石の町ココルト
いつもお読みいただきありがとうございます。
2013/1/16付の活動報告にて、おまけ? あり。
翌朝、まだ日の出る前に、荷馬車の中の毛布のかたまりが動いた。ロイドが毛布から抜け出した。冬の朝の外気は尋常でなく冷たい。それにじかにさらされていた顔がひりつく。あくびをして、頬がつっぱるのがわかった。頬をなぜると髭の生えていないところがざらついて、粉を吹いているらしかった。ゼノンは大した寝具もなしに、こんな底冷えのする毎朝を迎えていたことを思った。ロイドは隣ですやすやと眠る二人を眺めた。ゼノンの背にミレーネが張り付いていて、逃がすまいと抱き寄せていた。そこにだけ一足早く陽だまりができているようだった。
ゼノンが起きた時には日が出始めていた。ミレーネの腕をそっとほどいて、憎らしいほど赤々と燃える太陽に目を細めた。今日も生き残ってしまった。今日も生きなければならない。ついこの前まで、そうやって日々生きる気力を失っていくゼノンがいた。今日を生きることができる。今日を生かしてくれる人がいる。かつて命を燃やせと言わんばかりに草原を曙色に染めていた無情な太陽が、今朝は一日の活力を与えてくれる妙なる生命の輝きにさま変わりしていた。
ゼノンの身じろぎにぱっと目が覚めたミレーネはすぐにコップを用意した。それに水をためて、ゼノンに手渡した。
「顔と手は綺麗に洗いなさい。余った水は飲まずに捨てるように。後で新しく作るから」
ゼノンは首を力強く縦に振った。汚れた水を飲めば腹を壊すとロイドに脅されたことが一つ。それよりも少年の自尊心に深い傷を作ったのは、旅の前日に不覚にも布団を濡らしてしまい、ミレーネにそれを見つかったことだ。「昨日の夜にお水を飲み過ぎたんだね、気にしない気にしない。ゼノンぐらいの年なら気にすることないんだよ。ロイドなんかね――」と、一部は本人に聞こえないようにこそこそとあやされた。
ゼノンが霜をざくざく踏みしめて遊んでいる間に、ロイドはパンを湿らせ、火であぶっていた。水でふやかさないとあごが疲れるほど固くてまずいパンだが、朝食があるだけゼノンにはとんでもない贅沢だった。最底辺の生活を知るゼノンにとっては一日の内に何か口にできるならもうけもの。街中の一般人なら朝を抜いて一日二食で我慢、体力のいる旅人なら三食が常識。ロイドは医者として昔から朝食をとるよう推奨していた。
手短に朝食を済ませると、三人は出発した。もう完全に日は出ている。旅程では、隣町ココルトまであと少し。
「今日あたりにはつくはずだよね」
「本当は昨日ついていてもよかったんだけどな。ミレーネが飛んでないと馬の足が鈍い」
「わたしが重いからですか。それはそうだけど、本の積み過ぎじゃない? 馬も積み荷減らせよって文句いってるよ」
ロイドが「動物の言葉もわかるのか?」と尋ねる横で、ゼノンは期待に満ちたまなざしでミレーネを見つめた。
「野生の勘」
「なるほど、すごく頼りになる」
ミレーネが馬になれるからといって、馬の声が聴けるようになったわけではない。
とある伝承にはこうある。。
おおよそ女からすれば男は鈍感な生き物である。そのことを男はよくわかっていない。女の察しの良さは動物に対しても働く。けっして話せるわけではないが、それが動物と通じ合っているように見えなくもない。人間の男の何気ない仕草や会話から心を読むようなそぶりを見せることもある。魔女という呼称の由来はこんなさりげないところにあるといわれる。
いまや魔女といえば、別の意味がともなう。それは悪魔に魂を売ったもの。彼女たちは近隣諸国で迫害に遭い、かろうじて受け入れる下地のあるアウザ王国でもいわれなき差別が待っている。魔術師とは神の力を賜ったものであり、武の象徴。女にふさわしくないとかで、特に魔法騎士団は排他的な空気が強い。女に権力は持たせるな、清貧に甘んじろといった万国共通の因習的な抑圧は、むしろ世間並みの暮らしを望む魔女には好都合だったといえる。
「旅って案外退屈だよねぇ」と、ミレーネがぼやいた。
「退屈」ゼノンがうなずく。
「退屈しのぎに槍でも降ってほしいって?」
ロイドにとっては、退屈でも何もないのが一番だ。冒険も確かにしてみたい。だが、何かが起こるとは、予想外の危険に見舞われるかもしれないということだ。それを踏まえれば、この旅は順調といっていい。もっとも、どんな危険もミレーネがはねのけてしまいそうなので、気が緩むのも仕方がない。
