28話 崩壊する村と狐の男
この村、ディルマには、かつて何もなかった。
名産もなければ、人が通る街道すら外れていた。地図に載ることすら少ない、小さな村。山の麓にあるせいで陽当たりはまばら、朝晩は冷える。その上、土は粘り気が強く、果物や野菜には向かない土地だった。
それでも──と、少女だった頃のハナは、誇らしげに語ったものだ。
「うちの村はね、麦が名物なのよ」
今となっては、その麦こそが、村の命脈だった。
始まりは、ハナの父。現村長の、まだ若かりし日のことだった。
誰もが「こんな土地で何が育つか」と半ば諦めていた時代に、父は一つの種を蒔いた。
麦──寒冷地でも育ちやすく、発芽から収穫までが短い。山から流れ込む水と、昼夜の寒暖差も相まって、品質の良いものができるかもしれない。そう言って、何年も土を掘り返し、試験的に畑を広げていった。
当時の村人たちは彼を笑った。「馬鹿なことをしている」「土いじりに夢見すぎだ」と。だが、父は折れなかった。誰に何を言われようと、諦めず、土と風と対話を続けた。
──そして五年。
初めて麦が豊かに実ったその年、村はざわついた。収穫された麦は黄金色で、粒は張りがあり、味にも香りにも驚きがあった。近隣の町に出荷したところ、高値で売れた。
村は変わった。人が笑うようになった。祭りが戻り、道が整備され、麦の倉庫が立ち並んだ。
父は功績を認められ、村の中心人物になった。そして村長に就任した。
その頃には、父の隣には美しい女性がいた。ハナの母だ。黒髪の柔らかな人で、細身で、凛としたまなざしを持つ人だった。
──父は、母を深く、深く愛していた。
村長としての責務の合間を縫っては、母の髪を撫で、手を握り、時には小さな歌まで口ずさんでいた。幼かったハナは、その様子をよく覚えている。
食卓で、外出先で、寝室の明かりが漏れる廊下の先でも──父の眼差しはいつも、母へと注がれていた。
娘としての寂しさが、なかったわけではない。
けれどそれでも、あの頃の我が家は、確かに「幸せ」だった。
──そんな日々は、ある日、ふと終わった。
最初に崩れたのは、母の体調だった。
原因は、わからなかった。ただ、ある日突然、母は食欲を失い、咳き込み、体を横たえる時間が増えた。医者を呼んでも原因は掴めず、薬も効かなかった。父は必死だった。夜中に飛び起きては母の額に手を当て、全国の薬草を取り寄せ、祈るように看病を続けた。
けれど、想いは届かなかった。
──春の訪れと共に、母はこの世を去った。
まるで、静かに、花が落ちるように。
その日、父は泣かなかった。いや、泣けなかったのかもしれない。母の遺体に顔を伏せ、何時間も動かず、声ひとつ漏らさなかった。
そこからだ。
父は、変わってしまった。
村の中心にいたはずの人が、姿を見せなくなった。家から出ず、書斎に閉じこもり、仕事も人付き合いもすべて拒絶するようになった。
家は、寒かった。
灯火はついていても、誰もいないような気がした。
代わって村の雑事や取引、来訪者の対応は、すべてハナが引き継ぐようになった。まだ幼かったけれど、元々政治の勉強をしていたせいで、書類も金勘定も把握していた。わたしが守らなきゃ、父が自分を取り戻した時のために。
父に話しかけても、返事は上の空で──いつも、母の写真をじっと見つめていた。
思えば──あれが“始まり”だったのかもしれない。
村が、静かになり始めた。
豊かになった村は、何も言わなくても回っていく。麦は育ち、倉庫は満たされ、交易も滞りなく進む。けれど、どこかがおかしい気がした。父が主催していた年数回の祭りは誰も引き受けずいつの間にか無くなり、子供たちの声が減り、大人たちの笑顔が薄れていった。
──そんな時だった。
あの“狐面の男”が、村を訪れたのは。
その日は夕方、麦の在庫を確認して倉庫の鍵を締めて帰ろうとした時だった。赤黒い服を纏い、顔は奇妙な事に狐。体は成人男性だが、その顔には狐が乗っていた。
背筋が凍るような、けれど礼儀正しい口調の男が、不意に声をかけてきた。
「ここは、静かでいい村ですねぇ」
最初は旅人かと思った。でも、違った。彼は、倉庫の麦や村の構造をひと目見ただけで理解していた。
「人材も、環境も申し分ない……実験には、理想的な場所です」
そう、笑った。
──そして翌日からだった。
父が、再び外に出るようになったのは。
* * *
「それから……お父様は、変わったんです」
ハナは小さく震える声で語りながら、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
輪とカトリナは正面の椅子に座ったまま、言葉を挟まず、じっと彼女の語りに耳を傾けていた。
「最初は、久しぶりに外に出てきてくれたことが……嬉しかったんです。本当に……。でも、何かが違った。あの狐の男と話す時の、お父様の顔……笑っていたのに、笑ってなかった」
彼女の視線は、遠くを見つめるように、どこにも焦点を合わせていなかった。
「その男が村に来てから、しばらくして……村の人達が、急に静かになり始めました。“同じ言葉”しか喋らなくなって。問いかけても、ずっと同じ行動と言葉を言うだけの──人形みたいに」
輪とカトリナは顔を見合わせた。
「村の紹介したりとか、『泊まっていくのね』とか」
「はい……気味悪くて、怖くて……っ」
ハナは歯を噛み締めるように唇を噛んだ。
「お父様は、知ってたんです。あの男が、村人を“壊して”いってることを。それでも何も言わなかった。……言えなかったのかもしれません。だって……その代わりに、あの人は、お母さんを“戻してくれる”って……そう、言われたから」
室内の空気がぴたりと止まった。
戻す、とはどういう事か。魔法のある世界だとは認識させられたが、死者蘇生なんて芸当が果たして可能なのか。
「お父様は、“死者を蘇らせる”って言葉に、縋ったんです。私がいくら『それはお母様じゃない』って言っても……『いいんだ。お前には分からなくていい』って……」
カトリナが唇を噛んだまま、手元で握りしめたお玉を震わせた。
「私……怖かったんです。お父様に反対すれば、きっと私も……“ああされる”って。実際、何人も、あの納屋に連れて行かれて、そのまま戻ってこなかった……あの男に実験されて、人形に……」
「…………」
輪はただ、黙って聞いていた。
重い。どうしようもなく、ずしりと胸にくる。この子はただ、家族と村を守ろうと若いながらに努力していた。それを恐怖で縛り付け、犯している奴がいる。
「……本当に、ごめんなさい。私、逃げただけなんです。何もできなくて。見て見ぬふりして……お父様が、村を、壊すのを、止められなかった」
涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。痩せた頬を伝い、震える指先に落ちていく。
けれど、その背中は折れていなかった。怯えながらも、こうして語るということが、どれほどの勇気か──輪には、わかっていた。
「……大丈夫だ」
気づけば、口から言葉が漏れていた。
「君が悪いわけじゃない」
「そうです!ハナさんは悪くありません!その狐の奴が悪いんです……!」
元々自身のいた村が滅び一人生き延びた過去があるカトリナは、彼女に人一倍同情を感じたのだろう。近くに行って泣いている彼女の手を取り、肩を震わせながら声を荒げる。
「それに安心してくれ。こっちには力強い味方がいるんだ。暴迅さんがな──やっつけてくれるさ」
初めて目線が合う。今まで失うしか無かったハナの絶望し切っていたその目に、ほんのわずかに光が差した。
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