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妙薬はホムンクルス  作者: 滝田利宇
第一章
10/17

闇夜にカラス 隘路にネズミ

 頭上注意!


 中身が半分になった背の低い長持に腰掛けるゼノンの後ろに、ミレーネがその長持ちを足かけにして椅子に座っている。ミレーネに寄りかかられたゼノンは最初こそ抵抗を示したが、今はおとなしくミレーネの両腕に収まっている。ゼノンはうっかり寂しさのあまりにミレーネに飛びついて出迎えたことを、後悔した。


 ミレーネは満面の笑みでゼノンを抱きかかえているため、ロイドは何も言わないだろう。

 ゼノンからはミレーネの顔が見えないが、体の向きの問題ではなく、物理的にミレーネを見上げることができない。

 なぜなら、ゼノンの頭の上には、ミレーネの豊満な胸が乗せられているからだ。

 子供扱いされているからこその役得なのか、男としてみてもらえていない子供の宿命なのか、ゼノンは大いに悩んだ。


 そんなゼノンのひそかな葛藤を知る(よし)もなく、大人二人は何度目になるかわからない作戦会議をしていた。


「ミレーネはなんでもありとして、魔術師補登録をしていてヒギンズとも交流のあった俺が町の外に出る時が問題だ」


 魔術師補とは、魔術師にならなかった魔術学院の卒業生に贈られる官位だ。魔術師補であれば、魔術課程既修者として認定され、卒業後も正式な魔術師への転職が可能である。一定の手続きと訓練を経て、「補」が外せるのだ。そして、魔術師補以上の人間は、魔法を扱える人材の流出を懸念する王国により一元的に管理されている。それが、魔術師登録あるいは魔術師補登録と呼ばれる、最近導入されたばかりの仕組みだ。魔力伝導体に固有魔力が記録され、それが照会されて本人確認をすることで、都市の出入りが可能となる。出入国や都市の出入りの履歴の管理も、王都直属の魔術司法局が総轄する。

 このような仕組みの下では、魔術師等が事件を起こして逃げれば容易に足がつく。

 ロイドはそれを置いてさらなる問題点に言及した。


「それと組合で聞いてきた話だと、錬金術師及び錬金術師と関係するすべての人間は王都の出入りを禁ずる、とか立札が出たらしい。錬金術師にパンを売っても関係したことになるのか、出入りの時に関係ないと言い張れる材料はなんなのか、言いたいことは山ほどあるが、錬金術師が餓死しても構わない勢いだ。このまま流通が停滞すれば、近いうち商人を中心に町中の反感を買うだろう。壁の外には農民もいる。狙いが広すぎだ。随分稚拙なことをするが、上のやつらの動揺ぶりが透けて見える。まあ、それでも俺たちはその狙いに入ってはいるんだがな」


 すでに夕食は済ませ、ゼノンは命の恩人であり姉であるミレーネの誘いに一も二もなく「一緒に行きたい」と答えたため、ゼノンが話すべきことは特にない。

 ゼノン越しの会話が続く。


「その話、宿でも聞いたよ。ひげもじゃは捕まってないのかな」

「ヒギンズは老獪だからな。自分一人に特定されないように、錬金術師全体を犯人に仕立て上げる工作をしていたとしてもおかしくはない」

「ところで、いいこと思いついた!」

「その笑顔はろくなことを考えていない」


 ミレーネの無邪気な笑顔が、先刻の芝居の幕開けだった。ロイドは同じ轍を踏むまいと、心の中で構えている。


「聞く前からひどーい」

「それで?」

「女装すれば?」

「なぜそうなる。というか無理だ」


 予想以下のくだらなさにロイドは大げさに手のひらを上に返した。


「無理かなあ。いけると思うんだけど。髪をもう少し伸ばして、顔に丸みがあって、背が低くて、声が高くて、あと欲をいうなら気持ち体の線とか肩幅がこう、きゅっと締まれば」

「もはや別人。お前じゃあるまいし、俺はそんな変身できない。さらに言えば、見た目が変わっても魔力識別の網にはかかる。というか、待て、そもそも女装する利点ってなんだ?」