旅の一行にきまぐれなタカの目がついている。それが野盗や傭兵を事前に察知する。察知し損ねようが力技で撃退する。森に近づけば、回避困難なオオカミの群れがいる。回避できなかろうが力技で追い払う。雨が降れば、車輪がぬかるみにはまる。クマが押し上げる。旅の生命線ともいえる水分はロイドでも魔法で集められるし、ひとまず食糧の残量と天候にだけ気を配ればよい。食糧すら尽きれば「狩ってくる」とか森に突っ込んでいきそうだし、吹雪けば毛皮のかたまりに変身してゼノンもろとも腹に抱いてしまえるだろう。
「なんていうのかな、未知の危険に対する免疫がないと、いざって時に困ると思うんだよね」
「殊勝な心がけだと思うが」
本音はどうであれ、ミレーネの主張も一理ある。経験が物をいう場面は治療においても間々ある。旅も一緒で、窮地に立たされた時こそ、状況判断力が試される。なのに、存在するだけで未知の危険をいちいち潰してしまうミレーネがいる。まっとうな試練の足音はますます遠ざかる。
「この退屈な平和はわたしのせいか!」
「えっと、母さんのおかげなんだよね」
ミレーネがやけな調子で吐き捨てると、ゼノンがとりなした。子供を差し置いて不機嫌にぶうたれるのも具合が悪いので、ミレーネは「そうだね」と自省しながらゼノンの頭を後ろの荷台から撫でてやった。ロイドは妥当に思える案をぼんやりと投げかけた。
「暇なら本でも読んでなさい」
「だいたい読んだ。あとは難しい学術書ばっかりだし、揺れて読みにくぅあ……」そっけない返事にあくびが混じるのがロイドの耳に届いた。
「ならお昼寝でもどうぞ」
「そうしようかな。ゼノンおいで」
ミレーネは答えも聞かずにゼノンを抱え上げて隣に転がした。
さっさと寝入ったゼノンに対してミレーネは寝つきが悪かった。疲労の回復が早すぎるホムンクルスの体には意外な欠点があった。惰眠をむさぼるのが下手になった。このささいな欠点の解決方法がある。
ミレーネは薪を手に取ってにらみつけた。シュッシュッと、調子よく木を削る音とともに先端からどんどん細切れになっていく。ミレーネは木切れをにらんでいるだけだ。ロイドが怪訝な顔で後ろを振り返った。
「何してるんだ」
「魔力の無駄遣い。少しでも疲れるかなって思って」
「……そうか」
「あっ、御者交替する?」
「いや、大丈夫」
「そう? 疲れたらいってね」
昼過ぎになると、ココルトの町の全景が見えてきた。陶のお椀をひっくり返して平べったくしたような街並みだった。その街並みが赤っぽいのは屋根瓦に使う土が鉄分を多く含むからだ。町の近くに石切り場がある。良質な土が取れるので、窯業が発達している。鉱山の採掘権を獲得してからは、鉱業も盛んだ。
「あれかー、ココルト。覚えてたより小さいかも」
寝てすぐに起きたミレーネの一言目がそれだった。
「王都と比べられたらどんな町も小さくなるさ。十分大きい」
さらに町に近づくと、門に連なる人馬の多いのがわかる。人の入りが激しい。そのせわしなさに検問は厳しくないとみて、思った通り三人でふつうにくぐることができた。町に入って、まずはミレーネの薦める旅籠屋を探していると、それらしい看板が見つかった。ロイドには馬をつなぎに行ってもらって、二人は中に入った。
「いらっしゃい、子連れの奥さんとは珍しいね。このご時世に親子二人旅か?」
初対面の壮年の男には少々の驚きと勘違い、それから、
「ああ、ミレーユちゃんじゃない! 久しぶりね! あんたいつの間に子供産んだんだい?」
奥から顔を見せた女将、ミレーネと面識のあるイザイラには多大な好意と勘違いをもって出迎えられた。
「お久しぶりです、イザイラさん。この子は新しく家族になった養子のゼノンです。それとわたしはミレーネです」
「あら、そういや似てないね。ま、娘もあたしに似ちゃいないけど」
