68【現代の勝利】
さほど広くもない酒場の厨房。十畳ほどはあるだろうか。
窓は二つ。店内に進む入口と裏口が一つずつ。テーブルがひっくり返って皿などが床に散らばっている。
酒場の厨房は、俺とウエイトレスとの戦闘で荒れ果てていた。俺の攻撃で床も抉れてしまった場所もある。
向かい合うピンク髪の娘は、酒場でウエイトレスとして働いていた娘であろう。その手には包丁が握られていた。
桃色の長い髪をポニーテールにまとめて、灰色の地味な洋服でスカートを穿いている。その上に白いエプロンを締めていた。
娘の年齢は十七から二十歳ぐらいだろうか。顔立ちは整っているが、表情が先ほどからころころと変わる。時には微笑み、時には邪鬼のように睨んでくるのだ。まるで多重人格のようである。
戦闘スタイルも独特。野性的な動きで、何か格闘術を嗜んでいるような動きではない。だが、それでありながら敏捷で反射神経も優れている。おそらく天性の才能だろう。もしも、彼女が何かしらの戦闘術を習っていたら、相当な強者に育っていただろう逸材だ。
「ガルルルル〜!」
四つん這いで獣のように喉を唸らせるウエイトレスの娘は、鼻の頭に狂犬のような深い皺を寄せていた。牙が覗える口元から涎を垂らしている。
『ふっ!』
一方の俺は、三戦の構えで立っていた。
足は左右に揃えて内股。両腕は脇を締めて、手のひらが見えるように前に出す。そして、腹から空気を抜くように息を吐いた。
『ゴォォォオオオオオ!!』
俺はないはずの肺から空気をすべて吐き出した。空手の呼吸法で息を整えると共に集中力を高める。
『次で、決める!』
睨みを効かせたまま俺は半身を返して体を横に向ける。がに股で立ち、左肩を前に向けた。右腕の高さは視線の高さ。左腕は脇を締めて鳩尾の前で拳を固める。
正拳突きで、一撃必殺を狙った構えであった。
射程距離は、カウンターを狙うならば一步。押していくならば三歩の距離である。
そして、ウエイトレスまでの距離は既に三歩の範囲内。もう射程距離に収めている。
しかし、彼女は自分が射程距離に収まっていることに気付いていない。ただ唸って威嚇に励む。
そのようなウエイトレスに、俺は容赦なく必殺の一撃を打ち込んだ。長い踏み込みの後に中段正拳突きを放つ。
一步の震脚が厨房の床を踏み抜き、後方の蹴り足が砂塵を飛ばす。その加速が上半身から腕に伝わり、正拳に破壊力と化して魂が宿る。
スクリューの如く唸る正拳突きがウエイトレスの顔面に迫った。拳圧が唸って竜巻を孕む。
『打ち抜く!』
「きぃ!!」
『ぬぅ!?』
渾身の拳がヒットするかと思えた瞬間、ウエイトレスの姿が消える。その体が残像を残して俺の正拳突きを飛び越えていた。
『速いッ!?』
「ひぃゃああああ!!」
俺の顔面に包丁の先端が素早く迫ってきた。その突きが能面の鼻を抉る。
『な〜にぃ〜〜!?』
攻撃の拳を引いた俺は、とっさのスエーバックで退避した。しかし、被っていた黒式尉の面が砕け散ると俺は髑髏面を晒すこととなる。
『野郎ッ!』
「逃さない!」
後に下がった俺だったが、ウエイトレスは俺の袖を掴んで逃がしてはくれなかった。そして、大口を開くと俺に噛み付いてくる。
「がぁあああああ!!!」
『ひぃ!』
ウエイトレスの大口。上下の牙から涎の糸が引いている。その奥に、ピンク色の喉ちんこが伺えた。
『噛まれる!?』
「がぷ〜〜う」
噛まれた。ガッツリと噛まれた。噛まれた場所は顔面である。俺の口元を縦に齧られていた。
