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妙薬はホムンクルス  作者: 滝田利宇
第二章
16/17

秘密ぽろぽろ



 ミレーネが宿の部屋に戻ると、心配そうなロイドに何があったかと聞かれた。ロイドがそれほど怒っていないのを意外に思いながらも、旅で初めての逗留初日に「遅くなるかも」は心配かけるかと思い直した。

 とある「しつこい男」への手痛いしっぺ返しの話を聞いたロイドは、同じ男として、ミレーネの標的にされた見知らぬ若者に同情した。そしていつにもましてあきれ返っていた。ゼノンには少し早い話だったらしく、聞いているうちに寝てしまった。なお、話の結末は話者により若干修正された。


「よくもまあ、やるよな。そんなこと」

「友のため、うさばらしのため」


 ロイドは眉間にしわを寄せる。


「動機はそれでもいい。いや、よくはないが、お前の意思を変えるつもりもないし、俺にもできない。だけど、いつでも行動の結果がうまくいくとは限らないんだ。あまり無茶はしないでくれ」


 本気で心配されているなあ、とミレーネは申し訳なさよりも嬉しくなった。どんな無茶をしても、ロイドは愛想を尽かすことなくそばにいてくれる。怒鳴ったり、行動を制限しようとしたりしない。それがわかっていても、ついつい生意気な口をきいてしまう。


「わたしは必要なことだったら無茶でもする」

(かわいくない。けど、それがわたし)

「わかった。ふらふらどっかに行くのが止められないのはわかった。だからちゃんと戻ってこい」


 たいていはロイドから折れる。


「戻ってきたじゃん。書置きもしたし、子供じゃないんだから。何? わたしがほかの男の人のところに行くのが不安?」


 最後はからかう口調になっていた。


「当たり前だ」


 ロイドがむすっとしてベッドに入ったのを、ミレーネはくすっと笑って眺めた。はっきりと不安や心配を口にされてはこれ以上いじることができなかった。ミレーネはロイドに「ごめんね」と耳打ちして、頬にキスをした。

 ミレーネは服を脱いで、湯で湿らせた布で体をふいた。ワイブだましに活躍した「妹」になり、常に体にかけている魔法を解くと、しばし解放感に浸った。下着を身に付け蝋燭の火を吹き消した。小さいベッドが二つしかないので、ゼノンのいるほうに潜り込んだ。朝にはいつも通り抱き枕にされていたゼノンが寝苦しいと抗議したので、冬の間だけと約束をした。




 ロイドは個人的に本の売買を所望する学者のところに出かけた。本の多くは表紙が手垢で光り、端は擦り切れてぼろくなっている。しかし外装は傷んでいるように見えても、中身の状態はよい。独特の移り香が気になるものの、管理が行き届いていて虫食いがほとんどない。中身を大事にしてくれる個人のほうが色を付けて引き取ってくれることも多い。ロイドは本屋や書籍商を通さずに本の売買や譲渡、交換をしたほうが得だという。専門の商人は値切ることを忘れないからだ。


 ミレーネはゼノンを連れてイザイラの宿に出向くと、リーゼが入り口で待ち構えていた。


「聞いたわよ。子供はともかく、いつ妹なんてできたのかしらね」


 驚くべき耳の早さだった。リーゼはミレーネそっくりの少女について半日足らずで知り得ていた。ミレーネとゼノンを宿の空き部屋に引っ張り込むと、根掘り葉掘り尋問してきた。まず、ゼノンについては家庭の事情で養子にしたことを悪びれずに説明した。本人もミレーネの無言の圧力――文字通り後ろからきつく抱きしめられること――で首を縦に振らされていたので、リーゼもとやかくいわなかった。それもそのはずで、リーゼの関心は完全に「ミレーユ」のことにあった。大人が子供を引き取るのと、大人になってから隠し姉妹が現れるのではわけがちがう。


