1、憧憬を抱く深海の乙女
澄み切った蒼の空が地平線の先まで続く海原を、陽光が鮮明に照らし出す。
穏やかな波音を鳴らす海はキラキラと輝きを帯びて、世界を巡っていく。
私達の故郷である、母なる海。
その海底奥深くには、人類にとって未だ未体験の領域が数多く残されています。
珊瑚礁が生態する美しい熱帯地方の平和な海。
その深海に潜って行くと、神域の如く巨大な泡に包まれた、清き眼を持つ者のみが見える不思議な王宮が姿を現します。
人が足を踏み入れたことのない深海の楽園。
そこは人魚達がひっそりと営みを続ける人魚の国でした。
人魚……それは女性の頭部と上半身、魚類の尾を持つ伝説上の生き物であり、数々の伝承を生み出してきた神秘的な存在です。
人を惑わせ、美しき歌声で船を沈めた恐ろしい逸話や、八百比丘尼と呼ばれる、人魚の肉を食べて不老不死となった女性の伝説など、人魚を巡る美しくも悲しい心に残る伝承は数多く残されています。
人魚の国の宮殿とその周辺の海域には、六百体程の人魚が慎ましく人の目を避けて暮らしていて、人魚達は国を統べる女王の意向により、そのほとんどが人間を恐れていたのでした。
しかし、深海の図書館の司書館長、アーリアだけは違っていました。
アーリアは図書館長という立場柄、危険を及ぼしかねないとされる、人間達を調査する権限を有しており、近海にある島を度々巡っては、人間達の動向を探る役目を担っていたのです。
他の人魚達には真似のできない仕事を任されてきたアーリアは人間を恐れることはなく、むしろ強い関心を持って、島々を巡っています。そして、人間達との交流の中で得た経験を後世に残そうと、多くの資料を書き残しているのでした。
そんなアーリアは今日も図書館のデスクに腰掛けて人間達との交流や島での暮らしについて筆を執り、書き記していました。
その正面の席にはアーリアよりも小柄な人魚の乙女、アクアが興味深々な様子でアーリアの貴重な体験に耳を傾けます。
二人は姉妹にして大の仲良し。こうして図書館に入り浸っては、時間を忘れて夢中になって談笑を楽しんでいたのです。
「お姉様、今日はどんな御話を聞かせてくれるのですか?」
大学の教授と生徒の関係のように、高い関心を持ってアーリアに地上での思い出をねだるアクア。この人魚の国ではそれだけ、地上に出た人魚の数は少なく、地上に出ることは簡単ではなかったのでした。
「アクアは人間に興味があるのよね。そうね、人間には少し面白い習性があるの。人間達はとっても雑食で不思議なくらい何でも口にするのよ」
興味津々な様子のアクアへ自慢げに自分の持つ知識を話すアーリア。
人間の記述を読めば読むほど関心を抱き、目を輝かせるアクアの希望に沿って人間の生態系について話していく。
こうした語らいの時間はアクアに地上への憧れを募らせ、人魚の国を離れる原動力を成長させていきます。
「何でもですか? セイレーン様は一緒に暮らしている動物まで食べてしまう
人間は野蛮だと話していましたが」
反射的に身体を丸くさせ、怖がるアクア。人魚達の暮らす国では許可された者以外、島で暮らす人間達と関わることは禁忌とされ、人間に食べられてしまうと恐れられていました。
セイレーンの教えを守るアクアにとって、アーリアの言葉は反射的に恐ろしく感じられたのです。
「今日したいのはそういう怖い話じゃないのよ。人間達はわかめって呼んでる海藻も食べるし、タコやイカも食べるの。それがとってもコリコリして美味しくてね。火を使って上手に調理をして食べやすいよう振舞ってくださるのよ」
「あのウネウネしてなかなか手で掴むのが難しいタコやイカをですか? 人間は凄いですね。アクアには真似できないです」
人魚の国で暮らす人魚達は地上で暮らす人間のように火器を使うことはなく、同じ海に棲む海洋生物達とさほど変わらない食生活をしています。
そのため、人間ほど豊富な食材を調理して食べる習慣はなく、アーリアにとって人間との交流は新鮮そのものでした。
アーリアは島に立ち寄り注目を浴びないよう気を付けて交流を深め、その中で出会った料理人の青年と親しい友人となり、貴重な料理を振舞われ、歓迎を受けていたのです。
「お姉様の島巡りの話は興味深くてとても楽しそうです。人間達は恐ろしい生き物だとセイレーン様は仰いますが、そうとは思えません」
「何事も巡り会わせよ。ここにいても新しい出会いはなく、地上で暮らす人間達との出会いはどれも新鮮なのに。私達、人魚の事を大切にしてくれる人間だっているわ。それでもセイレーン様はお分かりにならないのよ」
怖がるアクアに”巡り会わせ”の大切さを説くアーリア。
人間達との交流は決して良いことばかりではないと知りつつも、それでも人間達との交流にはそれ相応の価値があると考えるアーリアは、人間達との関わり合いを最小限に留めようとする女王の方針に異を唱えていました。
「セイレーン様はやっぱり、人間がお嫌いなんですかね」
揺るぎない信念を持つアーリアに対して、表情を曇らせるアクア。
海の泳ぐのが苦手で、まだ幼い心を持つアクアは経験が乏しく、何が正しいことなのか、判断できるほど大人ではありません。
「ええ、そうね。でも、私の奏でる横笛の演奏はとても人間達に好評なの。最初は怖くても、お互いを知っていく過程で仲を深めれば、もっと交流だって出来るはずよ。こんな深海の奥で隠れるように暮らさなくても」
アクアが関心を寄せる中、人間と人魚の将来について想いを馳せるアーリア。
アーリアの理想は容易な事ではないと女王は考えていましたが、人間達との思い出を積み重ねてきたアーリアは簡単に諦めることが出来ませんでした。
尽きることなく談笑を続ける二人。
人間達との出会いを拒むように深海の奥深くで暮らす人魚達。
静かで脅かされることのない平穏な日常。
ですが、アーリアが人間の男に恋を落ちてからアクアの運命は回り始めます。
人魚の国の女王、セイレーンは人間に心を許してしまったアーリアの身を案じて交流を中断するよう言い渡したのです。
さらに、それだけでは終わらず、アーリアが書き溜めてきた人間との親しい交流の記録を読み、他の人魚達が浮き立つ姿を見て、セイレーンはアーリアの書いてきた大切な本を捨ててしまいます。
本を捨てられてしまったアーリアは女王の人間嫌いに失望し、人魚の国を離れてしまいました。
ついに人魚の国に帰って来なくなってしまったアーリア。
アーリアは閉塞感が続く人魚の国を飛び立ち、自由を求めて島で暮らすようになったのだと噂が広まって行きました。
恋に落ちた男性との馴れ初めやすぐにでも会いに行きたい衝動を聞かされてきたアクアは複雑な心情に陥りました。
人魚の国にもマーマンが暮らし、共同生活を通じて愛を育む者もいましたが、狭い人魚の国では出会いはそう多くありません。
幼い頃から交流のある者同士では恋焦がれるようなロマンスを経験する機会はほとんどなく、閉鎖的な空気になってしまいます。
そのため、アーリアのような自由な生き方に憧れを抱くものが現れても不思議ではない環境だったのでした。




