216【才能が溢れる】
異世界で、シローの一番弟子であるブラン・ノワが店の裏手に在るジャガイモ畑の前で空手のトレーニングに励んでいた。現在はまだ準備体操の段階である。
白い道着に白い帯。足元は裸足。ピンク色の長髪を高く束ね、ポニーテールにまとめている。
そして、ジャガイモ畑を囲むように建てられた木の柵の上で、逆立ちをしながら片腕だけで腕立て伏せを行なっていた。
「97、98、99――」
ブランの胸の高さほどある木の柵は、手のひらが乗る程度の太さ。その柵に片手を付け、逆立ちしたまま片腕だけで腕立て伏せを続けるブランは、平然とした様子で動きを繰り返している。
その顔には苦痛の色は微塵もない。まるで普通のスポーツ少女が、何でもない顔で通常の腕立て伏せに取り組んでいるかのようだった。まだ、汗すらかいていない。
彼女にとっては、これが日常の準備体操のひとつに過ぎない。特別変わったことは何もしていないのだ。
「――100」
百回目の片腕逆立ち腕立て伏せを終えたブランが柵から飛び降りる。指先で跳ねるように身体を捻りながら向きを変え、音もなく静かに着地した。
それから今度は反対の手で木の柵の頭を鷲掴みにする。そして、もう一方の腕で再び片腕逆立ち腕立て伏せを始めた。
「1、2、3――」
「………」
その光景を、建物の軒下から眺めている人物が居た。
メイド服を着たその若い女性は、金髪の長髪を腰まで垂らしている。切れ長の顔立ちはクールで美形。首も細く、腰も細く、脚も細く、肩も細い――。しかし、肘から先だけが妙に太く、両手の拳は異様に大きい。まるで両手だけがゴリラのようだった。
ブラッドダスト城の戦闘メイド、ソフィア・ゴリーユである。
「4、5、6――」
「――……」
ソフィアはブランのトレーニング前の準備運動を目の当たりにして驚愕していた。
自分も逆立ちくらいならできる。だが片腕だけでバランスを取るのは極めて難しい。まして片腕で逆立ちしたまま腕立て伏せなど不可能だろう。
それをブランは、準備運動として平然とこなしている。自分とは基礎からしてまったく違う、と痛感した。
「これが、空手のトレーニングなの……」
「11、12、13――」
ソフィアは、かつてピエドゥラ村に一時的に滞在していた格闘家から拳闘術を習っていた。
その男はパリオンの闘技場で戦っていたらしいのだが、試合の合間に長期休暇を取ると、村で休養を兼ねて過ごしていたという。
彼の名はブラム・アスウム。拳闘部門でチャンピオンに輝いたこともある戦士だった。
だがブラムは若くして亡くなった。拳闘の試合中、命を落としたのだ。拳闘士ならば珍しい話ではない。
防具もクラブも付けない素手の戦い。命を落とす戦士は数知れない。それが、この世界の闘技である。
「25、26、27――」
ソフィアがブラムから拳闘を習ったのは、わずか三年程度。だが、ソフィアは筋が良いと評価されていた。その結果、戦闘メイドという職を得ている。
そのソフィアの目から見ても、ブランの力は群を抜いていた。
これが格闘技を始めて、まだ二ヶ月の初心者とは到底思えない。基礎体力の異常さが明らかだった。
「97、98、99、100」
見る間に、片腕での逆立ち腕立て伏せ左右を終えたブランが柵から飛び降りる。
すると今度は柔軟運動を始めた。
左右に足を大きく開いて腰を落としていく。やがてストンと股を地面に着けた。開かれた足は逆T字。股間が地面に密着している。
そこから上半身を前に倒し、胸も地面にぴったりと着ける。さらに足を閉じ、海老反りながら高く上げた。その足をさらに海老反らせて頭へ近づけ、ついには海老反った足で自分の頭を挟み込んだ。両耳の横で両足裏が地面についている。
「ア、アルマジロか……」
アルマジロは、こんな形に丸まらない。
ソフィアが不自然な姿勢のブランに驚いていると、ブランは両足首の間から頭を抜き、背を反らせながら身体を起こす。そのまま手を使わず、腰の力だけで立ち上がった。
「もう、妖怪ね……」
しかし直立したブランは、さらにお辞儀するように頭を下げる。腰だけを直角に曲げ、胸と頭を下半身に密着させた。
そこから片足だけを天高く振り上げる。逆I字開脚である。地に着いた脚も天に向いた脚も、ピーンと伸びている。
さらに天へ向いていた足を、ブランの背中のほうへ倒し込む。片足は胸元にあるのに、反対の足は背中側に付いている。M字の姿勢だ。そこからブランは一回転すると、直立に戻った。
もう、人間の出来る柔軟運動には見えなかった。まさに妖怪の動きである。
「シュ!」
今度はシャドーボクシングが始まった。軽やかなステップで体を捌き、無空に拳を放つブラン。
そのステップ、その突き、その蹴り。どれも上等。拳闘を嗜むソフィアの目にも、そのすべてが一級品に映った。
しかし同時に、わずかな粗さも垣間見えた。ここで初めて、格闘技を始めてまだ二ヶ月の初心者らしさが見えた。ソフィアは少しだけホッとする。
だが、それでも末恐ろしい天才の片鱗に、思わず息をのむ。
そのブランのトレーニングをソフィアが見学していると、シローがサン・モンから帰ってきた。ゲートマジックで店に戻ってきたシローは、愛弟子の稽古を見に裏庭へ姿を現したのだ。
そのシローに気付いたソフィアが、礼儀正しく頭を下げる。
『あんた、たしかヴァンピール男爵のところのメイドさん。え〜っと、名前は……』
「ソフィア・ゴリーユです」
『なにか、用事か?』
「今日は個人的なお願いがありまして伺いました」
『個人的……。なんだい?』
「シロー様、私に格闘技を指導していただけませんか?」
『えっ、弟子入り……?』
歓迎すべき第二号の弟子入りだった。