「えー、妹とは?」

「とぼけんじゃないわよ。ミレーネちゃんみたいに目立つ人がそう見間違われると思う? 証拠は挙がってんの。(しら)を切りとおすつもりなら、不本意だけど、あのワイブを連れてくるわよ」

「それはわたしを見間違えたのでは?」

「いくら若作りしてもミレーネちゃんが十四、五歳は無理があるわ」

「リーゼならともかく」

「黙りなさい」


 ミレーネは大げさにため息を吐いた。お得意のでっち上げがリーゼには通用しない。それを覚悟せざるを得ない瞬間だった。


「リーゼが絶対に誰にも」

「いわない」

「ほんとに?」

「約束するわ」

「墓場までこの秘密をもっていける?」

「くどい。あなたの妹何者よ。いい? 口の堅さにかけてあたしの右に出るものはないの」

「たしかに、口の悪さは」ミレーネがおっかぶせるように決めつける。

「いいかげん茶化すのはやめて。あのさ、あたしそんなに信頼ない?」


 リーゼがじっとミレーネの目を見た。


「信頼してるよ、正直な話。じゃあ、最後に、……そうだ、親を人質にとられても明かさない?」

「……ねえ、どんだけ重いの。なんだか聴くの怖くなってきた」


 ここまで問答を繰り返してから、ミレーネはリーゼを脅すのをやめた。


「ごめんね。そこまでは要求しない。ただ、わたし自身が厄介ごとの種だから、他人を巻き込んで後悔したくないからね」

「いいわよ、そこまで教えたくないなら」


 リーゼはあっさりとこの話題から手を引こうとした。


「え、そんなに簡単にあきらめていいの?」

「いいの。ちょっと残念だけど」


 一気に押してそれから退却の姿勢を見せて待ちかまている戦法かもしれない。推測の当否はともかく、ミレーネは最初からリーゼなら大丈夫な気がしていた。昨日まではあのワイブリードを相手に猫かぶりを続けていたようだし、舌鋒鋭く追及する胆力も、危険に踏み込まない慎重さも備えている。そのあたり類が友を呼んだのか、友に染められたのか、ヘビの子はヘビなのかはわからない。「あなたには嫉妬するのもいろんな意味で馬鹿らしい」とは、十歳のリーゼの談。昔から世間ずれした子供だった。口の悪さも、単に気が置けないミレーネ相手だから。角を立てない身の処し方ならお手の物。ただし恋愛がらみは別の模様。