イザイラとミレーネの母は同郷の生まれで、年のころも近く、宿屋の見習い娘の時分に同じ釜の飯を食った仲でもある。のれん分けしてからはあまり顔を合わせる機会がなくなったが、母が年に何度も手紙を送るぐらいだから、よほど仲が良かったのだと思われる。母を介してミレーネもよしみを結び、イザイラは二人目の母のような存在だった。ミレーネが家庭を持ち、ロイドが薬局を開業してからは忙しくて交際が途絶えてしまった。こうして顔を合わせるのはミレーネの結婚式の席以来のことだ。その時はイザイラに連れ添いはいなかった。十五年前にイザイラの前の夫が亡くなってから、縁談の話が持ち上がってはふいにしてきたらしいので、再婚相手の顔も初めて見る。気のよさそうな顔をした小柄な男は、女性にしては上背のあるイザイラと並ぶと、ほとんど高さが変わらない。ミレーネより六歳年下のイザイラの娘リーゼは、母と正反対の小作りな可愛らしい女の子だった。ということは、イザイラは背の低い優男が好みなのかもしれない。
「今晩の宿を取りたいんですけど」
ミレーネがそう切り出すと、イザイラと夫は互いにちらりと目を走らせ、申し訳なさそうな顔になった。
「ごめんね。ミレーユちゃん。今日はもうお客さんで部屋がいっぱいなのよ」
ミレーネです。という二度目はめんどうになった。ミレーネはあからさまにがっくりとうなだれた。それをどう受け取ったのかイザイラの夫がますます申し訳ないといった感じで眉尻を下げていた。
「すまんな。この時期に王都で催されるはずの公開法廷が急にココルトでやることになってね。客足がこっちに流れるのはうちとしちゃありがたいんだが、おかげさまで向こう一週間予約いっぱいの満室状態で、今まさにうれしい悲鳴あげてるとこなんだ」
「ああ、わかります。急にお客が増えるから大変ですよね」
すっかり失念していたが、もうそんな時期だったかとミレーネは思った。年に四回の開廷期には、王都にたくさんの人が訪れる。直接裁判にかかわる法律家、司教、役人、裁かれる罪人。ほかにも、恩赦を施す王族や、裁判に何がどう関係するのか皆目わからないお偉方がこぞって集まり、それに物見遊山の中流以上の人々が加わり、一種の社交の場として大変なにぎわいを見せる。金の匂いを嗅ぎつけたのらくら者がわいて、賭博場や酒場は満員御礼。輪をかけてにぎにぎしい。法廷こそ教会の所有する円形会議場などの屋内で開かれるが、引き続く公開処刑は広場で行われる。当然広場の立入に制限はないため、重罪人の飛ぶ首見たさに下々までが集まる大所帯となる。
それらの開催場所の変更理由にミレーネは強い心当たりがある。口の端が引きつりそうになるのをこらえた。
「それじゃあ、こんな盛況でも悲しい悲鳴をあげてる宿を紹介してもらえませんか?」
「ああ、それくらい構わないさ」
イザイラは軽く請け負った。
「今は足元見てふんだくるとこもあるからね。あそこは大丈夫だろうけど、万が一がないように紹介状を書いてあげるから待ってな。良心的な料金にしないともっと悲鳴鳴かせるよってまごころ込めてね」
「まごころ控えめでお願いします」
ミレーネはイザイラの夫と二言三言かわした。リーゼは買い出しに外に出ているみたいなので、また後で会いに来ることにした。王都の不穏なうわさについては、怪獣が出たらしいですねと適当なことをいっておく。イザイラは半ば真実のそれを笑い飛ばして、勢い手元が狂った。しっかり書き直した紹介状を受け取って、ミレーネは「また来ます」と言い残して表に出た。
そこで腕を組んで荷車に寄りかかっていたロイドに声をかける。
「おまたせ。空いてなかったから次行こっか」
その時ずっとおとなしくしていたゼノンが、「コーカイホーテイって何?」と聞いたので、ロイドは「それか」と一人納得し、ミレーネは「悪い人を大勢の前で裁いてどんな罰にするか決めるところだよ」と教えた。一拍置いて「バツってどんな?」と追及されて口ごもるミレーネにかわって、ロイドは自分の首にすっと手を当てた。
「まずは牢につながれ、それから罰が決まる。罰っていうのは、体のどこかを切ったり絞めたり、あとは焼いたり鞭で打ったりして悪いことをしたやつを苦しませることだ。何でそんなことするかというと理由はいくつかあるが、その一つが、罪人が二度と同じ罪を繰り返せないようにすること。たとえば、手癖の悪いイカサマ師は指の数を減らされるとか、スリの常習犯になると、手首から切り落とされる。ひどいことをすれば手首でなく首になる。まあ、ともかくだ、公開処刑なんてわざわざ見に行くようなものではない、と俺は思う」
いけないことを聞いてしまったように目を落として肩をすぼめるゼノンの頭を、ロイドはポンポンとたたく。
