67【紛れ込んだ化け物】
俺は忍び足で厨房に入って行った。包丁を砥石で研ぐウェイトレスの背後に忍び寄る。
気配を消し、足音を立てず、呼吸も止める。あ、呼吸は普段からしてないや。
ウェイトレスは忍び寄る俺に気付いていない。何かを呟きながら熱心に包丁を研いでいた。
「足止めは成功スただ。これで王子様は村を出れないはずだべ。あとは……」
あとは、なんだろう?
「邪魔な連中を始末するだけだべさ……」
『始末って、お前な――』
ウェイトレスの背後で独り言を聞いていた俺は、思わず口走っていた。
その刹那である。ウェイトレスが振り返ると同時に持っていた包丁をバックスピンで振るってきた。俺は上半身を反らして刃を回避する。
『うおっ!!』
振り向きざまに振るわれる包丁が俺の胸を左から右に切り裂いた。包丁の刃はウェアの胸元を割くが、骨までは届いていない。
途端、俺の防衛本能が作動する。背を反らせて回避を試みると同時に、掬い上げる軌道の前蹴りがウェイトレスの脇腹を狙う。
しかし、ウェイトレスは身軽な動きで跳ね上がると、テーブルを踏み台にして俺の反撃を回避した。俺の前蹴りが空振る。
その動きは、訓練された防御術ではなく、野生の猿のような回避技だった。しかし、とても速い動きである。
「うっきぃ!」
そして、ウェイトレスはテーブルの向こう側に着地して包丁を構えて中腰に屈んでいた。それから俺を見詰めてくる。
その顔は双眸を見開き、煉獄を覗き込む亡者のように冷ややかだった。まともな娘の表情ではない。
『テメー、何者だ――?』
俺の声を聞いたウェイトレスの表情が緩んだ。蕩ける乙女のように瞳を輝かせながら言う。
「うわわわ〜。王子様が、わたスに話スかけてくれてるだぁ!」
『な、なんだ。この豹変は……』
「待っててくださいまス。捕まえて、監禁スて、愛でてあげまスだ」
俺が唖然としていると、ウェイトレスがテーブルの上に置いてあった皿に手を伸ばす。その皿を指先で掴むと、速い動きで俺に放り投げてきた。皿が俺の顔面に迫る。
『危ねえ!』
俺は頭を素早く動かして皿を避ける。投げられた皿は壁に当たって粉砕した。そして、俺が前を見るとウェイトレスの姿が消えていた。裏口の扉が開いている。
『逃げたかッ!?』
俺が開きっぱなしの裏口のほうを見た刹那だった。片足に衝撃が走る。
『なにっ!?』
俺が下を見てみると、テーブルの下から包丁を持った腕が見えた。その刃が俺の脛を切り裂いている。
「えへへへ。これでもう動けないスだ」
テーブルの下で這うように包丁を振るうウェイトレスが俺の脛を切り裂いていた。もしも俺に痛覚があったのならば、今の一撃でバランスを崩して転倒していたかもしれない。
だが、俺には痛覚も肉もない。よってノーダメージ。脚も動くし、バランスも崩さない。代わりに足を振り上げ、ウェイトレスの頭を踏み付けようとストンピングを繰り出した。
『オラッ!』
「ひぃ!!」
しかし、ウェイトレスは素早く体を引っ込めて俺の踏みつけを回避した。
『逃がすか!』
踏みつけを回避されたと知った俺は、テーブルを両手で掴むとちゃぶ台返しのようにひっくり返した。だが、もうテーブルの下にはウェイトレスは居ない。
それを確認した刹那だった。横倒しになったテーブルの陰からウェイトレスが跳ね上がってきた。テーブルを飛び越えて俺に迫る。
「うっきぃぃいいい!!」
かなりの跳躍。その形相は激昂した猿である。凶暴な面相に狂気が映る。
『こいつは、本当に猿かよ!』
俺はテーブルを越えて飛び込んでくるウェイトレスを撃ち落とそうと拳の弾幕を連打した。瞬時に放たれるは四発の上段正拳突き。対空の技だ。そのすべてがウェイトレスの上半身に炸裂する。
『オラオラオラオラッ!!』
「のほのほのほのほっ!!」
俺の弾幕正拳に撃ち落とされたウェイトレスはテーブルの陰に墜落する。俺はテーブルを飛び越えて追撃を敢行した。テーブルを飛び越えると同時に両足を揃えてフットスタンプで落ちていく。
『今度こそ踏み潰す!!』
「ギャァアアア!!」
悲鳴のような声を上げながら転がり逃げるウェイトレス。その細い体のスレスレの横に、すべての体重を乗せた俺のフットスタンプが打ち込まれた。その両踵の威力に煉瓦作りの床が抉れて陥没する。
『ちっ。また、躱された……』
「ガルガルガル!!」
四足歩行で這いながら間合いを取るウェイトレス。その顔は狂犬病に掛かっている猛獣。人間の面構えではない。
「グゥルルルルル!!」
『なんだ、こいつは……』
狂暴化しているウェイトレスを前に俺は唖然としながら構えていた。
この娘は異常だ。スピード、反射、耐久、動き――どれを取っても普通の娘のものではない。
そもそも俺の空手技を普通の娘が回避できるわけがない。普通の人間が回避できないように訓練された技だからだ。
しかも、空中でとは言え、正拳突きを四発も食らっている。普通の娘ならば、肋骨が粉砕されて、ペチャパイになっているはずだ。
なのにだ――。この娘は平然と動いてやがる。有り得ない。
『化け物か……。あっ』
そうか、この娘は化け物だ。だってここは異世界だもの。化け物が村に紛れ込んでいても可笑しくない。童話とかでは、よくある話だ。
そのように俺は納得した――。