「そうだ」ミレーネが晴々した顔になる。

「昨日いってた『決まった人』のこと教えてくれるならいいよ」

「あんなの出まかせ。ワイブがうっとうしいから出まかせいったに決まってるでしょ」


 リーゼに動揺した様子はない。しかし、形成は逆転していた。

 ミレーネの腕の中で人型暖炉が小動物のように身を震わせ逃げ出そうとしたが、すでにがっちりと押さえられていた。


「ふっふっふ、白を切ろうたって無理ですぜ、お嬢さん。証拠は挙がってんでさあ」

「気持ち悪いからふつうに話しなさいよ。証拠って何」

「昨日見たよ。買い物籠の中に手紙が入ってたの」


 リーゼの眉がぴくりとはねた。


「あれは取引の書類とかじゃなかった。お相手は知らない男の人だったなあ。ワイブなわけないし。それにずいぶんと長い間お買いものしてた割に荷物は少なかったよね」


 本当は宛名など見ていない。ミレーネは盛大に鎌をかけていた。


「……人の荷物勝手に見ないでくれる? もう、いいわ。どうせいつか話してたし。それで妹さんに会わせてくれる?」

「もちろん」


 それからリーゼは最近親しくなった「彼」のことを話した。その彼はどことなく品があり、制度や法律に明るいらしい。ミレーネは思わず口をはさんだ。


「まさか」

「ちがうって。この期に及んでありえないわよ」


 仕事に関しては、あきらめの悪い努力家であるという。その彼の職業が医学に関すると聞いた時には、ミレーネは再び口を開いていた。


「まさか」

「ちがうって。この前まで二人一緒に王都にいたでしょうが」


 リーゼの話は中断を挟みながらも淡々と続く。それは淡々と。つまらなく感じたミレーネは意味もなく「まさか」と口走りだした。

 リーゼが彼とのなれそめや彼の人間性についてあまりに冷徹に客観視しているので、ミレーネは自分を棚に上げて、これが乙女でいいのかと心配した。はにかみながらの「かっこいい」など当然ない。顔色一つ変えず、具体的な事柄への言及をするりと避ける。今が旬の惚れ話のはずが、不祥事をもみ消す事務報告に聞こえる不思議にミレーネは驚愕した。


「まさか」

「今度は何よ」

「架空の恋人じゃないよね?」


 本心からの率直な疑問にリーゼが怒り、ミレーネはほっとした。


「んでー、その人の名前は?」

「いいじゃない、別に」

「それこそいいでしょ、教えても。どっちみち結婚するなら、わたしも知ることになるし」

「結婚するかはまだ」

「あー、うちの妹が会いたくないっていってるー」

「はいはい、セオドールよ」

「なんて?」

「セオドール」

「珍しい響き」

「カチーシの生まれらしいわ」

「ふーん」


 カチーシといえばアウザ王国の隣国、ロディア帝国の一地方だ。カチーシが穀倉地帯であること、ビールがうまいらしいということしかミレーネは知らない。


「ほら、そっちの番」


 ミレーネはうなずくと、ぬいぐるみと化したゼノンを下ろした。そして太ももをとんとんたたいてほぐした。リーゼも面白半分にゼノンを膝に乗せようとしたが、逃げられた。小さな自分がゼノンを抱えると正面が見づらいことに気付いたのか、すぐに追い詰めるのをやめた。おちび二人がちょろちょろしている間に、ミレーネは「妹」になっていた。姿を変えずに年齢を変えるだけなら魔法的な白い光は出さないようにできる。


「こんにちは、妹のミレーユあらためミレーネです」


 ゼノンから視線をもどしたリーゼは「え」と小さく漏らした。しばらくあいた口がふさがらなくなっていたリーゼだが、すぐに気を取り戻した。


「――ミレーネちゃん?」

「そうだよ。魔法の一種だと思って。たぶんわたししか使えない秘密の魔法」


 ミレーネの変化は魔法ではなく、ホムンクルスの能力によるものだが、魔法に疎いリーゼから見たらどちらも一緒だ。


「子供に化ける魔法?」

「そんなもん、かな。もっと小さくもなれる」

「へえ。……若返りってこと。めちゃくちゃ反則じゃない」


 それきりリーゼは口をつぐんでしまった。やはり不気味に思われただろうか。不安げにミレーネがリーゼの顔を注視すると、厳しい表情で胸元をじっくり観察されていた。


「この体型も魔法なら納得ね」


 思いがけずミレーネの正体が暴かれた。虚を衝かれて言葉を失っていると、「気にすることないのに。あたしだって気にしてないし」と一転して明るい笑顔で慰められた。


「そう、かな?」

「そうそう。自分を完ぺきに見せたがる気持ちもわからないではないけどね。なまじ外面がいいから現実の自分に妥協できない、というか、許せない。余計なこだわりっていうか、ほんとはどうでもいいことまで欠点なんだとか思い込んじゃう。でも、そんなことない。あたしとしては、ミレーネちゃんにも人間らしいとこあるんだって思えて、逆に親しみわいたし。まあ、魔法の分でまた人間離れしちゃった感あるけど。だからね、ありきたりだけど、飾らないそのままが一番なのよ。変な意地張ってないでごまかす魔法解いちゃえば?」