「別に気にしなくていい。お前が悪いんじゃなくて、そういう――罰を受けるようなことしたやつが悪いんだ。基本的には、な」
やむにやまれず犯罪に走るものが多いことを思い出して、ロイドは言葉尻を濁した。ゼノンだって食いつなぐために犯罪すれすれのことをやっているかもしれない。
処刑をおおっぴらに行う意味は、いろいろとある。罰することによる犯罪者の更正と物理的な再犯不能――むろん生きていればの話だが――ないしは人体の欠損による間接的な烙印の効果が狙える。たとえ死んでも、神の救済に必要な報いを与えたとみなされるので、それは正当な行為だ。そしてしかるべき応報により被害者の心をなだめる一方で、見せしめにより民衆の教育を促す。「悪いことをすればこうなるぞ」と人心を予防的に抑制するのだ。だがそうした政策的な意図は忘れられ、公開処刑は娯楽の一環として浸透している。すなわち合法的に公然と人を痛めつけるさまを見物できる格好の機会。痛めつけられるのは罪人だから、見る側は心を痛めなくてよい。血の気の多い連中ほど処刑台近くに寄ってくるのだから、斧を振り下ろす執行人の手並みが悪いと、野次を飛ばしたり、石を投げたりするものが出てくる。一人の犯罪者より殺気立った群衆のほうが危険だと、その場を目の当たりにしたロイドは肌で感じた。
「あとな、聞きたいことがあったら、さっさと聞いたほうがいいぞ。わからないままってもやもやするだろ」
遠慮がちなところのあるゼノンには、前もってはっきりいっておかなければ、大人以上に好奇心を押し殺してしまいそうな危うさがあった。
「ご飯まだだったね」空気を入れ替えるように、ミレーネがあたりの屋台に目を向け、ゼノンも倣ってきょろきょろと首を回した。
食べ物の店もぽつぽつ立つ。干した果物が精いっぱい彩り豊かに見えるように陳列された青果店、煙を立てて焼ける肉の匂いをまき散らす串焼きの店や、負けじと酒のつまみの魚介――目を引くのは身の大きな牡蠣だ――をいぶす飲み屋等々。戸外に設置された卓と椅子を幾人かが何かしら手に持って囲み、談笑にふけっている。一部は仕事の休憩を自己都合で延長していることだろう。
お祭り前にも似た独特の高揚感にあてられミレーネも思わず奮発する。ということはなく、思わせぶりな視線をひっこめ、古くなった旅の食糧の処分を男二人に命じた。ゼノンは涙を呑んで石のようなパンをかじった。
イザイラの手配してくれた宿は、日当たりの悪い細い路地の奥まったところにあった。〈ネコ小路〉という、ネコの通り道のような狭い通りだ。かしいだ住居の上部がもたれあって薄暗い。荷車は通れないので、離れの倉庫に預けた。
立地は悪いが、中身はいいだろ、という亭主の言葉通りだった。部屋に関しては暖炉こそないものの、意外にもしっかりした石組の壁が冷たい風を防いでくれそうだった。ついでにいえば常連になる見込みのないミレーネたちでも、この時期にしては割安の値段で泊まれた。客の懐に優しく、経営には厳しい。きたる厳冬を予感させる亭主のはげ頭を見ながら、ミレーネは無性に切ない気持ちになった。
「おかしいな。がめつい宿屋の娘が宿賃を値切らなかった」
「あのおじちゃんから、あれ以上何をむしればいいの!」
ゼノンは自分の髪の毛をくしゃくしゃやりながら、ミレーネの言外を補った。
「頭寒そうだったね。卵にわら乗っけたみたい」
「こらこら。おじちゃんの前でそれはいっちゃだめだよ」
たしなめながらミレーネはうまいたとえだと思った。ロイドがにっと笑った。
「きっといつでも冷静な頭脳をしてる」
「そこであなたは張り合わない」
宿を出てミレーネとロイドは二手に分かれた。ミレーネは露店を冷やかしつつ旅の荷物を調え、リーゼに会いに。ロイドは本を売って荷を身軽にしつつ路銀稼ぎに。ミレーネが衝撃を受けたことには、面白味のなさそうな予定のロイドのほうにゼノンが同行を選んだ。あまつさえちょっと離れてほしいとゼノンに煙たがられて、あからさまにミレーネは落ち込んだ。
「そんなにべたついてた?」
「ゼノンにかわっていってやると、ものすごく」
「ゼノン、嫌だった?」
「別に……」
「じゃあ」
「ミレーネ」
注意したそばからゼノンに抱きつこうとするミレーネをロイドが制した。「男子の気持ちがわかるまでお預け」をくらったミレーネはしょんぼりと、泣き言をたれながら出かけた。「馬のオスならわかるのに」と。




