60話 押し寄せる大群
入江の洞窟前、海岸に停車したワゴンR。
ハンドルの向こう、運転席に腰掛けたカトリナは、紙袋から取り出した玉子サンドを両手で包み込むように持ち、幸せそうにかぶりついた。
「むぐ……えへへ、美味しぃ……やっぱり玉子サンドが一番だぁ」
ふわふわの白パンが歯に触れた瞬間、しっとりとした卵フィリングがふわりと口に広がる。マヨネーズのまろやかな酸味と、ほのかな甘みが舌を優しく包み込み、噛むごとに黄身のコクがじんわりと染み出してくる。
パンの耳は薄く柔らかく、ひと口ごとに海から吹き込む潮風が香りを添える。遠くから届く波の音が、そのまろやかな味わいに微睡を添えるように溶け込む。
カトリナは頬を膨らませたまま小さく笑い、背もたれを少し倒してゆったりと腰を沈めた。
革のブーツに包まれた足を軽く伸ばし、海の青を横目に眺めながらもぐもぐと噛み締める。
デスマグロ漁船で働いていた頃は、海の上にいても休む暇なんてなかった。潮風は塩辛く、打ち付ける波音は常に荒々しく、食事は立ったまま流し込むだけ。あまり食べ過ぎると船の揺れに胃が耐え切れないので少食で。雨風に吹き荒ばれながら船外で必死に綱を手繰り寄せる。
過酷、思い出しても胃がきりきりと痛む。
今こうして陸で、潮の香りを吸い込みながら、柔らかなパンを味わえることが、なんだか夢みたいだった。
洞窟に向かった輪達の事は無論心配ではあるが、運転手席に待機している以外何も出来ず、カトリナは束の間の一人時間を満喫中。
「よーし、次はメロンパンを──」
紙袋の中を覗き込み、黄金色の丸いパンを取り出そうとした、その時──、
『バイト、発進準備』
「……はぇ?」
唐突に響いたカーナビからの冷ややかなアナウンスに、カトリナはメロンパンの袋を持ったまま瞬きした。
車内の穏やかな空気が、潮風と共にすっと冷える。
何だろう、と首を傾げたその時、ふと視線の端で、洞窟の前に立ちこめる白いもやのようなものが揺れた。
違う。もやではなく、土煙だ。
低い地鳴りが、足元からじわりと伝わってくる。
眉をひそめた瞬間、暗い洞窟の口から三つの影が飛び出した。
見慣れた姿──リュシエルと輪、そしてなぜか黒いローブのケセドが小脇に抱えられている。
その後ろから、地面が波打つように隆起し、複数の土塊がうねりながら這い出してくるのが見えた。
「……え、ええええええええ!?」
慌ててメロンパンを紙袋ごと座席に放り出し、キーを回してエンジンを始動。
アクセルを踏む足が汗ばんでいるのを感じながら、頭から突っ込む形で駐車していた車体を、切り返して海岸の方へ向ける。
後方ミラー越しに、洞窟の口から溢れ出す影──土と岩で出来た無数の人形が、砂浜を揺らしながら迫ってくる。
まるで雪崩のような質量感。地鳴りが波音を飲み込み、胸の奥まで響く。
「え、ちょっと……これ全部、ゴーレム……!?」
目の前の光景が信じられず、声が裏返る。
切り替えたハンドルの横から、不意に涼やかな声がした。
見ると、いつの間にか助手席に涼し気な顔をしたリュシエルが座っている。ライダースーツに包まれた長くしなやかな脚を組み、刀を抱え込んでいる。
「淑女は慌てふためかない物ですわ……はむっ」
言葉通りその顔には一滴の汗もなく、まるで海岸ドライブを楽しんでいるかのような落ち着き。更に楽しみにしていたメロンパンまで、いつの間にか食べられている。
カトリナは思わず「あぁそれわたしのメロンパン!」と叫びかけたが、後部座席のスライドドアが勢いよく開いた音にかき消された。
「カトリナ!直ぐ出してくれ!」
輪の声。その腕には、ぐったりとしたケセドが抱えられている。
彼を無造作に後部座席に放り込み、輪も身を滑り込ませる。
「あ、あいあい!」
アクセルを強く踏み込むと、タイヤが砂浜を蹴り上げ、車体がぐんと前に押し出された。
背中を座席に押し付けられながら、青白い顔をしたケセドが息を荒くして呟く。
「いやぁ、研究者に突然の走り込みは厳しいね……」
「お前、100メートルで青い顔してるのは運動不足にも程があるだろ……!」
細身とはいえ長身の男性一人を小脇に抱え洞窟の走り難い道を駆け抜けてきた輪は息を荒げている。
走っている最中に唐突にケセドの顔が青白くなり、力無く倒れ込んだ。放置しようかを真剣に迷った末、ゴーレムに轢き殺されるのは忍び無いと、輪は運んで来たのだ。
途中スマホから舌打ちが聞こえた気がしたが、耳鳴りという事にしておいた。
「な、何があったんですか!?」
「……交渉決裂みたいだ」
輪は肩越しに、窓の向こうの海岸を振り返った。
砂浜の奥、洞窟の口はもはや黒ではなく、蠢く土色に埋め尽くされている。
大小さまざまなゴーレム達がぎっしりとひしめき合い、ない筈の全ての眼孔が、走り去る車をじっと追っていた。
砕けた石が互いに擦れ合う音、砂を噛む足音──まるで何百もの太鼓を一斉に叩くような低い響きが、遠ざかるはずの車内にまで染み込んでくる。
その最前列、ひときわ背の高い影が潮風を受けて立っていた。
左腕には、海の白波のような布──白いリボンが、硬い岩肌に結ばれている。
風が吹くたび、細い布ははらりとはためき、朝日を反射して淡く光った。
その巨体は動かず、ただこちらを見据えている。
眼の奥には怒りでも敵意でもない、もっと別の感情──押し殺した哀しみのようなものが宿っていた。
車が砂浜を抜け、視界から洞窟が遠ざかっていく。
それでも、白い布の揺らぎだけは、輪の網膜に焼き付いたまま離れなかった。
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