 わかる、わかると、しきりに同情を寄せるリーゼ。

 ミレーネはしばらく悩んだ末に、胸を押しつぶしていた〈圧縮〉を解除した。いまだ肉付きの薄い少女の体にいよいよ不自然な大きさの膨らみが現れる。


「は?」


 しんとした部屋で、ゼノンが独り気まずそうに窓の外を眺めていた。


「あたしの話聞いてた? また魔法で水増ししてどうすんの?」

「え、これで素だよ」


 ミレーネは服の生地を伸びきらせている盛り上がりを持ち上げたり寄せたりしながら、収まりの良い位置を探っていた。


「……意味がわからない」


 妹を紹介した時以上に、リーゼは唖然とした。理解に苦しむが、今まで見えていたのは、水面に浮かぶ氷の一角だったということだ。

 ミレーネは恥ずかしそうに腕を組んだが、リーゼは歴然とした差を見せつけられている気分になった。


「そのね、小さいころ、ロイドからちゃんと魔法を教えてもらう前に、出来心で〈促成〉を自分にかけたのが原因だと思う。なんでか解けなくなって効果が続いて、育ちすぎてだんだん邪魔になるし、……いろいろあれだから、ずっと〈圧縮〉かけっぱなしで押さえてたんだけど」

「ならしっかりしまっておきなさい」


 いわれたとおりミレーネが自分の手と〈圧縮〉で胸をぐっと押し込める。なんとか早熟な少女で済まされる程度になった。ミレーネは突然の窮屈さにぎゅっと目をつぶった。


「……ちょっと頭痛いから休ませて。――ああ、アホらしい。わかってたのに、どうせあたしは変わらないって。何とっくに終わった悩みぶり返してんの、くだらない。…………泣きたい。泣かせて……」


 ずるずるとベッドにもぐりこむリーゼが不憫になり、ミレーネはあえてゼノンくらいの年に幼くなってみた。壁向けに寝転がったまま、ちらりとリーゼがそれを見た。


「……もう、魔法とかいい。おちびちゃん、落ち着かないからおバカなウシさんに戻っていいのよ。……あ、やっぱりあたしに魔法かけてみてくれない」

「ご、ごめん。やろうと思ってもできない」


 あの〈促成〉は失敗だった。この魔法は本来、植物にしか効果がない。もし同じことができるとしても、ミレーネはそれをする気がない。ちんまりしたかわいいリーゼを自分のような気持ち悪い体にしたくない、と本気で思っている。


「あっそ……」


 リーゼは壁に向かってぼそぼそと祈りを唱え始めた。「富める者は貧しきものを見下して心の中であざけり笑います。しかしあなたはこうおっしゃる。貧しきものはさいわいなり。富めるものはいつか失う恐怖におびえて心休まることがない。ああ、神よ。弱きもの、貧しきものを救いたまえ。傲慢なものをくじき、地にひれ伏させたまえ。嘘をつくもの、男をみだりに惑わす女はあなたのみわざを知ることがないでしょう」


 個人攻撃的な祈りは延々と続く。祈祷書の文句を器用に誤用できるなあ、とミレーネは苦笑いした。


「リーゼは動物好きだっけ?」


 呪うような祈りがぴたりとやむ。


「汚いから嫌い」

「世の中にはきれい好きな動物もいるんだよ」


 元気づけようとして空回りしたらどうしよう、と不安がりながら、ミレーネはやってみることにした。




 けっきょくミレーネの不安は当たらなかった。観客にゼノンが加わり、見世物の珍獣扱いを受けた。


「タカってけっこう重いのね」


 リーゼは大いにはしゃいでいた。いつもしかめっつらの少女が童心を取り戻したように、触らせて触らせてとせがんできたので、ミレーネはとまどった。すでに一通りの動物変化を見ていたゼノンもリーゼの興奮っぷりにやや引いていた。


