コーヒーと再会③
会社帰りのサラリーマンに交じって、二人は駅に向かった。会場から駅まではかなり近いため、すぐに着いてしまう。どちらからともなく、二人の歩く速さはいつもの半分以下になっていた。まるでこの時間がずっと続いてほしいかのように。
「明後日だね。本番」
「だね」
「不安?」
「不安だから辞めていい?」
「いいわけないじゃん。あはは。あ、これ」
きららが鞄から何かを取り出し、達也に渡してきた。
「え、これ」
それは、さっき会場で売っていたアクリルのキーホルダーだった。ホテルのルームキーを模したデザインで、一本の四角い棒状になっている。
「えっと……、記念だよ記念! ほらわたしも!」
そういってきららが同じものを手に掲げた。彼女の持つキーホルダーは赤色で、達也のものは青色だ。心なしか、きららの顔も赤く染まっているように見える。
「え、いいの?」
「……うん。あ、ちなみにわたしは鞄につけるから、よかったら田中くんもそうしたら⁉」
勢いよくきららがそう薦めてきた。
「え、あ、うん。あの、ありがとね」
その勢いに従い、学校指定の鞄にそれをつけた。その様子を見て、きららは何やら満足気な表情を浮かべていた。
駅に着くと、きららと達也は反対の乗り場に向かうことになる。改札の前でまた明日と別れようとしたとき、ふいに後ろから声が飛んできた。
「田中くん?」
久しぶりに聞いたその声は、以前と変わらず、全てを包み込むような清らかさに満ちていた。だが、達也にとっては、その声がまるで心に針を刺してくるように感じられる。胸を締めつけられるような、遠い
過去から引きずり出されるような痛みが達也を襲う。
達也は恐る恐る声の方向に振り返る。
そこにいたのは、中学時代の部活仲間であり、彼が歌うことができなくなった原因の一端である、かつ
てのクラスメイト――工藤ひとみだった。
ひとみは相変わらずの柔らかな微笑みを浮かべ、まるで昔と何も変わらないかのようにそこに立っていた。
だが、達也の胸の内はざわめいていた。まさかこのタイミングで彼女と再会するとは思っていなかった。心臓が高鳴り、言葉を発しようとしたが、喉が引きつったように声が出ない。かつて一緒に歌ったあの日々の記憶が、再び自分を縛っていく。
「久しぶり、元気してた?」
「あ、うん……」
達也はまるで怒られている子どものように委縮し、その場で立ち尽くしてしまう。
一刻も早くこの場所から離れたい――そう考えるが足は動かない。心臓が早鐘のように鳴り、内臓が口から飛び出しそうなほどの緊張感が襲ってくる。
そんな様子の達也の異常さを察したのか、きららがこの場から離れるよう促した。
「すいません、わたし達、急いでて……行こ、田中くん」
「あ、ごめんなさい。それじゃ、田中くん、またどこかで」
ひとみの言葉を背に、達也は彼女の姿を視界に捉えることなく、きららと一緒に地下鉄の改札へと急いだ。
ホームで電車を待ってる間も頭の中は過去に支配されたままだ。そんな達也を見て、きららが戸惑いながら口を開いた。
「……言いたくなかったら全然いいんだけど、さっきの田中くんのお知り合い?」
「あ、うん……中学のときの……」
言葉が途切れ途切れにしか出てこない。達也の脳裏には、再会したひとみの姿と、過去の出来事がぐるぐると回っていた。思い出したくなかった記憶が、不意に目の前に押し寄せ、心をかき乱してくる。
「……そっか。ごめんね」
「……なんで……鈴木さんが謝るの?」
「いや、わたしは何もしてあげられないから……」
そんなことはない――。
きららにはこれまで何度も助けてもらった。
それなのに、ひとみにほんの数秒声をかけられただけで、彼女の姿を見ただけで、これほどまでに身体や心が暗闇に支配されてしまう。その無力感と、きららの厚意を無碍にしてしまう自分の弱さにげんなりしているだけだ。
やはり自分は人の前に出るべき人間ではない――そんな考えが胸に強く、重くのしかかっていく。ここ数日、きららに支えられ、色んなことを行ってきた。とても楽しかった。けれど、今はそれが全部幻のように感じられる。
「やっぱり……どうしようもないんだ……」
「え?」
電車がホームに入ってきた。達也が帰る方向の電車だ。
掠れるような声で、「今日はありがとう」ときららにお礼を言い、達也は電車に乗り込んだ。電車の扉が閉まるまで、達也はずっと俯いたままだった。
目の前にきららがいるのに、彼女の姿を見ることができない。まるで彼女の輝きに触れることが許されないかのように、自分のような人間が彼女の横にいる資格はないと、強く思ってしまう。
帰路の記憶はほとんどない。
心ここにあらずといった様子で家に着き、自分の部屋に入るやいなや、鞄を投げ出し、ベットに倒れ込んだ。
無意識に目を閉じると、すぐに中学生の頃の記憶が蘇ってくる。
あの頃、あれだけ情熱を持って取り組んでいた歌。それをあっさりと捨ててしまった自分。そしてそれを取り戻せるかもしれないと思っていた、最近の自分。それらが頭の中に交互に浮かんでは消えていく。
どうしようもない自己嫌悪が達也を襲ってくる。
自分は強くもなんともなくて、ただきららのまっすぐさに便乗していただけだ。彼女のような人間と一緒にいると、自分がどれほど無力で弱いかが嫌でも浮き彫りになる。
自分は本当にどうしようもなく弱い。
こうして嫌なことを思い出すと、手足がすくみ、声が出なくなる。明後日の本番なんて到底無理だ。自分には立ち向かうことなんて絶対できない――。
(僕は結局……何も変わってなんかいなかったんだ……)
その日はそのまま沈むように夢の中へ落ちていった。
翌日、達也は学校に行かなかった。




