173【マリア・カラス】
リンゴの樹――。この異世界では、どこの森にも広く分布している、ごくポピュラーなモンスターである。
外見は平凡な樹であり、赤く甘い実を実らせる点は我々の世界のリンゴの樹と変わらない。だが、この異世界においては、腐肉を喰らう凶暴なモンスターなのだ。
その巨体は巨人にも匹敵するパワーを有し、長く伸びた枝を左右に振り回して、果実を採ろうとする動物たちを容赦なく殴り殺す。そして、倒れた死体を足元に引き寄せて、自らの養分とするのである。
しかし、彼らにも大きな弱点があった。それは――太陽光の下でしか動けないということだ。夜になると、まるで眠るように沈黙してしまう。この状態を、こちらの世界では「光合成」と呼んでいる。
そのため、リンゴの果実は夜に採取される。少々面倒な生態ではあるが、それでも異世界の住人たちにとっては、貴重な栄養源として重宝されていた。
フラン・モンターニュの森にも、このリンゴの樹は何本も繁茂している。だが今は、七つの月が空に輝く真夜中。リンゴの樹たちは、眠りについている。
その根元が、ムクムクと蠢いていた。大地の中で、何かが動いている。やがてその蠢きが地表を突き破り、姿を現した。
それは――スケルトン。
鹿、猪、狼、熊……。さまざまな動物たちのスケルトン。さらには、人型の小さな骨――ゴブリンのスケルトンまでもが、土中から這い出てくる。
その数は十や二十ではない。百、いや二百を超える大群である。これは、これまでリンゴの樹に食われた命たちの成れの果てだった。
肉は樹に吸われ、骨だけが大地に残されたのだ。それが、スケルトンとして復活したのである。
『しくしくしく……』
フラン・モンターニュの下層部から集まってきたスケルトンたちは、ある一人の娘のもとへと、次々に集結する。
薄汚れた灰色のワンピースドレスを身に纏った、若く麗しい娘。長い髪を夜風に靡かせ、裸足で森を進むその顔には、今にも泣き出しそうな憂いが浮かんでいた。彼女の周囲を、数百のスケルトンが静かに囲んでいる。
この娘こそ、フラン・モンターニュの上層部の住人。二十年前の資源調査作業の際に掘られた縦穴――本来は埋め立てられたはずのその穴に、住み着いていたアンデッドの魔女である。
その名は、マリア・カラス。
かつては調査団に参加していた賢者の一人だったが、任務後に落ちぶれ、やがて魔女となった。遺跡の個人的な再調査の最中、彼女はこの地で病死した。心臓病である。
――しかし、その死は完全ではなかった。
彼女の中に宿っていた強大な魔力が、死を拒み、肉体をアンデッドへと変えてしまったのだ。
だが、復活の代償として、彼女は記憶を失った。名前も、年齢も、自分が何者であったかすら思い出せない。ただ、暗く湿った縦穴の横穴に、怨霊のように留まり続けていた。
そんな彼女に、転機が訪れた。
それが、ニャーゴとの出会いである。
アンデッドとなった彼女だったが、初めて触れる強大な魔力の存在に、胸を焦がした。だが彼女は、初々しい乙女である。遠くから、ニャーゴの姿をそっと見ることしかできなかった。それが、彼女にできる精一杯の接し方だったのだ。
そしてある日、ニャーゴがフラン・モンターニュから姿を消した。
彼女は狼狽し、悲しみに沈んだ。その想いが、彼女を動かした。
彼女は、アンデッドとなって初めて、森の上層部を出たのだ。
目指すは、ピエドゥラ村――ニャーゴがいるという、シローの店である。
引き連れるは、数百のスケルトンたち。その異様な集団の動きに、いち早く気づいた者たちがいた。
一人目は、ピエドゥラ村の新人神父、プレートル。
大量に湧き上がる冥界のオーラに気づき、ベッドから跳ね起きた。
「何ぞな……この胸の高鳴りは……?」
教会の窓の外を覗いたプレートルの顔が青ざめる。森から、大勢のスケルトンの群れが溢れ出てきていたのだ。
「あれは……な、何ごとぞな……」
二人目は、シロー。
アンデッド特有の気配を察知し、二階の窓から双眼鏡を使ってフラン・モンターニュを観察する。
『なんか、とんでもない数のスケルトンが湧いてるじゃあねえか……』
シローは急ぎ廊下へ飛び出し、メイドたちを叩き起こして回った。
三人目は、ブラッドダスト城のヴァンピール男爵。
彼もまたアンデッドであるため、死の気配には敏感だった。書斎で魔導書を読んでいた彼のもとへ、メイド長のシアンが駆け込む。
「ヴァンピール様!」
「ああ、気がついているよ、シアン。あの気配は何だ?」
「分かりませんが、フラン・モンターニュから溢れ出ております!」
上着を羽織り直すとヴァンピール男爵がシアンに指示する。
「直ちに戦闘メイドを編成しろ。私はリビングアーマー兵団を起動してくる」
「畏まりました!」
こうして今、ピエドゥラ村の全兵力と、スケルトン軍団が激突しようとしていた。
その規模は、かつてのゴブリン軍団との戦闘をも凌ぐものとなるだろう。なにせ、あのとき撃退されたゴブリンたちの亡骸も、リンゴの樹の養分となり、今やこの軍団の一部となっているのだから。