「何この謎生物。楽しすぎる!」

「……元気出してくれてうれしいよ」


 少し疲れた面持ちのミレーネが用は済んだと思ってゼノンの手を引くと、リーゼは昨晩のワイブリードとの悶着のことで留め置こうとした。リーゼとの縁切りはあいつ自ら宣言した、ついでにちょっと矯正してやった、とかいつまんで話す。店の中でズボンはいでやった方法はこんな感じ、と風を送って床の塵を隅っこに固めてみせた。変身とは異なる魔法にリーゼは再び目を輝かせた。


「もしかしてミレーネちゃん魔術師としてすごい? 強い? 腹黒い?」

「お願いだから広めないでね」


 早口で飛んでくる質問には答えず、ミレーネは口元に人差し指を当てた。


「そんな野暮じゃないわよ。害虫駆除のお礼に、他言はしない。面白いものも見せてくれたし。それにしたって神様のどこが公平なの。ひいきしまくりじゃない。こんな悪女にこんな力持たせて何考えちゃってんの、神様とやらは。天使の皮をかぶった悪魔が、ああ、おめでとう、ロイドさん。あなたは本当にいい買い物したわ」

「あ、ありがと。ちょっと落ち着いて。ほら、下でイザイラさんが呼んでるよ」


 この一件を機に、ミレーネは魔法に対する認識を少し改めた。ミレーネにとって水や空気のようなものが、ゼノンにもリーゼにも宝石か何かのように思えてならないらしい。怖いというより、珍しい、近くで見たい。魔法を持たない一般人の感覚をミレーネは忘れかけていたと自認した。




 それから午後の時間は、ミレーネはゼノンと一緒にココルトの町を観光した。


 豊富な石材が優秀な遍歴の石工を呼び、一部が定着する。鉄もとれるから鍛冶屋の腕もなる。鍛冶屋の近隣には卸先の兜屋、武具屋、刀剣屋がある。港から王都への中継地として、人だけでなく金も集まる。資金の潤沢な教会や権力者が石工や大工、細工師に造らせた見事な建物がひしめく。さらに人出の多さに呼応して町全体が活気づく。その猥雑さは王都の祭りを彷彿とさせた。

 ミレーネはゼノンの手をつないで喧騒に満ちた通りをそぞろ歩いた。冬なのにミレーネの手がしっとりしているのはどうしてだろうとゼノンは思った。

 余興の長い大道芸人。神の偉大さを説く説教師。彼を囲む遊学生や熱心な信者は暇なのだろう。怪しくても買い手のつく装飾品。どさっと麻袋やこりを下ろす音。遠い異国の言葉で交わされる商談。金づちをふるう音は心なしか王都より多い。道端でほのかに香るウマのふん。飼い葉おけの陰に潜むネコにつばをぶち当てる老人――その狙いは王都の弓兵より研ぎ澄まされている。それを見て口をうにうにと動かすゼノン。気が付いたミレーネがゼノンの頬を片手でむにっと挟んで発射を阻止する。

 どこかから逃げてきたガチョウが勇壮に鳴きながら、馬のひづめの間を行進していく。ガチョウを見たミレーネの腹がぎゅぅと鳴った。


「ロイドがいないからお昼はちょっとぜいたくしようか」


 明日出発だからおいしいものも食べおさめ。一人だけワイブリードにおごらせておいしい思いをしてしまったミレーネは、罪滅ぼしも兼ねて、旅行中に食べられないものをゼノンに買ってあげようと思った。

 いつものより断然柔らかそうな薄塩の白パン。干しイチジクに、酢入りの湯でゆでた卵。たまねぎととうもろこしのスープ。肉用のタレが使いまわされた野菜の炒めもの。身がてらてらと光る焼き牡蠣。次々に買い集められる味も知らない食べ物の数々に、ゼノンはつばを飲み込んだ。