「え、面白い以外に?」


 ふーむ、と考え込みながら前に体重を乗せてくるミレーネに、ゼノンは警告を発したくなる。

今のは何のための提案だったのか、と渋い顔になるロイドが別の質問でミレーネの気を逸らした。


「聞きたかったんだが、ミレーネはほかになんの動物になれるんだ?」

「え? ミレーネさん、動物になれるんですか?」


 ロイドはミレーネが何者であるか、ゼノンに教えていなかったことを失念していた。

 ゼノンの思いがけない言葉に、ミレーネはどう答えるのだろう。ロイドが不安になってお茶を濁すことを考えていると、ミレーネはこともなげに言った。


「わたしはこう見えてすごい魔術師なの。魔法で動物になるくらい簡単よ」


 へーっと、素直に感心するゼノンを横目に、ロイドは冷や汗をかいていた。

 昔から末恐ろしいものがあるとは思っていたが、数々の不測の事態を前に機転をきかせて対処していくミレーネは本当に何者なのか。今の一言はささいなものだが、今後ミレーネがどんな人間離れしたことをしても、ゼノンにとってのミレーネが人間であり続けられる、文字通り魔法の一言だ。


「わたしが今なれるのは、馬、カラス、ネズミ、それから、クマとヘビ」

「クマとヘビ!?」


 もう驚くことはそうそうないと思っていたロイドも、思わず大声を上げる。

 反対に、ゼノンは「ミレーネさん、すげー」と喜んでいる。ゼノンが嬉々として動くたび、頭上の柔らかな重りをふよふよと連動させている。


「ちなみにヘビは麻痺毒持ってるみたいだけど、致死性が高すぎるから、足止めにわたしに咬みつかせようなんて考えないでね。ロイドの薬も効かないと思うよ」

「さらりと怖いこと言わないでくれ」


 ホムンクルスの能力をある程度把握しているのは、ヒギンズを除いてミレーネ一人だとはいえ、ミレーネによりロイドが考えうるような可能性は考えつくしてある。さらにロイドにとっては突飛で危険な考えも、ミレーネはまじめに検討したうえで言っている。


「わたしがクマの姿で盾になってる間に、ロイドとゼノンを送り出すって手もあるけど、街中でクマが現れたら大混乱だろうし、町の外に出ても討伐部隊が追っかけてきそう」


 ようやく危ない会話に慣れてきたロイドが、先んじてミレーネの思考を読むことに成功する。


「いっそ陽動に徹して、とか言うなよ? ミレーネが人を引き付けるほど俺たちが町を出やすいのは確かだが、そんな大衆の前でクマがカラスになって逃げたりしてみろ。今度は、未知の生物を捕まえろ! とか言い出すおまけつきになるし、クマカラスが例の事件を起こしたと思われるだろう。だいたい変な疑いをかけられないよう、俺は堂々と検問をくぐるべきだと思う。それからなるべく一般人の目には異常を触れさせたくない」

「どうして?」

「この異常をから騒ぎのまま終わらせるためだ」


 町中の人々がびくびくと過ごすのも、結束して疑心暗鬼になるのもロイドは望まない。お城のほうが大変だったらしいよ、と違う世界の話で完結させる。こちらの世界の人には、これまで通りのほほんと暮らしてもらう。そのために公然と、されどひっそり町の外へ出る。


「それより魔法は――ほかの魔法はどうだ? 発動が早くなっただけじゃないだろ?」


 うっかりロイドが口を滑らせるが、うーんとうなってさらに沈み込む体勢のミレーネも、頭の上の量感が増すことに気が気でないゼノンも指摘することはない。


「……確かに威力も出せるようになったと思うけど、使える魔法が増えたわけではないし。とりあえず自分の天井は知っておきたいなあ。あ、わたしが本気出したら危ないよ? 王都がなんとなく灰になるかも。やらんけど」


 平然と言ってのけるミレーネに、ロイドはかすかに瞠目する。しかし驚き慣れたロイドは、信じがたいが嘘ではなさそうだと落ち着いて判断する。なんにせよ、なんとなく王都灰燼に帰すでは笑えない。悪夢の再来だ。


