238【最強の頂き】
体を斜めにし、顎を引いたシローが深く腰を落として正拳突きを打ち込もうと構えを築く。その構えは、攻撃にのみ特化した“押し”の構え。肉のない骸骨の上半身からは、殺気が湯気のように揺らめいて見えた。
観客席のソフィアが呟く。
「中段突きを狙っているわ。しかも、なんて美しい構えなの……」
獣人のソフィアは、うっとりと瞳を潤ませていた。ゴリラの両手を強く握り締めながら闘技場のシローを見詰めている。
彼女は拳闘を志す戦士。しかし、自分一人では上を目指すのに限界を感じていた。そんな時、村へ現れた異形の拳闘士に希望を見つけたのだ。
彼は自分よりも、遥かに優れた技を身に着けていた。戦闘スタイルも似ていた。
彼に学びたい。その思いは間違いではなかったと、今になって確信する。
自分の眼力は、間違っていなかったのだと。
シローの構えは、それほどまでに芸術的だった。拳闘の思想が詰まっている。まるで国宝のように美しい。
美しく構える髑髏が語る。
『今回のは、いてぇ〜ぞ……。死ぬかも知れないぞ?』
二丁斧を高く振り上げたアイアンバッファローが、熊のような構えで言い返す。
「構わん。俺は、少しでも上を見たいのだ。これ程の機会は、そうそう無いからな……」
覚悟は決まっていた。アイアンバッファローは思う。
この髑髏の魔人は、自分とは桁が違う。おそらく数値で言えば一桁は上だろう。
もしも自分が、その差を埋めるために積み重ねようとすれば――数年、いや数十年は掛かる。
ならば今は、それを見ることで経験値を積むしかない。敗北は覚悟出来ていた。
自分は、もっと強くなりたいのだ。闘技場のチャンピオンなんて、通過点に過ぎなかった。
それが、こんな場所で“最強の頂き”と出会ってしまうとは。不運――いや、幸運!
「この出会いに、感謝!」
そう述べると、アイアンバッファローが走り出す。シローへ向かって攻め立てる。
返り討ちは覚悟の上。撃沈は予想できた。だが、飛び込まずにはいられなかった。
「うらぁぁああああああ!!」
アイアンバッファローの怒号がこだまする。それはまるで黒旋風。黒い竜巻――ブラックハリケーン。荒れ狂う闘牛の群れが、津波のように押し寄せてくる光景だった。
「チェストォォオオオオ!!」
静かにシローが返す。
『否――チェスト返し!』
刹那、シローの正拳突きが放たれた。狙いはアイアンバッファローの腹部――鳩尾。
その正拳は、静かに腰元から発射される。拳が下を向き、握り締めた指は上向き。
拳が肘の伸び切る寸前で回転しながら向きを変え、親指が上側へと来る“縦拳”となって鳩尾へ迫る。
そして、さらに捻り込まれることで正拳の角度を完成させた。その動きすべてが完璧である。ゆえに、誰から見ても完璧の破壊力を生み出すと窺えた。
その瞬間――。
「うっ!!」
殺気――。
鳩尾を狙った正拳突きを追い越すように、シローの背後から巨大な殺気の波が押し寄せてきた。それは瞬く間にアイアンバッファローの全身を包み込み、視界を真っ暗に染め上げる。
「っ!!!???」
死――。
その言葉が、視界いっぱいに浮かんだ。
途端、アイアンバッファローの脳裏に子供の頃の記憶が蘇る。
走馬灯、開始――。
「お父さん、僕、必ず最強の戦士になるぞ!」
「おお、息子よ。それは頼もしいな。はっはっはっ!」
「お母さんは、バッファがお嫁さんを貰って幸せになってくれたら嬉しいわ」
「うん。僕、強くなって美人のお嫁さんを貰うもんね!」
「バッファは頼もしいわ〜。うふふ〜ふ〜」
――しかし、戦火が村を襲った。それは、フランスル王国とイタリカナ王国の小競り合い。
たった数時間の攻防で村は焼き尽くされ、兵士だった父は外で死体となって見つかった。母も胸に矢を二本受け、倒れていた。それがバッファの幼少時代の記憶。
俺は、一人になった……。
それからだ。強さを求めて体を徹底的に鍛え始めた。
そして数年後、闘技場の闘士になった。ランキングも三位まで登り詰めた。強くなった気でいた。
――だが、幻想だった。
今、自分の前に迫る死の津波を前に、現実を知る。死に包まれて、現実を知る。
「これが、世界なのか……」
走馬灯が砕けた。
シローの正拳突きが鳩尾に突き刺さる。骨拳が手首まで腹部にめり込んでいた。
爆発!
着弾点を中心に衝撃波が波紋のように全身へ広がる。その衝撃が指先に、爪先に、脳天に達する。
さらに鳩尾から突き抜けた波動が内臓を貫き、背中に達した。背から破裂音を伴って衝撃波が噴出する。貫通したのだ。
「がはっ!」
アイアンバッファローは体内からこみ上げる血を、口と鼻から吐き出した。眼球の隙間からも血が滲み出る。
たった一撃の正拳突きが、アイアンバッファローの体内で爆発したかのようなダメージを生んでいた。内臓が、心臓が、ズタズタである。
「これが……最強の……一撃……」
アイアンバッファローは白目を向き、尻餅をついて座り込む。大股を開いて座り込み、背を丸めたまま気絶していた。その口や鼻からは、糸を引くように鮮血が垂れている。
『決着だぜ、ボーイ――』
その一言の後、会場がドッと沸き上がった。観客たちは地団駄を踏み、歓喜の咆哮を上げる。踏み鳴らす足音に闘技場が揺れていた。
一方、壁際で二人の死闘を眺めていたポニーテールの男が呟く。
「良かったな。これ程の試合を特等席で見られてよ」
すると、彼の背にした壁に映る影から女の声が囁かれた。
『面白いものを見せてもらったわい。妾の願いは叶った。試練は合格、というところかのぉ』
「ならば次は、私の願いを叶えてもらいたい――」
『良きぞな。それが約束じゃ。貴公の願いに力を貸そうぞ』
「感謝する、楊雪月殿――」
影映る壁から背を離したポニーテールの男が前に出る。そして、チャンピオンのシリヌ・カールに告げた。
「チャンピオン殿、お先に失礼するが、文句は無いよな?」
禿頭のチャンピオンは黙って頷き、彼を見送った。ポニーテールの男が腰の剣に片肘を乗せながら前に歩み出る。