「お肉も食べたい?」


 ゼノンは縦に振りかけた首を止めて横に振った。ついこの前まで赤の他人だったミレーネやロイドから優しくされるたび、ゼノンの胸が痛んだ。姉以外に血のつながった家族を知らないゼノンには、家族らしさというものがわからなかった。これからずっと行動を共にするのなら、一時の恵みを求めるときのような無遠慮はできないような気がした。それにゼノンは貧しい生活のなかで「足る」を知っていた。


「たぶん食べきれない」

「あ、だよね。わたしのほうが食い意地張ってた」


 笑いながらミレーネは料理を食べ始めた。あまり酒に酔えなくなったが、ふつうに腹はすく。ホムンクルスといっても、餓死はしそうだ。昔は弱い魔法が呪文なしで使えただけ。それが今は魔力の量が異常に多くなり、傷がみるみるうちに治る。動物を乗っ取り、変身できる。自分をこんなおかしな体にして、ヒギンズは何をするつもりだったのだろうか。

(ふつうに考えて戦争の道具?)

 ふと浮かんだ考えに、ミレーネはやるせなくなった。国の重要な戦力をミレーネにつぎ込んだ。そのわりに当の戦力のかたまりが操れないとわかるや、あっけなく姿をくらました。ヒギンズの真意は不明だ。

(わたしは好きに生きてればいいよね)

「……母さん、どうかした?」

「なんでもない」


 ミレーネは止まっていた食事の手を動かした。ゼノンが皿に口をつけてスープを飲んでいたので、スプーンの使い方を教えてやった。ぎこちない手つきで真似をしてくれた。

 出会ったばかりのゼノンは、誰かに取られまいとするように、パンくず一粒でもこぼすまいとするように、急いで口にものをかきこんでいた。今はだいぶ落ち着いてものを食べるようになった。

 せっかくの料理を楽しまないと。そう思っても、ミレーネは旅の途中で繰り返してきた自問自答をまた蒸し返していた。

 仮にヒギンズに出会ってどうするのだろう。ヒギンズに自分を元に戻せと訴えるのか。

 ホムンクルスの力はそれこそ神からさずかった武器のごとく、身に余る強大なものだ。そんなものを持たされていることへの不安はあるが、今のところ実害よりも有用性が上回る。無理に手放す必要性を感じない。

 リラも手放したくない。彼女の記憶は早くも薄れている。きっと本物の経験や実感を伴わないから記憶にとどめにくいのだ。自分がホムンクルスでなくなるとともに、彼女の記憶を失ったら――ありえないかもしれないが、そうなった時にゼノンの手をためらいなく握れるか、不安を感じてしまう。

 それからヒギンズはあんな犠牲を払ってまでホムンクルスを作りたかったのだ。すすんで元に戻すとは考えにくい。強引な手として、ヒギンズを乗っ取って記憶をのぞく――。

 スプーンを持つミレーネの手が震えた。

 できない。事実上の人殺しだ。人の命を絶つ勇気は持てない。本物の化け物になってしまう。

 それに、どうせできやしないといえる理由がほかにある。動物の記憶は人間の頭では理解できないのか、ほとんどおぼろげで頭に残らず、痛みも軽い。だけど、同じ人間ではどうなるか。リラの記憶を得るだけで、頭が割れるような痛みを味わった。鮮明なのは五年分かそこらだ。それが六十を超える、しかも常人からすれば異質な人生を歩んでいそうなヒギンズの頭脳になったら。激痛のあまり気が狂うか、逆に自分の記憶が塗りつぶされてしまいそうだ。危険すぎる。


 ゼノンが何かいいたげな視線を向けているのに気づき、ミレーネは「なんでもないよ」と笑った。

 今はとりあえず旅を楽しむ。ロイドは勉強。新しい安住の地を見つけ、ゼノンに同い年くらいの友達を見つけてあげる。それが現時点の目標で十分。

 いつの間にか食べ終わったゼノンが、干しイチジクをおやつ用に選り分けていた。しかしすぐに我慢できなくなり全部食べてしまった。


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