コーヒーと再会①
文化祭まであと二日となった火曜日の放課後。達也は帰宅するなり、私服に着替え、再び家を出た。
地下鉄に乗り、烏丸駅に向かう。
(わざわざ着替えて来いって、なんでなんだろ……)
今日の放課後、いつも通り授業を終え、本番を目前とした練習に向け、気合を入れていた達也にきららが声をかけてきた。
「田中くん! 今日は一回家に帰って私服に着替えて烏丸に集合ね。十七時! よろしく!」
それだけ言い終わると、きららはさっさと教室を後にした。
理由も何も言わず去っていくきららの背中を見送りながら、達也は「ふぅ」とため息を吐いた。
この強引さにもすっかり慣れたものだ。達也が積み上げていた心の壁を、きららはいつも軽々と乗り越えてくる。烏丸で何をするのかは気になるが彼女のことだから聞いたところで答えは返ってこないだろうし、行動も変わらないだろう。
ふと耳に入ってきたクラスメイトの女子たちの会話を思い出す。好きなタイプは、引っ張ってくれる男性だと言っていた。それもわからなくはないな、と達也は思った。
「なんだよ、デートか?」
達也が教室を出ようとしたとき、光一が軽口を叩いてきた。
「そんなんじゃないよ」
「調子はどうなんだよ。明後日本番だけどよ」
「めちゃくちゃ不安」
達也がそう言うと、光一は手を叩いて笑った。
「自信満々な顔で言い切るなよ! 笑っちまったじゃねぇか」
「いや本当に不安だからさ。諏訪原の方はどうなの? ボーカルは中原さんがやるんだっけ」
「あぁ! やっぱりやらせてくれって言ってももう遅いからな。ま、来年に向けて練習しとけよ」
達也は「考えておくよ」と笑いながら返事をした。てっきりいつものように明確な拒否が待っていると思っていたようで、光一は少し面食らった様子だった。
「なんか、お前少し変わったな」
「え、そうかな」
「あ、いや。なんつうか……なんでもない。お互いがんばろうぜ」
光一が手を差し出す。達也も咄嗟に手を出し返し、握手をする。
(うわ……すごい……)
光一の手のひらは、ギターの練習でできた硬いマメで覆われていた。その手の感触から、彼の練習量や本番への情熱が伝わってくる。
(僕も頑張らないとな……)
「うん」
そして達也は教室を後にした。
◇
平日とはいえ、京都を代表する繁華街である烏丸は人通りに溢れていた。遅刻するよりはと思い、帰宅後、すぐに家を出たため、結果として大分早く着いてしまった。きららとの約束の十七時まではあと一時間もある。コーヒーでも飲みながら待とうと思い、達也は近くの喫茶店に入った。
店内は大学生や商談中のサラリーマン、主婦のお茶会など様々な客層で賑わっていた。幸い空いている席があったため、達也はアイスコーヒーを注文し、一人用のカウンター席に座った。
『早く着いたからスマートバックスにいるね』
そうメッセージをきららに送り、読みかけの文庫本を開いた。
ここ最近はフリースタイルの練習でこうして本を読む時間が減っていたなとふと思った。達
也が読書を好む理由の一つに、違う世界に没入できるという点がある。こうして文字と向き合っていると、周囲の喧騒が次第に遠のき、自分だけの静かな世界に入ることができる。そして自分では経験したことがない物語が目の前に広がっていく。達也の感受性がそれを一層味わい深いものにしていた。
「お待たせ!」
「うわ!」
突然の声が静寂を破る。達也の身体が驚きで跳ね上がった。いつの間にか隣に座っていたきららが、笑顔でこちらを見ている。
(なんか前もこんなことあったな……)
達也は心の中で苦笑しながら、目の前の現実に戻った。
飛び跳ねた身体をよしよしとなだめながら、きららの方を見る。彼女は、先日田中家に来たときとは違い、スポーティーな恰好をしていた。スウェット生地のパンツにTシャツ、肩掛けのバックというラフなスタイルだが、彼女が着ると何となくおしゃれに見える。
達也はふと時計を見た。時刻は十六時三十分を回ったところで、約束の時間まではあと三十分もあった。
「もしかして急かしちゃった?」
「ううん、全然。わたしもコーヒー飲みたかったし」
そう言うきららの手には抹茶クリームフラペチーノが握られていた。
「……甘いの飲みたくて」
ふと、彼女が言い訳のように呟く。
「いや、別になんとも思ってないよ」
「うそだ。ブラック飲んでる自分と比べたらおこちゃまだなとか思ってるんでしょ」
「そんなことないよ。好きなものを好きっていうのは大事だから」
「それ、田中くんが言う?」
「変かな」
「……ううん。変じゃない」
そういってきららもカウンター席に着いた。
「で、今日はなんで烏丸?」
「えっとね。これ」
きららは肩掛けバックから紙を取り出した。
「なにこれ?」
手渡されたそれを見ると、今日の日付と開催場所、イベント名が書かれてある。「スマイル」というグループのライブのようだった。達也には聞き覚えのないグループだったが、そこに書かれているゲストの名前には見覚えがあった。
「え、花梨さん⁉」
スマイルは若い世代を中心に最近話題の関西で活動している五人組男性ラップグループらしい。主な活動拠点は大阪だが、今日は初めて京都でライブを行うということで、現地で活動しているラッパーをゲストに呼ぼうとなったところ、集客力や実力を考慮し、花梨に白羽の矢が立ったという。
「わたしも花梨さんから聞いただけで、そのグループのことはあまり知らないんだけどね。でも今日ゲストで出るってことで、チケットもらったんだ」
「へぇ……すごいね」
「本番前だから少し迷ったんだけど、パフォーマンスとか勉強になるかなって思って」
「なるほど……」
達也はきららの言葉に思わず頷いた。フリースタイルバトルの練習ばかりしていたが、自分たちの最終目的は文化祭のステージに立つことではない。ステージに立ち、観客にパフォーマンスをアピールし、興味を持ってもらい新入部員を獲得することが目的だ。そう考えると、プロのパフォーマンスを直接見るのは確かに良い勉強になる。
(パフォーマンスか……)
ステージに立つことの意味と、その重みを改めて感じながら、達也はその言葉を心の中で反芻した。
思えば、合唱部として舞台に立っていたときも「パフォーマンス」というものを特段意識したことはなかった。。もちろん、全身を使って声を出すことには集中していたが、それはあくまで直立したまま声を出すという前提があり、ラッパーのように身振り手振りで表現するものとは根本的に違う。ソロに選ばれた時はそうしたものを模索しようとしたときもあったが、結局実践には至らなかった。
ふと、当時の記憶が蘇り、達也の表情が一瞬曇る。しかし、すぐに気持ちを切り替えられた。以前と比べ、そうした嫌な記憶が頭の中を支配することが少なくなっているのを感じる。
これもきららのおかげだなと思いながら横を見る。すると、ちょうど、きららはフラペチーノを一気に
飲みすぎて、冷たさによる頭痛に必死に耐えているところだった。その様子が可笑しくて、達也は思わず微笑んでしまう。
やがて時刻は十七時を回ろうとしていた。当初の集合時間だ。
「さ、行きますか!」
やっと頭痛から解放されたきららが、元気に声を上げた。