「安全な方法はなさそうか」


 ミレーネは再三考え込んだ。威力のほどはともかく、ミレーネが使える魔法はロイドに教わった単純で攻撃的・護身的なものばかりだ。それを今までは家事に転用してきた。

 いわゆる「古代の魔法」はより呪術的・魔術的性格が強い。おもに幻影・睡眠・麻痺・その他精神干渉系の魔法があるが、使える若者はほとんどいないし、ミレーネも使えない。大昔の魔術学院で生徒が悪用して問題を起こしたことが原因とされている。

 いつの時代も習いたての魔法でやんちゃする生徒は後を絶たないが、現在「魔法」と呼び習わされているものは、目に見える被害が残る。そのぶんぼろが出やすく、悪意あるいたずらは減ったという。

 森羅万象を構成する四大元素たる、火、水、気、土と、基礎的な四元魔法、火、水、風、土はそのまま対応する。基礎とはいうが、一人の魔術師が実用水準でものにできるのは一種類とされる。土の魔法以外の三種を可もなく不可もなくこなせるロイドはかなり器用な部類に入る。


 ミレーネが使える魔法。すなわち自然に干渉し、火、水、風を生み出し、操作する三種の四元魔法。水を大量に出すことはできないが、温度の調節は可能だ。

 ほかには、分解、圧縮、保護、修復、接着、促成の六種の特定魔法。ミレーネは「日用魔法」と勝手に呼ぶ。〈保護〉と〈修復〉以外はミレーネが独学で会得した。

 使用例として、傷んだ食べ物は〈分解〉してハーブ園の肥料にしたり、味の薄いスープは〈圧縮〉して濃くしたり、はねた油から手を守るのに〈保護〉したり、これら「三大家事魔法」はいろいろ便利だ。

〈修復〉は魔力を食うため、服のほつれ程度しか直せなかった。〈接着〉も効果が地味で、一番助けられたのは、せいぜい折れた机の足をつなぐ時だ。釘で打ってもがたついたので、足と台のすき間にだぼやおがくずを詰めて固定した。〈促成〉は栄養を生み出せるわけではないので、やりすぎると土壌がぼろぼろになるうえ、できた植物の味や香りも一段落ちた。ミレーネは「三種の劣化魔法」と名付けた。

 結論を出し終えたミレーネは、自信満々に答える。


「わたしの魔法は家事特化です」

「つまり」

「使い物にならない」

「……」


 ミレーネとロイドが沈黙の中、目だけで会話していると、ゼノンがうつらうつらとしていた。ご飯でお腹いっぱいになり、ミレーネに抱きかかえられているゼノンの体は温かい。日に二度も満腹になる、人生初かもしれない体験に、今のゼノンは満ち足りていた。二人の物騒な会話すら、だんだん子守唄に変わる。


「……ゼノン寝ちゃった?」

「寝てるな」


 声を抑えてロイドに確かめると、ミレーネはゼノンを起こさないよう、そっと寝室まで運んだ。寝室から出るなり、声を潜めたままミレーネは言った。


「それでは、わたしは敵情視察に行ってまいります」


 ロイドもつられてぼそぼそと答えた。


「もう外は真っ暗だぞ。向こうも的がしぼれてないようだし、そんなに焦る必要はないと思うが」

「わたしとしては、三日以内に出たい」

「それ、自分でまいた種じゃないか……。で、どこに行く気だ?」

「東南と南の門」


 王都は北の丘陵地帯に王城が座す城郭都市だ。北部に権力の中枢と富裕層の邸宅、南部は庶民の暮らす下町といった具合に主なすみわけがなされている。市壁には北東と北西を除く全方位に合計六基の大門があり、その間を八基の通用門が埋めるが、後者はもっぱら教会や騎士団の関係者専用である。ロイドたちの住居は大体、王都の南南東に位置する。現在地から市外に出ることと、冬の寒さから逃れるように南下しつつ旅をすることを考え合わせれば、ミレーネの言った二つの門のどちらかを通ることになるだろう。


