はどうしてここにいるのか。何をされたのか。これから何をするのか。むしろヒギンズは何を望むのか。聞きたいことが山ほどあるのに、言葉が紡げない。


「まあ、よかろう。まずはお前の能力を試すことから始めよう。いたぶる趣味はないから安心しろ」


 いつまでも何も言えずにすくむミレーネにヒギンズが近づいてくる。その手には濃緑色の丸い石が握られている。無詠唱の魔法を駆使して全力でこの場から逃げるという選択もある。いつものミレーネなら実行できたはずだ。だが、体が硬直して床にへたったまま後ずさることもできない。どうすればいいのか、ミレーネがなけなしの力で唇をかみしめた時。






「ミレーネ!」


 来てくれたのは、まさしくミレーネの望みに違いなかった。

 階段を駆け下りたロイドは息を切らしながら部屋に突入し、裸でおびえるミレーネと入り口そばのヒギンズをすばやく確認すると、ヒギンズの胸倉をつかんで壁に押し付けた。


「どういうことだ!」


 ヒギンズは闖入者(ちんにゅうしゃ)の暴力と怒声にひるむことなく、じろりと(にら)み返した。


「それはわたしのほうが聞きたいな。どうしてここに、ぐっ……」


 最後まで言わせず、ヒギンズの首元を締め上げるロイドの手に力が込められた。


「聞いているのは俺ですよ。ミレーネに何をした」


 怒りの炎とそれを冷たくあしらう氷の声が響きあう。一瞬だけ、恩師に対する敬意を見せたロイドだが、今は怒りに任せて粗暴にふるまった。血の気が失せて、息苦しいはずのヒギンズはなおも泰然とした態度を崩さない。どこからそんな感情がわくのか、余裕の笑みさえ浮かべていた。


「彼女はホムンクルスとして生まれ変わったのだ」

「何?」

「そこにいるのはお前の知るミレーネではない」


 ロイドは手に力を込めたまま、ヒギンズから視線を外す。

 どういうことなのか、と問うロイドの顔を見た時、ミレーネは初めて彼の名前をか細い声で呼んだ。


「ロイド」

「……ミレーネか?」

「うん、……わたしはミレーネだよ」

「そうか。俺が求婚したときの言葉を覚えているか?」


 これからまた求婚するみたいに真剣な表情で、ロイドはそんなことを聞いた。ミレーネは場違いにもくすりと笑ってしまった。さっきまでの吐き気や頭痛が嘘のように治まっていた。ミレーネが力ない笑顔でロイドを見つめると、心が安堵に満たされ、ようやく彼女の存在が輪郭を持つように確かになった気がした。


「こんな時に何言ってるの? …………『俺はお前なしじゃ、どんな薬があっても生きられない。万能の薬は俺にとってお前しかない。結婚してくれ』だっけ? ついでにわたしの答えが、『最後の一言で十分』とかなんとか」


 ロイドはその答えにうなずく。


「生前の記憶は保存されているようだな」ヒギンズが水を差した。

「は?」

「ロイドよ、おぬしはなぜ医学を学び、医術を施す」

「それは……」


 思いもよらぬヒギンズの問いにロイドの手が緩み、わずかに視線が目の前の老人からそれる。今にも殴り掛かりそうだった勢いがそがれた。剣呑な成り行きを見守るミレーネは、さっきまでのロイドが怖いと思うと同時に頼もしくも感じた。ヒギンズがすぐにミレーネを脅かす意図を持ち合わせないとしても、ロイドには油断なく対峙してもらいたかった。

 ヒギンズは仮面を外したように、酷薄な笑みに顔をゆがませ、右手で鈍く光る緑の石をもてあそんでいた。




「それは、おぬしの人間愛ゆえか? 陳腐なことを言わせてもらおう。人はいつか死ぬ。死の苦しみを和らげることはできても、死の運命に逆らうことはできぬ。死に寄り添うことはできても、死に抗うことはできぬ。死は平等主義だ。王も聖職者も浮浪者も貴賤の区別なく死は訪れる。人生を謳歌するための機会の不平等について論ずる余地はあろうが、最終的には同じだ。幸福も尊厳も富も墓場には持って行けぬ。わたしは影神論者でな。墓場の先の世界などどうでもよい。さて、答えは出たか? 人を、なぜ生かそうとする? その行為の価値を問うているのではない。意味を問うている」


「さっきから何がいいたいんだ」


 ロイドがいらだたしそうにヒギンズをにらんだ。ミレーネも少し冷めた頭で、ヒギンズのぶった死生観と質問の微妙な食い違いに違和感を覚えた。治療に限らず苦しむ誰かを救うことは人として当たり前の行為で、人の生き死にと密接な行為とはいえ、医療行為と死が不可避なこととは別の次元の話だ。よもやヒギンズの年で世をはかなむとか、急に死が恐ろしくなるといったことはないように思われたし、あるとしても頑健な老人には似つかわしくなかった。



「言葉の通りだ。おっと、わたしの忠告を聞かねば彼女にかかわることだぞ? 二度はいわぬ。彼女は一度死に、そして生まれ変わった。人ではないものとして。その意味が知りたければ、彼女と共に生きてみよ」


 いきなり話題に上がったミレーネはわずかに身じろぎして、警戒心を強めた。体が動くようになったことに意識を向ける間もなく、ヒギンズに「少女の記憶もあるか」と聞かれ、それに小さくうなずいた。


「ならば、ホムンクルスについても彼女に聞くがよい。王城の事件についても同様だ。わたしはその関係者ゆえ、これで失礼する」


 最後は言いきらないうちにヒギンズは右手の石をロイドに突き出し、それが強く発光したかと思うと、瞬く間にロイドがミレーネのそばまで吹き飛ばされた。


「ロイド!」


 すかさずロイドは体を起こして、大丈夫というように右手を挙げつつ、もう片方の手で腹を押さえていた。すでにヒギンズの姿は消えていた。ロイドはせき込みながら、骨に損傷のないことを確かめた。ロイドを吹き飛ばしたあれは風の魔法だった。ミレーネという例外を除き、魔法に呪文の詠唱が必要なのはヒギンズも変わらない。緑色に光る石に魔力を込め、魔法を発動させたのだ。それ自体が例外的な技術だが、ヒギンズであれば可能にしそうだった。


「わたし、追いかける!」

「待て!」


 ロイドは上着を脱いで立ち上がりかけたミレーネに投げた。かすかにロイドの匂いがする、温もりの残るそれを羽織って、ミレーネはくしゃみをした。ロイドに抱きしめられて初めて、自分が凍えていたことに気が付いた。


「あ、ありがとう」

「無事でよかった」

「ごめん。ロイドもけがない?」

「問題ない」


 しばらくの間、二人はそのまま互いの温もりを確かめ合った。緊張で固くなっていたミレーネの体が、ロイドの腕の中でほどよく脱力していった。


「ロイド、大丈夫だよ。もう落ち着いたから」

「もうちょっと待て。俺がまだ」

「……気持ちはすごくわかるけど、状況の確認をしなきゃ。ひげもじゃはあきらめるとしても、急いだほうがいい」

「そうか、そうだな」


 名残惜しそうに離れて、ロイドは聞きにくそうに口を開いた。


「なんか、……小さくなったか?」

「うん。それも含めて説明する。なんで説明できるのかも説明するから」


 ロイドたちがいたのは、ヒギンズの工房の地下室だった。ミレーネは毛布を拝借して、上着の上からくるまった。暖炉に魔法で火をつけ、薪をくべる。ロイドに熱しても安全な石を見つけてもらい、暖炉に入れた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