57話 託された物と花の折り紙
教会の書庫で遠井 美咲の書いた日記を閉じた輪は、しばらく動けずにいた。
静寂の中、ノートの重みが手の中に残る。まだ書いた時の彼女の手の温かみがあるような気がして、それがかえって胸にこたえた。
彼女は確かに、この世界で生きていた。苦しみを抱えながらも、誰かのために。
誰にも庇われることなく、ただ黙って消えていった。今はその恨みを晴らそうと、ゴーレム、ターロス達を港町へ仕向けている。
そんな彼女の言葉を──手帳という形で、輪は受け取ってしまった。
誰が責められるだろう。この自分の為の敵討ちを。あの町長の態度、人間性を見た後だから尚更。
「……っ」
息を吐く。
錆びた蝶番の音と共に扉を開け、輪は教会を後にした。外の空気は湿って、夜の手前の冷たさを含んでいる。
崩れかけた石壁を越えて、砂埃の舞う道を戻る。その先に、キッチンカーが見えてきた。
ナビ子のスピーカーから流れるBGMは、今もどこか場違いな明るさを保っている。
キッチンカーの脇には配給を待つ人々の列。疲れた表情の中に、わずかな期待が宿っているのが分かる。
それを支えているのは、いつものエプロンをつけたカトリナと、ライダースーツにエプロンという奇天烈な格好をしたアルバイト2号のリュシエルの姿。
「はい、どうぞ!サンドウィッチとコロッケパンです!」
「……ありがとうございます、本当に助かります……!」
「礼など不要ですわ。次の方、列を詰めてくださいな」
暴迅の凄み、空気を引き締める威圧が功をなし、列は町民達が自主的に形成している。
輪は無言でその光景を見つめた。
焼きたてのパンが袋に入れられ、一人一人の手に渡されていく。
小さな子供が母親の手を引きながら、香ばしい匂いに鼻を鳴らしている。
それを見て、輪の胸に鈍い痛みが刺さった。
──あの子を裏切った人物は、間違いなくこの中にもいる。庇わず、見過ごした。恩人にも関わらず、酷い言われを糾弾せず。
輪はキッチンカーの影に立ち、目を細めた。
日記に記されていた、裏切りと沈黙の記録。彼女が幾ら身を削ろうと、町は彼女を守らなかった。
恐怖に負けて、沈黙を選んだ。そして今、何事もなかったかのように、配給に並んでパンを受け取っている。町長と同類、そう思えて仕方なかった。
「……助ける価値、あるのか」
思わず口をついて出た言葉に、自身でも驚いた。
スマホが振動。輪がポケットから取り出すと、液晶にはセレア街までの道順、掛かる時間が表示されていた。
『当車輌は輪様の意見を尊重致します。希望であれば、今からでも出立可能です』
機械なりに慰めているのか。輪はAIと思えない気遣いを掛けてきたナビ子に苦笑しながら、再度列の町民達に目を向ける。
「いや、まだいい。でも、この町にいる必要、あるのかって……」
怒りと虚しさがせめぎ合う。
荷物を片付けてセレア街に戻ればいい。物資は配った、任務は終わった。人命救助はそもそも請け負っていない。もう深入りする義理はない──そう考えていた、まさにその時だった。
「お兄ちゃんっ!」
輪の胸に、突き刺さるような声が響いた。
はっとして顔を上げると、列の後方から、ひとりの少女が手を振りながら走ってくる。
薄汚れたスカートを揺らしながら、怪我をしているのか包帯を巻いた赤い靴の片方を引きずるようにして。それでも懸命に走ってきたのだろう、頬は上気し、瞳はまっすぐこちらを見ている。
「ありがとうっ!お腹いっぱいで、すっごく嬉しいの!」
少女は両手を差し出した。そこにあったのは──、
「……折り紙?」
信じられない物を見た。空いた口が塞がらず、辛うじて元の世界で見覚えのあるその名前が口から漏れる。
花の形に丁寧に折られた紙。異世界で見かけることのない、チューリップの形をした日本式の折り方。
重なる花弁のバランス。少し斜めな折り目。確かに、誰かの手で丁寧に作られたそれは、輪の記憶の中にある風景と重なった。
「これ、どうしたの?」
「えっとね、白い服のお姉ちゃん……ミサキさまに教えてもらったの!」
少女は美咲との交流を思い出しながら、嬉しそうに笑う。
「すっごく優しかったんだよ?みんなに教えてあげてたの。お花はね、見てると元気になるって」
その言葉に、輪の心臓がきゅっと掴まれる。
彼女が残した景色。残酷な物ばかりじゃない。人を助けようと不器用ながらにもがいた証。それは今も、この町に生きている。
この娘が、その証拠。彼女の“優しさ”が、間違いなく届いていた。
「……ありがとう。大事にするよ」
輪が花を受け取ると、少女はぱっと笑い、また列へと戻っていった。
振り返って、ひらひらと手を振って。
輪はその背中を、しばらく見つめていた。
──この娘も、彼女が残した命の一部。
──ならば、美咲が怒りで町を壊そうとしているなら、あの娘も犠牲になる。
──そして、あのノートに記された願いも、青銅の英雄から名をとったターロスたちも、意味を失ってしまう。
唇を噛みしめ、輪はぎゅっと折り紙を握った。
「……ゴーレムを……いや、ターロス達を、止める」
はっきりと、言葉にした。誰にも聞かせるためではない。
自分自身の心に刻みつけるために。
「美咲さんにも、ちゃんと……話さないと」
この世界に来て初めて、本当に会わなければならない誰かが、目の前にいる。そう思えた。
「決心したかい?クッルーマーの主」
人が決心した時に水を差す様な声。流石水星、頭を冷やしてくれる。
振り向くと身を覆うような黒いローブ姿で、キッチンカーの前面に抱き着き、真顔で輪へキメ顔を向けるケセド。
なまじ顔が整っているだけに不気味な蝉のよう。
『たっけて。犯されます』
救助を求めるナビ子だが、そこは敢えて流す。彼の奇行を逐一注意していれば時間が幾らあっても足りない。
「止めるよ。この町を壊すのを……女神様と話さなきゃな」
「ならば僕も同行しよう。ゴーレムを調査する事が僕の任務だからね。なに、クッルーマーの内部では粗相はしないと約束しよう」
ターロス達は美咲の日記によれば最低でも30体は優に存在する。未だ水星の戦力は未知数だが、戦闘員の頭数は多い方がいい。
明日、ゴーレムが再度襲撃するまでの2日間、その間にこちらから仕掛ける。
『え?乗せる?これを、当車両に?嫌です拒否します嫌悪します、乗せたら最後末代まで祟ります』
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