それは、左右対称の横向きに、恋人同士が熱いキスでも交わすかのような形になっていた。
『ふっ!!』
俺は口付けのように噛み付いてきたウエイトレスの胸を双掌打で突き飛ばす。すると彼女が飛ばされて裏口から野外に吹き飛んだ。
俺は口元を拭きながらぼやいた。
『畜生……。まさか、噛みついてくるとは思わなんだぜ』
俺はウエイトレスを追って野外に出る。ウエイトレスは裏路地で両腕を抱きしめるように抱えながら震えていた。
「やったわ。やったのよ。わたスのファーストキッスは王子様に捧げられたべよ!」
『何言ってるんだ、こいつ。――ん?』
俺が裏口を出た直ぐ横に、ロープで縛られ猿轡された女将さんが横たわっていた。俺の髑髏面を見上げながら悲鳴を上げると気絶してしまう。
『俺の素顔は刺激すぎたか……』
その独り言にウエイトレスが反応した。
「いいえ、素敵だス!!」
『何言ってるんだ、こいつ……』
再びウエイトレスの表情が乙女に変わる。蕩ける眼差しで俺を見詰めながら、ピンクに染まる頬を両手で隠していた。
「その白い顔色。その虚空のような眼差しに、綺麗な歯並び。何よりも純白のイメージ。まるでわたスの理想的な王子様!」
狂気に笑いながら立ち尽くすウエイトレスは、饒舌に話し続ける。
「わたスを迎えに来てくれたのですね。嬉スい、嬉スい、嬉ス〜〜です。どうぞ、わたスを貴方様の物にスてくださいませ。攫ってくださいませ。監禁スて、拘束スて、スばいてくださいませ!」
狂った微笑みを咲かせながら両手を突き出し、胸を開くウエイトレス。それは狂気そのもの。異常な娘なのは明らかだった。
『お前、頭、おかしいだろ……』
「はい、王子様!!」
即答だった……。
こいつはアカンと思った俺は、アイテムボックスから現代の商品を取り出した。
それは、重々しく伺える真っ赤な円筒形の金属製容器。上部には黒いホースが取り付けられ、先端にはノズルがついている。日本の建物のあちらこちらに配置されており、誰しもが一度は見たことがあるポピュラーなアイテム――消火器だ。
「えっ……?」
キョトンとするウエイトレス。
俺はこの異世界に来て気付いたことがある。それは、戦闘時の対戦相手が、人生の中で一度も見たことがない物を出されると、一瞬だが思考が止まってしまうことだ。
未知――それは、警戒よりも疑問が上回り、動きを止めてしまう要因。
眼前のウエイトレスも、俺がアイテムボックスから取り出した赤い消火器を見て止まってしまっている。
その間に俺は、ホースの口をウェイトレスに向け、安全ピンを外す。そして、黒いレバーを握り締めた。
すると、消火器から噴射された白煙の消火剤がウエイトレスを襲う。
「ふぅぎゃぁあああ!!!」
突然の白煙の襲撃に視界を奪われ、呼吸を妨げられたウエイトレスは後ろに下がって逃げようとするが、何も見えない状況に戸惑い悲鳴を上げるだけで、何もできていなかった。
俺は消火剤を噴射させながらウエイトレスに近付き、眼前に立った。そして、噴射を止める。
『げほ、げほ、げほ!』
全身を白く染め上げ、前も見えず、呼吸もままならないウエイトレスは、ただただ咳き込むばかりだった。眼前に俺が迫っていることにすら気付いていない。
そのようなウエイトレスに俺は消火器を振り下ろす。鉄製の消火器でウエイトレスの頭を殴り付けたのだ。
ゴワ〜〜〜〜ン!
「きゅ〜………」
その一撃でKO。真っ白に染まったウエイトレスは、地面に倒れ込んで気絶してしまう。
『流石は消火器。鈍器としても優秀だな――』
現代の勝利である。消火器、つえ〜〜。