「正直行かせたくないが、危険に首を突っ込まないと約束してくれるか?」


 ロイドはむずがゆさに顔を険しくした。自分ではなく妻を危険にさらさなければいけない現状。今の彼女にはできても、自分にはできない。

 夫は妻を守り、妻は夫に尽くす。あるいは男と女がいるというだけで十分な理由になるのかもしれない。ロイドとミレーネの間に、そんな狭量な価値観は今さら差し挟む余地のないものと思われた。しかし、やはりいつの時代も男は女を守る立場にありたいらしい。ロイドは馬鹿馬鹿しいが普遍的な価値観に、自分もほだされていたのだと自覚する。

 ミレーネが異質な存在であることを受け入れて、その能力を惜しみなく行使するのは、ロイドとゼノンを守るためだ。ロイドは、多少の魔術のたしなみと医学の知識があるだけの一般人に過ぎない。ゼノンはいわずもがな。敵が組織になった時点で、二人には出る幕がない。

 そんな歯がゆさはミレーネも感じ取っただろう。ロイドを抱きしめてから、不安をかけらも感じさせない声で約束を守ると誓う。


「大丈夫だよ。わたしは帰ってくる。鳥が一羽うろつくだけで危ないことも起きないし、起こさない。最悪でも、絶対生きて帰ってくる。だから安心して」

「ああ…………」


 それからミレーネは帰ってきたときの扉をたたく音を決め、寝室に戻った。しばらくすると、寝室から濡れ羽色の鳥が歩いて出てきた。カラスだ。両足を合わせてぴょんぴょん跳ねたり、首をかくっと(かし)げたり、本物と見分けがつかない。単に演技派というより体が覚えているといった具合だ。


「それじゃ、気を付けて」


 ロイドは玄関の扉を開けて、カラスを路地に送り出した。

 カラスはロイドの顔を見上げて、こくりと頷くと、ひと声「カー」と鳴いた。

 さすがに喉の作りからして違う生き物では、人の言語は話せないらしい。それでもロイドには、カラスが「行ってきます」と言ったように聞こえた。とりあえず、そのふるまいから、頭の中身までカラスではなさそうだ。

 カラスが夜の闇に溶けていくのを見送ってから、家の中に戻った。


「王都が灰になる大火事、それを起こせる魔力か……」


 それだけの規模の災害を起こすとなれば、武官の魔術師が何百人必要になるだろうか。そのすべての魔力など、到底一人の人間の器に収まるはずがないが、それが可能なのがホムンクルスなのだろう。ミレーネの心配をするだけ余計なお世話と言うものだ。


 ロイドは今自分にできることをしばらく考え、ゼノンの眠る寝室へ入った。ロイドはゼノンの肩をたたいて揺り起こした。


「ゼノン、起こして悪い。ちょっと聞きたいことがある」

「う…………?」











 古代から、空を飛ぶことは人の夢だった。

 はるか南の王家の墓の壁画に描かれる鳥人間しかり、翼をもつ天上の御使いしかり。地を這うことを運命づけられた人間は、幻想の中で空を飛んだ。風の魔法の熟練者は空をも駆けると言われるが、魔法の発達した王都にすら実在しない伝説の存在だ。もともと風は大気の流れ。形を持たず目に見えない分、火や水より不安定である。真空の刃は作れても、それをひとところにとどめるのは難しい。原理的には自重を支えるだけの風圧を常時足の裏から吹き付ければ、空中を歩ける。


 ロイドが在学中の魔術学院でこれを応用した面白半分の実験が行われた。

 何人もの上級生の風の使い手が透明な「吹き上げる階段」を作った。勇気ある被験者はそこに一歩を踏み出した。それは彼にとっては小さな一歩だが、人類にとってはさらに取るに足らない一歩だった。

 彼は学院の敷地外まで吹き飛ばされた。これによって証明されたのは、体裁よくかつまとまった時間空を飛ぶのは限りなく不可能に近いことと、軽はずみな魔法実験の結果の重大なことだ。町に吹き飛んだ生徒は着地に風の魔法を使うことで事なきを得たかわりに、壊した民家の屋根を弁済する羽目になった。吹き飛ばしたほうの生徒ももれなく道徳的な研修に苦悶の叫びをあげた。




