第六章「魔力回路の目覚め」
翌朝、私は街の喧騒から少し離れた、見晴らしの良い丘の上に立っていた。
視界の先には、街道をパタパタと小気味よい音を立てて走っているパタパタの群れが見える。その傍を爽やかな風が吹き抜け、足元の草花が波のように揺れていた。
「いい、サキ。魔法はイマジネーションだよ。でも、あんたの場合は少し特殊ね」
ソニア師匠(さっそく心の中でそう呼んでいる)が、私の唇を指差した。
「あんたは体内の魔力を直接放出するんじゃない。その口紅という触媒に一度魔力を通し、色を確定させてから放っているわ。いわば、口紅が魔法のレンズになっているのよ」
「レンズかぁ。じゃあ私がやることは、そのレンズに上手に光を通すこと?」
「そうね。昨日の暴走は、光が強すぎてレンズが耐えきれなくなった状態よ。まずは弱く、細く、長く通してみなさい。目標は、あそこにある枯れ木」
私は深呼吸をして、ポケットから赤い口紅を取り出した。恐怖が蘇り、指先が少し震える。
「大丈夫、私がついてる。失敗したら、あんたの口を塞いででも止めてあげるわよ」
「それ、逆に怖いです師匠!下手したら死ぬ!」
ソニアさんの冗談(本気かもしれない)に少し肩の力が抜けた。
私は唇に薄く、丁寧に赤を引いた。
(えっと……ろうそくの火を灯すようなイメージで……いいのかな?)
「い、いくよ……!えいっ!」
唇を突き出し、ふっと息を吹きかける。
喉の奥から、熱い炭酸が逆流してくるような不思議な感触。それが唇に塗った赤色に触れた瞬間、パチッとはぜる音がした。
指先ほどの小さな火の玉がポシュッ……と弱々しく飛び出し、数メートル先で力なく消えた。
「……あ。弱すぎたかな?」
「いいえ、上出来よ。今の感覚を忘れないで。魔法は発射じゃない、対話よ。あんたの意思をその色に乗せて、優しく押し出してあげるの」
ソニアさんのアドバイスを聞きながら、私は何度も唇を尖らせた。
何十回目かの試行で、今度は青を試す。ひんやりとしたメントールのような涼しさが唇を駆け抜け、小さなつむじ風が草原を撫でた。
「すごい……。色によって、体の中を通る感覚が全然違うんだ」
次第にコツを掴み始める。赤を塗れば火が、青を塗れば涼やかな風が出るのも分かった。
「……ねえ、師匠。この口紅、使うたびに減っていくんです。もしなくなっちゃったら、私はもう戦えなくなるのかな?」
ふと不安になって漏らすと、ソニアさんは私の手にある口紅をじっと見つめた。
「昨日、その道具が変な光り方をしてたって言ったわね。……ちょっと貸してみなさい」
ソニアさんは口紅を受け取ると、腰のポーチから小さな青い宝石――魔石を取り出した。
「これはズルガロンの体内から稀に採れる魔力の結晶よ。これを、その口紅に近づけて……あんたの魔力で吸い上げるイメージを持ってみなさい」
言われた通り、ソニアさんが持つ魔石に手をかざし、口紅へと意識を繋ぐ。
すると、魔石の青い輝きが霧のように溶け出し、吸い込まれるように口紅の中へ入っていった。
「わっ!……口紅が、ちょっと長くなった!?」
驚いて口紅のケースを回してみると、確かにさっきまで削れていた先端が、滑らかな曲線を描いて復活していた。
「すごい……。魔石を食べる口紅なんて、元の世界の人に言っても信じてもらえないよ」
嬉しいはずなのに、どこか不気味でもあった。この紅い棒は、ただの化粧品であることをやめ、この世界の理を飲み込んで成長している。
「やっぱりね。それは魔力を物理的な質量に変換して蓄える、最高級の成長型触媒なんだわ。……でも、気をつけなさい」
ソニアさんの表情が少し険しくなる。
「その魔石は元々、ズルガロンの命よ。言わば他人の血を混ぜるようなもの。あんたの魔力じゃないものを混ぜれば混ぜるほど、魔法の純度は下がるわ。……道具を信じすぎては駄目よ。最後はあんた自身の力が、色の純度を決めるのよ」
言葉の意味を理解して不安に駆られたその時だった。
遠くの空から、チリリの群れが慌ただしく飛び去っていくのが見えた。
「……サキ、遊びはここまでよ。お客さんみたい」
ソニアさんの視線の先をみると、丘の下から三人の男たちがこちらへ歩いてくるのが見えた。
男たちの足取りは、軍人のように正確で、かつ不気味なほど足音がしなかった。揃いの紺色のローブを纏い、胸元には銀の天秤の紋章――『魔術師ギルド』の証が刻まれていた。
「特異な魔力反応を確認した。そこの娘、調査に協力してもらおうか」
リーダー格の男が、感情の消えた声で告げる。
フードの奥から覗く瞳は爬虫類のように冷徹で、私を人間としてではなく、珍しい珍品を見るような冷たい色をしていた。その視線は私の顔ではなく、私の手元――口紅へと注がれている。
「その媒体……未登録の違法魔導具と見受ける。魔力の波形が既存のどの系統にも属さない。……それは、この世界の秩序を乱す毒だ。直ちにこちらへ引き渡し、貴様も鑑定のために塔へ同行しろ!」
言動のすべてが決定事項と言わんばかりの高圧的な態度に、私の背筋に冷たい汗が伝った。
「……私の弟子に、何か用?」
ソニアさんが、一歩前へ出て剣の柄に手をかけた。
彼女の体から、目には見えないけれど暴力的なまでの威圧感が放たれる。
「ギルドのルールなんて、あたしたち冒険者には関係ないわ。この子に触れたいなら、まずはその杖を折ってからにしなさい!」
静かだった丘の空気が、一瞬でピリリと張り詰めたのが分かった。




