第一話 教団の使者
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リオテネ国内南部に位置するコーズ町。都市からは離れているため、人口は多くない。言ってしまえば田舎だ。そんな町の人気のない一本道を、静かに歩いている男がいた。白髪に赤い目、肌は浅黒い。おまけに黒いコートを羽織っている。全く田舎道に合わないその男の名は、スレイブと言った。スレイブは長い足である場所へ向かっていた。町外れにある町長の家だ。やがて一本道も終わりを告げ、そのすぐ先にある少し大きな家がスレイブを出迎えた。
軽いノックをして、少し待つ。そして扉が開かれ、町長がスレイブを見上げると、恐る恐るといった様子で「どちらさまでしょう」と言った。暗い声だ。
「教団の者だ。コム・マーレン町長でよろしいか?」
コムは頷くと、中へ入るよう促した。
もう日が沈み、辺りは真っ暗だというのに、町長の家の明かりと言えば木製のテーブルの上にあるろうそくの火ぐらいだ。電灯があるというのに、町長はスレイブを招き入れた後もそれを使おうとはしない。ゆっくりと椅子に腰かけると、ろうそくの火を消さないように両手で風を遮る町長。何故屋内なのに風が吹いているのか疑問だったが、スレイブはあえて聞かないことにした。
しばしの沈黙の後、切り出したのはコム。それは世間話などでは無く、コムにとっては町全体に関わる重大な話だった。
「私の妻ケイ二―と娘のフィリー、二人の行方が未だに分かりません。依頼を出したのが一週間前。失踪してからもう一か月経ちます。はたから見ればよくある失踪事件の一つなのですが、私にはそう見えない」
「その辺りは依頼書だけで十分だ。何故教団に頼ったのかが知りたい」
そっけない態度。しかし元からだ。
「私は妻と娘が消えたその瞬間まで、一緒にいたんです。あの時、私達は知人から依託された古い屋敷の掃除をしていた。三人がそれぞれ違う部屋を当たり、一段落したので図書室で一息ついてた。その時、唸り声と何かを引きずる音が聞こえたんです。音が聞こえないかと二人の方を振り返ったら、そこにもう姿は無かった。
…………あなた方に頼んだ理由は、二つある。一つは警察の捜査なんてあてにならないと思ったから。もう一つはこんな事を堂々と頼める怪しい組織なんて、あなた方の所しかなかったからです」
後半を喋る内にコムの顔が赤くなり、茹蛸のようになった。恐らく、本当の事を言って警察に疑われたのだろう。まあ、当然と言えば当然だ。真っ先に疑われるのは嘘くさい証言をするコムだから。
「おおむねの事は分かった。早速だが、この書類にサインをして欲しい。契約事項だ。サインが終わったら言ってくれ」
鞄から取り出した一枚の紙とペン。それをコムに手渡す。コムは不安げな表情を見せながらも、サインをした。
「これでいいんですか?」
「ああ。じゃあ、俺はこのまま屋敷に行って色々調べようと思う。屋敷の場所を教えてくれ」
コムに教えられたとおりの道を進むと、それほど大きいわけでもない、木造の古びた屋敷の門前に着いた。錆びた鉄製の門を開き、庭へ入る。そして玄関を開けた。
――暗い。雲に隠れていた月が顔を出したため外は明るいが、中にまで光は及ばなかった。手に持っていたランタンを床に置く。懐からマッチを取り出し、擦る。そしてマッチの火をランタンに近付け、明かりを灯した。
ランタンのおかげで屋敷の中の様子が分かる。薄汚れた壁に貼ってある拙い絵が描かれた紙、その横にあるのは大きな額で飾られた美しい人魚の絵。何とも言えぬアンバランスさだ。
ランタンを目の前に掲げ、前方を照らす。そこにあったのは二手に分かれた大きな階段だ。赤のカーペットが敷かれているが、やはりというか、汚い。スレイブはランタンをそのままにしながら歩きだした。階段には曲線になった木の手すりが備えてあったが、どこもかしこも蜘蛛の巣だらけだ。なるべくてすりに近寄らないように、スレイブは左の階段を上がっていく。静かな屋敷には階段が軋む音がよく響く。不気味さはより一層、色を濃くする。二階にやって来たスレイブはまず、図書室を探した。手がかりがある可能性が一番高い場所がそこだ。何部屋か回った後、最後に来たのは黒い扉の付いた部屋の前だ。スレイブは迷う事無く扉を開いた。