 そして今、ミレーネは空を飛んでいた。人ではなく鳥としてだが、空間を掌握する感覚は人には味わえない。視界も人間の時より広い。夜目も利く。人間には見えない膜が空気に溶け込み物体に新しい濃淡と縁取りを与えていた。

 最初は、巣立ちする雛のように飛ぶことへの躊躇もあったが、ロイドに大丈夫と言った手前、いつまでも怖気づいているわけにもいかない。いざ飛び立ってみれば、カラスとしての記憶――もっといえばしみついた感覚が飛び方を教えてくれた。尾翼に力を込めると五指でも広げるように羽根一枚一枚の間隔が広がり逆立つ。そこに風圧を受けてお尻を持ち上げさせながら、体をやや上向きに傾けて羽ばたく。そのたび翼が風に押し上げられ、前へ前へと飛翔する。

 低い高度を保って、時々家の屋根で息継ぎをする。飛ぶのに疲れはない。

 楽しいが、緊張する。もっと自由に、晴れた昼の空を飛べたら、さぞかし気持ちいいと思う。ホムンクルスになってよかったと言ってしまうのは身も蓋もないが、夜風を切る快感は病みつきになりそうだ。

 今は楽しんでいる場合ではないので、慎重に羽を広げ、穏やかな向かい風の中を南へと飛んだ。


 ミレーネは南の大門に近づくと、塔の突端に着地した。

 近くには誰も見当たらない。

 外壁を超えて門の正面に回ると、マントを羽織った見張りが二人。ぶすっとした顔をして黙している。

(――なんかしゃべれ)

 勝手に情報を吐いてくれるのを期待したが、そううまくもいかない。誘導尋問しようにも、「カー」しか言えない。人間になったらばれる。そもそも末端の一兵卒が、確たる情報を持っているはずもない。

 ミレーネはすごくつまらなそうな顔をしたはずだ。カラスでなければ。顔の筋肉はあごや目元、首回りにしかない。表情が作れないのだ。

 しばらくの間ミレーネはお尻をふりふり衛兵を挑発していたが、向こうから見えていないむなしさにカラス踊りをやめた。


 今度はほかの兵卒の詰めていそうな一階部分への潜入を図る。

 小さな営門を見つけ出し、周囲を見渡してから、人に戻る。


「さむっ」


 カラスの時は羽毛のおかげか、それほど気にならなかった寒さが身に染みる。何しろ裸だ。身震いしながら、ともかく恥ずかしいので、木扉に耳を押し当て誰も通らないのを確かめると、早々に門を開ける。鍵はかかっていない。

 中は薄暗い。松明の火が等間隔に揺らめき、歩廊の壁に不定形の影を作っていた。窓がないため、獣脂の燃える臭いがこもっている。ミレーネはネズミになって、しばし視点の低さにまごついてしまった。

(踏まれたら怖いなあ)

 強めの明かりのする方へちょろちょろ走る。四足で地べたを這うことにもっと抵抗を感じると思ったが、カラスの時と同じだった。人としての魂を体の外に抜き取り、入れ直した動物の魂に体を従わせている。それをぼんやり体の外から自分が観察しているような感覚だ。


 衛兵の交代要員らしき男が二人、長椅子に横になり寝ていた。それを無視して、密書の保管されていそうな資料室を探す。見つかったが、鍵がかけられていた。木の扉はもろいので壊せるが、音は立てられないし、目立った侵入の痕跡も残したくない。

(動物の姿だと魔法は使えないのかな)

 ミレーネは疑問を実行に移した。結果、魔力は人の時と同じように扱えた。空気中の水分を凝結させてリンゴ五個分の水の球を空中に作り、消火の準備をしておく。扉と床のすき間のあたりにごく小さな火をつけ、自分が通れる穴を作ると、すばやく水をかける。余った水は蒸発させた。

(うわぁ、わたし、世界最強のネズミかも)

