192【矛と矛】
腹の傷を押さえながら立ち上がるボブ。腹部に刻まれた一文字の裂傷から血が滲んでいたが、出血は僅かで深さも浅い。贅肉の表面を裂かれた程度であり、戦闘不能になるほどの傷ではなかった。
「畜生……。いつの間にメリケンサックなんて嵌めやがった……」
それはコッソリと仕込まれていた。ボブのチタン製の義手を目にしたとき、四郎はアイテムボックスから取り出して密かに装着していたのだ。
「目には目を、刃には刃を、鉄拳にはメリケンサックをだぜ!」
はしゃぐように叫んだ四郎は、両拳を頬の前に並べ、背を丸めるインファイターの構えを取る。
対するボブは背筋を伸ばし、中段に構えるアウトボクシングの姿勢。サイドワインダースタイルで軽快にステップを刻み始めた。
インファイターとアウトボクサー。しかも両者が右拳に武装を施している。四郎はメリケンサック、ボブはチタン製の義手。
どちらの拳が命中しても必殺を意味する。ヘタをすれば一撃で勝負が決まるだろう。
世界一重いジャブと、世界一速いストレートの対決。最強の矛と最強の矛のぶつかり合いであり、そこに矛盾はなかった。いや、盾がなかった。
「ジャップが、その低い鼻を砕いてやるぜ!」
罵声と共に繰り出されたフリッカージャブが、四郎の顔面中央を狙って走る。そのジャブは黒い疾風。目にも止まらぬ速さで迫った。
しかし、四郎は体を右に素早く反らし、メリケンサックを嵌めた右拳でフックを振るう。その拳はジャブを掠めただけだった。
「くそっ!」
悪態を吐きながらボブは拳を引き、バックステップで距離を取る。逃げたのだ。
その右上腕筋には切り傷が刻まれ、鮮血が滴り落ちていた。四郎が掠めるように振るったメリケンサックで裂いたのだ。挑発のような斬撃てある。
ボブは出血を気にせず構えを続けるが、その額から汗が滲み落ちていく。黒い肌を伝って冷たい雫が流れた。
「何故に、小細工を要する……?」
「お前は、その鉄拳スタイルを完成させてから、どんな戦いをしてきた?」
四郎には見えていた。
「どんな戦いだと……?」
「分かるぞ。お前の戦闘スタイルが。お前の戦い方が」
「――……」
「その鉄拳で相手にしてきたのは、自分より弱い者ばかりだろう。いや、敵ですらなかったはずだ。なぜなら、それは戦いではなく処刑だったからだ」
「――……ぅ」
図星だった。確かにあれは試合ではない。処刑。それが仕事だった。
「だから、どうした……」
「お前に思い知らせてやる。戦いでない戦いを押し付けられる者たちの痛みを」
「舐めやがって!」
怒声と共にボブはフリッカージャブを連打する。鞭のような連打が次々と襲い掛かる。
しかし、四郎は軽やかなステップで全てを回避した。鉄拳のジャブは掠りすらせず、ただ空を切るのみ。そして、その合間を縫って四郎の反撃が閃く。素早いジャブが掠めるようにボブの体に傷を刻んでいく。
腕、肩、胸、腹、太腿、首、顔……。小さな傷を次々と刻むメリケンサックの刃は、まるで鎌鼬の仕業のようだった。致命傷には至らないが、確実に精神を削り取っていく。
気付けば、ボブの全身は傷だらけ。黒い肌を汗と血が混じり合い、流れ落ちていた。
「クソぅ……」
「分かったか、ボーイ。痛めつけられる相手の気持ちが?」
今になってボブは、自分の思い上がりを自覚する。
鉄拳を得たことで強くなったと錯覚していた。この鉄拳さえあれば、ボクシングでチャンピオンになれたと誤解していた。
だが、現実は右手を失った障害者であること。忘れていた事実を思い出す。そして眼前のジャパニーズが、自分よりも数段上の強者であることを悟る。
――それでも引けない。自分には義務がある。リングで対峙した相手を必ず葬る。それが処刑人の仕事であり、マフィアの誇り。だから退けない。
「良い面構えになったな」
四郎は呟いた。確かに、ボブの表情は変わっていた。悪党から、戦士の顔へと。
ゆえに四郎は決意する。一撃で勝負を決めてやろうと。
「ご褒美だ。一撃で決めてやる」
そう言うと、右手からメリケンサックを外し、ポケットに仕舞った。
「素手で……?」
「空手なら、素手でも一撃は狙える」
「やれるもんなら、やってみろ!!!」
ダッシュから放たれるフリッカージャブ。ボブの鉄拳が、限界を超えた速度で四郎に迫る。それはまさに人間のリミッターを外したかのような超速。
だが、その真逆のようにゆったりとした拳が四郎から繰り出された。
上段正拳突き。それはスローモーションのような速度――なのに、ボブのジャブより速く顔面を撃ち抜いていた。
しかもその拳は歪な型。中指の第二関節を角のように突き立てた一本拳突き。空手において危険すぎるため、大会では禁じられる拳。
その拳が、ボブの急所――人中に突き刺さった。(人中=鼻と唇の間。人間の急所)
刹那、ボブの瞳がぐるりと回転し、次の瞬間には白目を剥いて膝から崩れ落ちる。
「ぅぅ――……」
尻餅をつき、白目を剥いたまま涎を垂らし続けるボブ。
それは演技でも抵抗でもない。座ったまま、完全に気絶していた。
勝負有りである。