大きな窓が一つ。それ以外は何もない。図書室には物が何一つ置かれていなかった。窓から見える大きな月。その光が窓を通して少しだけ図書室の中を照らしていた。ランタンを窓際に置くと、スレイブは部屋の中を歩き始めた。物が無い部屋の中は、少しさびしく感じられた。
壁伝いに歩き、人差し指で壁をなぞる。
(何もない……? いや、これは――)
悪魔。スレイブがその気配を感じ取った時にはもう先手を取られていた。肩に感じた痛みを抑えながらその場から距離を取る。さっきまで自分がいた場所を見ると、そこには細長い針のような物が天井の方から伸びていた。
不意打ちによって傷を負わされたというのに、スレイブはいたって冷静だった。目を細め、天井の方を見る。そこには異形の者がいた。膨れ上がった大きな腹を支える八本の脚。そのどれもが鋭利で刃物のようだ。そしておよそその体には不釣り合いな美女の頭が腹から出ていた。どうやら針はその美女の口から出てきているようで、必死の形相でスレイブを睨んでいる。
「今までどこにいやがった……」
苦々しく呟くスレイブ。そうしている間に傷つけられた肩の部分が蠢き、瞬く間に元通りとなった。そして完全に傷口が塞がると同時にスレイブは走り出し、右手を後ろで構える。蜘蛛女は天井を八本の脚で自由に飛び回り、挑発をしている。
「シッ!」
構えられた右手から放たれたのは、実体のない矢。魔力だ。実際の矢と変わらぬ速さで飛んで行った魔力だが、目標は寸前で身をよじり、落下しながらそれを避けた。そしてそのままの体勢で攻撃を仕掛けてくる。そして両者は激突した。
一瞬視界が真っ赤に染まり、そしてそれは蜘蛛女の血だという事にスレイブは気付く。スレイブの右腕はさっきまでの形とは全く違うものになっていた。肉を変化させ、刃物のように鋭い。そこには赤く滴る血があった。次の瞬間、女の叫び声が部屋に響く。右側の二本の脚が根元から切断され、蜘蛛女は不様に床を這いつくばっていた。しかし、それも束の間、蜘蛛女の脚から果物を潰した時のような瑞々しい音が聞こえると、足の切断面から赤い肉の塊が飛び出し、膨張した。そして段々と落ち着き、紫に変色すると、元通りとなった。
再生。それは悪魔が持つ驚異的な力の一つだった。決して無限ではないが、手足の損傷程なら直ぐにでも治ってしまう。この治癒の範囲を超えた再生の力。そして個々の才能によって手品から魔法にまで姿を変える魔力。悪魔という生物に備わる非常に高い身体能力。これらの力によって、人は悪魔に苦戦していた。一部の才能の開花によって人々の中に魔力を使える者も現れ出したが、依然として力の差はそこにあった。驚異的な再生能力、驚異的な身体能力、この二つだけはどんな方法を使っても人には備わらなかった。絶対に。
だが、スレイブは自在に使いこなせて見せた。何故彼が悪魔にしか使えないはずの力を使えたのか。それは彼の出生に起因している。
彼には悪魔の血が半分流れている。もう半分は人の血が。父が悪魔で母が人。本来有り得ない混血。しかし、実際そこでは交わいが起こり、スレイブが生まれた。それは愛があっての行為ではなかった。母にあたる人物には夫がいて、息子もいた。悪魔は女の夫が憎かった。それだけの理由でスレイブは生を受けたのだ。そしてさらにこの悪魔は女と夫を殺している。その後は、何処へ行ったのかも分からぬまま。残されたのは半分同じ血が流れている名も知らぬ兄とスレイブだけ。二人は女の夫の同僚、教団の一員のロズという男に拾われ、共に暮らした。しかし、兄はスレイブを許さなかった。そのまま長い時間を過ごし、二人は教団に入った。その目的は同じ。忌々しいあの時の悪魔を殺す事だった。
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