 おそらくはネコどころか百獣の王も返り討ち必至のネズミは、できたての焦げた穴を悠々とくぐった。











 明け方になってミレーネは帰ってきた。それをロイドが出迎えたが、目のくまがひどい。


「待っててくれたのは嬉しいけど、ちゃんと寝なきゃ。仮にもお医者さんが寝不足で病気とかにならないでね」

「寝られるかよ……」


 憔悴(しょうすい)しきった顔をしたロイドは、いらいらした声で答えた。ミレーネが帰ってこないような不安と焦燥でまんじりともしなかったという。


「わたしより疲れた顔して……。逆にこっちが心配になるよ。わたしのためと思って、少し寝てください。一緒に寝よ?」


 寝室にロイドを押し込んで、二人は昼前まで眠った。

 ミレーネが先に起きだすと、居間ではお腹を空かせたゼノンがテーブルの周りをぐるぐる所在無げに歩いていた。


「あ、おはようございます」

「ゼノン、ごめんね。遅くなったけど、今からご飯作るから」


 しばらくしてロイドが居間に入ると、ゼノンが一人でスープを飲んでいた。


「ロイドさん、おはようございます」

「おはよう、ゼノン。もう昼だけどな。ミレーネはどうした?」

「もう一回行ってきます、だそうです」


 ロイドはぼりぼりと頭をかいた。


「あいつは休むことを知らないのか……」


 その後ロイドは、「休業中」の看板を無視して扉をたたく患者の相手をした。

 何かしていたほうが気も紛れると思えた。町民のうわさ集めと別れの挨拶も兼ねて、時間を限って平常営業した。


「ロイド先生はあのうわさご存知ですか?」

「城のほうで大きな騒ぎがあったようですね。詳しくは知りませんが、うわさとはどんな?」

「ええ、それがなんでも人死にはあったみたいですが、悪魔だ幻獣だ神の裁きだっていってまるで犯人は不明だそうですよ」

「それは怖いですね」


 実によそよそしい台詞だが、自分からはあまり話したくない。さいわい医者は患者の話を聞く役回りが多いので、状況として不自然にはならない。たいてい診察よりも世間話の時間のほうが長い。


「ええ、ですから、この町を発たれるのも賢明な選択だと思いますよ。いつ下町で惨劇が起こるかわかりませんしね。といっても、どこまで本当なのかわからないお化け騒ぎですけど」


 疑われなくてよかった。ロイドは人望の大切さをかみしめた。それ以前に錬金術師が犯人に祭り上げられているし、ロイドにそんな力や動機がないことを町民は知っている。疑われるはずもない。


 ロイドはゼノンに昨晩の話をもう一度聞いて、ミレーネの帰りを待った。そして、しっかり情報を持って帰ってきた。


「現場の指揮官まではホムンクルスの名前を知ってるけど、それより下の人には箝口令(かんこうれい)が敷かれてて、表向きの犯人が錬金術師の作った合成獣(キメラ)で通ってるみたいだよ。ホムンクルスの能力はわたしですらわからないこともあるぐらいだし、ひげもじゃが身を隠してるか捕まっても口を割らなければ、豚っぽい人が肝心な情報を押さえたまま死んじゃったから、ほかの人たちには正体不明の怪物に映ってるんだろうね。頭がライオン、尻尾がヘビ、胴がヤギの合成獣(キメラ)とかのほうが、まだ想像できるだけ怖くてもましってことかな。そんなもの隠せるわけないって当たり前のことがわかってくれたらしくて、今朝から通行制限は緩くなったみたい」


 ミレーネが帰ってすぐに、ちょっとは休めとロイドが怒ると、「寝れば全快で疲れたまらないの、この体」と言われた。実際、ロイドよりも元気そうだ。ロイドはどこまで彼女を人ならざる者にしてしたのかとこの場にいないヒギンズに憤った。それでも病弱にされるよりは、はるかにましかもしれない。ロイドは考え方を転換して、ミレーネの報告を聞いていた。


 それからロイドはある提案をした。


「ロイド、やるじゃん。確かにリラの記憶見てもいけそう」

「生意気なことを言う。お前が活躍し過ぎなだけだ」

「ミレーネさん、そんなことまでできるんですか?」


 ミレーネは胸を張って答えた。


「わたしに不可能はあんまりない!」


 かくして計画の実行は決まった。


「よし、明日だな」


 明くる日の朝課の鐘の音。それが、王都との別れの合図となる。



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