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7【不憫な異世界】

 俺とチルチルは、荒涼たる大地を歩みながら、簡潔な自己紹介を交わしていた。


 彼女に対し、俺は自分が知性を保持したアンデッドであると告げた。人語を話し、また人間としての倫理観を保有していることを説明する。加えて、人を害する意思はなく、犯罪行為を嫌う性分であることも伝えた。


『俺のことは、四郎と呼ぶといい』


「シロー様……」


『"様"は不要だよ』


「ですが……」


『では、チルチルちゃんはどこから来たのかい?』


「"ちゃん"は不要です……」


『——ああ、すまない……』


 思ったよりも一本芯が通った子供らしい。


『じゃあ、行こうか』


「はい」


 こうして、俺とチルチルはひたすら草原を進み続けた。太陽は天頂に達し、時刻は正午であると推察される。


「はぁ……はぁ……」


 隣を見れば、手を繋いでいたチルチルの息遣いが乱れていた。長時間の歩行により、疲労の色が濃く表れている。


『疲れたのかい?』


「……うん」


 額に滲む汗を袖で拭いながら、チルチルは小さく頷いた。その双眸はかすかに虚ろである。


 俺は不死の身ゆえに疲労を感じることがない。そのため、彼女の疲れに気付くのが遅れてしまったのだろう。さらに言えば、彼女は朝から何も口にしていない。空腹は限界に達し、喉の渇きも相当に違いない。


 しかし、周囲を見渡せば、そこは果てしなき荒野。食糧どころか、一滴の水すら見当たらない。できればと飲食店を探したが、自動販売機すらないのである。


『流石に自販機はないよな〜。……少し待っていてくれ』


「……?」


『——ゲートマジック』


「ッ!?」


 虚空に異界の扉が現れる。俺はそれを潜り、自分が住まう世界へと帰還した。


「確か、昨日の残りがあったはず……」


 台所へ向かい、テーブルの上に置かれた半額シール付きのアンパンを手に取る。さらに、冷蔵庫から飲みかけのパック牛乳を取り出し、再びゲートを通過する。


『——ただいま』


 俺が帰還すると、チルチルは驚愕の面持ちでこちらを見つめていた。


「シロー様が忽然と消えたかと思えば、突如として無の空間から顕現なされました……」


『無の空間……?』


 どうやら彼女には、ゲートそのものが認識できていないらしい。試しに問いただすと、やはり、俺が何もない虚空へと消え、また虚空から出現したようにしか見えなかったという。


 異世界の扉自体が見えていない様子であった。


『——まあ、それよりも、これを食べるといい』


 俺はアンパンの袋を差し出した。しかし、チルチルはそれを容易には受け取ろうとしない。どこか怪訝な表情を浮かべ、半額シール付きの袋を凝視している。


「……これは?」


『アンパンだよ』


「アン……パン?」


『もしかして、アンパンを知らないのか?』


「……うん、知らない」


 俺は袋を破き、中のアンパンを取り出す。


『これは、小豆の餡が詰まったパンだ。食べてみるといい』


「あずき?」


『あんこだ』


「あん……こ?」


『……まさか、餡子も知らないのか?』


「知らない……」


『——面倒だ。とにかく食べてみなよ』


「……はい。ですが、それは?」


 チルチルは俺の手に残ったビニール袋を指さしていた。たぶん初めて見る透明な袋に戸惑っているのだろう。


『こ、これは気にするな……』


 そう言い俺はビニール袋を扉の向こうに投げ捨てる。それからアンパンをチルチルに差し出した。


 チルチルは恐る恐るアンパンを受け取り、小さく一口齧る。しかし、その断面にはまだ餡子は見えない。それでも彼女は目を見開いた。


「な……なんて柔らかいパンなの!?」


『パンが柔らかいって……?』


 俺は首を傾げる。しかし、後に知ることとなるが、この世界の食文化は中世程度の水準であり、庶民の口にするパンは総じて黒く硬いものばかりらしい。柔らかなパンは、王侯貴族のみに許される贅沢品なのだという。


 それゆえ、チルチルがこれほど驚くのも無理はなかった。現代レベルの柔らかいパンなんて初めてなのだろう。


「美味しい……」


 やがて、彼女の小さな歯が餡子へと到達する。すると、さらに驚愕の声を上げた。


「な、なんですかこの黒くて甘いものは!?」


『それが餡子だよ』


「餡子……甘い……美味しい……! この餡子というものは、一体何から作られているのですか!?」


『餡子だから、大豆……いや、小豆だな』


「ま、豆!?」


『ああ、甘い豆だ』


「……なぜ豆が甘いのですか!?」


『砂糖を混ぜているからだろうな……』


「砂糖……を……!? それほど貴重なものを、奴隷同然の私に……?」


『大袈裟なことを言うなよ。ほら、慌てず食べろ。喉に詰まらせるぞ』


「んぐっ……げほっ、げほっ……!!」


『ほら、言わんこっちゃない。これを飲め』


 俺は牛乳パックを差し出した。チルチルは受け取りながら、その手の震えを止められない。


「ひゃっ……冷たい!? ど、どうしてこの時期に、こんなにも冷たいのですか!?」


『いいから、落ち着いて飲め』


 彼女は一口牛乳を飲み、再び驚愕する。


「……な、何これ……!? 旨い……冷たい……!」


『ただの牛乳だよ』


 チルチルは夢中でアンパンを頬張り、牛乳を飲み干した。その口元は、白く濡れてベトベトだった。


 しばらくして、彼女が俺を見上げる。


「シロー様……あなたは、王族か、あるいは上級貴族なのですか……?」


『いや、ただの一般市民だよ』


「ですが……こんなにも冷たい飲み物を用意できるなど……」


『冷蔵庫で冷やしていただけだ』


「れ……冷蔵庫? 魔法の貯蔵庫か何かですか?」


 俺は、改めて思う。


 この世界は——あまりにも、不憫なほど文化が遅れている、と。チルチルの反応から、それを知る。




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