172【執着】
夜のフラン・モンターニュ。七つの月が上層部の森を照らし出していた。雲一つない夜空には、無数の星々が瞬いている。森の中からは、夏虫たちの騒がしい鳴き声が響いていた。
冷たい風が静かに流れる森の中。縦穴から這い出した、スケルトンと幽体が融合したような風貌のモンスターが、広場を横断して鳥居をくぐる。長い黒髪が微風に揺れていた。
『しくしく……』
泣きじゃくるモンスターの身長は160センチほど。黒髪は腰や尻を越え、太腿に届くほどの長さ。胸は豊満で、腰は絞ったように細く、痩せた体に白いワンピースドレスをまとっている。ドレスは灰色に汚れ、足元は裸足だった。
月明かりに照らされた彼女の顔は、骸骨から徐々に肉が付き始め、乙女の表情へと変わっていく。青白く、不気味な水死体のようでありながらも、どこか神秘的な美しさを湛えていた。
もしその顔に悲しみの色がなければ、絶世の美女と呼ばれていただろう。アンデッドでありながら、清楚な印象を放つ娘である。
『しくしくしく……』
ふらふらと歩く彼女は、崩れた坂道の前で立ち止まる。坂の上から下を見下ろし、その表情には悲しみが溢れ、今にも泣き出しそうだった。
切れ長の瞳には長い睫毛がかかり、鼻は細く高い。唇は血のように赤い。しかし、眉だけが陰気にハの字を描いていた。そのせいか、どこか幸薄そうな雰囲気を強く漂わせていた。
『ニャーゴちゃん……どこに行ったの……? 私を、一人にしないで……』
フラン・モンターニュの上層部から見えるピエドゥラ村の明かりが、彼女の虚ろな瞳に映り込む。その瞳は、寂しさと悲しみで潤んでいた。
『たぶん……ニャーゴちゃんは誰かに攫われたのよ。そうじゃなきゃ、私のそばから居なくなるわけがないわ……』
それは、身勝手な妄想だった。ニャーゴは自らの意志で、フラン・モンターニュを去ったのである。
ニャーゴにとって、彼女は空気のような存在だった。そこに居ても、居なくても、気にすらとめたことがない。顔をまともに見たことすらなかったかもしれない。
しかし彼女にとって、ニャーゴの存在は心の支えだった。
そう、執着――。
幽霊が何かに取り憑く時、その根底には強い執着がある。それが愛なのか怨みなのか、その形は様々だが、すべての始まりは執着なのである。
この娘もまた、ニャーゴに対して激しい執着を抱いていた。
だから、ニャーゴがフラン・モンターニュを去り、シローの温かな店で過ごしていることが、彼女には理解できなかった。
それどころか、彼女はニャーゴが何処に行ったのかも知らない。なぜ自分のもとを去ったのかも。なぜ、一言の別れもなかったのかも――。
その無理解が、暴走を引き起こす。
見る見るうちに、彼女の顔が怒りに染まっていく。この数週間で、彼女の怒りは臨界点に達しつつあった。
『しくしく……。あの光の方向から、ニャーゴちゃんの気配がするわ……。行ってみよう……追いかけてみよう……どこまでも……』
彼女は崩れた坂道の上で両腕を高く掲げた。そして、禍々しい魔力を練り上げる。全身からあふれ出した魔力が、大地に染み込んでいく。
『アンデッド・ゲート!』
彼女が唱えた魔法は、死者を呼び起こす禁術だった。大地が盛り上がり、土の中から次々と骸骨たちが這い出してくる。
それは人間のスケルトンだけでなく、獣や魔物、亜人の骨まで混じった異形の軍勢だった。フラン・モンターニュで命を落とした生命体たちの骸だろう。
一目見ただけでも、数は百を超えていた。この広場にこれだけの遺体が眠っていたとは思えない。むしろ彼女は、周辺で死んだ死者たちの魂や骸を、この場に強引に集めていたのだ。
つまりここには、冥界と繋がる魔法のゲートが出現している――。
『しくしく……皆さん、探してください。あの村を、くまなく探して……ニャーゴちゃんを見つけてください……』
彼女が村の明かりを指差しながら命じると、スケルトンの群れは崩れた坂道を下り始めた。そして、ピエドゥラ村を目指して進軍を開始する。
――アンデッド・スタンピードの幕開けだった。




