#9 剣士レン 2
昔の夢を見た。
要蓮は広い畳の間に一人いた。
祖父が生前だった頃、道場として使われていた畳の間である。そこにいま、大勢の喪服の人たちが詰めかけていた。
だが、蓮に声をかけて来る者は一人もいない。
蓮の目の前には遺体が一つ。
祖父のそれである。
田舎街のこの屋敷でずっと一緒に暮らしてきた祖父が、もの言わぬ姿となり棺の中で横たわっていた。
物心付く前に両親を亡くし、やがて物心付いた頃に祖母を亡くし、そして最後の家族であった祖父が亡くなった。
――みんな居なくなった。
レンが生まれてよりずっと続いていた暮らしが、音を立てて崩れていくのを感じた。
道場には読経の声が響いていた。
焼香の香りが鼻に突く。
白黒の天幕に囲まれつつ、だが周囲の大人たちは悲しみに暮れている者など誰もいなかった。
「宗丞さんも80過ぎていたから大往生だろう」
「来るべきものが来ただけのことだ」
悲しんでいる者は殆どいない。
老人の葬儀などそういうものだ。長い抗がん生活のことを皆知っている。
来るべきものが来たという発言は、ここにいる者すべての人の心を代弁したものだろう。それは蓮も含めてのことである。
「でも、宗丞さんがいなくなったら、この道場はどうするの?」
「こんな田舎で道場など続けてどうする。そもそも道場を継ぐ人がいない」
「それどころか土地資産税だって馬鹿にならないんだ。相続放棄したほうが良いと思うぞ」
「そんなことよりもっと大事なことがあるでしょう? 蓮君のことはどうするの?」
と、そこで大人たちの会話はぴたりと止まった。
――みんな困っている。
蓮は中学三年生であった。
いつまでも子供ではない。大人たちの事情だって理解できる。彼らを責めるのは酷であろう。
やがて、彼らは蓮に聞こえないように小さな声で会話を再開した。
「蓮君は中学三年生だったか? 次は高校生か」
「でも、宗丞さんが育てたから要流をずっと仕込まれていたって」
「そんな田舎の古流武術なんて打ち込んでもどうしようもないのに」
「それどころか、最近は要流を使ってVRゲームに入り浸っているって話よ」
「VRゲーム? なんだ現実との区別もつかないのか?」
と、再び会話が止まる。
それ以上何か言うに言えない。
一人残された少年に同情していないわけではない。だが、彼をどうするか、それを考えると不用意なことは言えない。
そんな中、一人の男性が立ち上がった。
そして、親類たちの前に座る。そして、彼らに向かって告げるのだった。
それほど大きな声ではなかった。だが、静かながらも、しっかりと蓮にも聞こえるような声であった。
「蓮君のことは私が責任をもって預かろうと思います」
「遼二郎さん……」
声の主は蓮の叔父、遼二郎であった。蓮が幼少期に亡くした父の弟に当たる。
その遼二郎は親類たちから反対がないことを確認すると、蓮のもとへとやってきた。
少年の前に腰を下ろす。武道経験者らしく姿勢良く、堂々とした正座であった。
その隣で遼二郎の妻――蓮にとって叔母――も座り、暖かく微笑んでいた。
「蓮君、これからのことだが、叔父さんのところに来ないか? 東京は遠いし、環境も変わる。だが、蓮君の将来はまだ長い。蓮君の将来を考えるなら、これはきっと良い選択になると思っている」
遼二郎はそう蓮に告げた。
決して大きな声ではなかったが、とても力強い声であった。
ずっと俯いていた蓮が顔を上げた。そこには真っ直ぐに蓮を見つめる叔父の姿があった。
◇◇◇◇◇
気が付けば、レンは異世界の宿にいた。
――なんだか酷く懐かしい夢を見た気がする。
起きた直後は覚えていたのだ。
だが、宿の天井を見た瞬間に「ああ、自分は異世界に転生したのだな」などと考えていたら、一瞬で夢のことを思い出せなくなった。夢とはそういうものである
だが、何となく感傷的な気分だけは残っていて、しばし何の夢だったか思い出そうと試みるも、考えれば考えるほど夢の記憶は遠ざかっていく。
――ああ、これは思い出せないパターンだ。
宿の窓から朝靄の光が漏れていた。
小鳥が鳴く声が聞こえる。
冒険者ギルド宿泊所二号棟。
それがレンが泊っている宿の名であった。冒険者ギルドが運営している安価な宿で、個室などはなく大部屋で雑魚寝するような宿である。
冒険者ギルドが「低ランク冒険者のために極限まで安価な宿を提供しよう」という方針で作った宿であったが、評判はあまり良くない。それでも値段の割には清潔感があり、日本という温室で育ったレンとしは居心地の良い宿であった。
――そろそろ朝か。
まだ暗い大部屋で目を覚ましたレンは、微睡の中で自分の境遇を思い返す。
前世においては肩身の狭い思いをしていたが、自分は異世界に転生したのである。異世界での生活はそれなりに苦労も多いが、誰にも気兼ねする必要のない開放感はある意味では心休まるものであった。
と、そんな朝の時間である。
「ぐうえええぇぇ!」
突然レンが奇声を上げた。
見れば隣で寝ていた大男の足がレンの腹の上にあった。大男の寝返りとともに丸太のように太い足が振り下ろされてきたらしい。
――最悪の目覚めだ。
大部屋雑魚寝の宿と言ってもギュウギュウに混雑しているような宿ではない。というより閑散とした宿であったのだが、個室でないからにはこのような事故は稀にある。
レンはむくりと上体を起こすと、大男の足を退かした。
と、その時、大部屋にぱっと灯りが付いた。魔道具による照明である。この宿は朝の一定の時間になると照明が点けられる。
魔導灯の点灯と共に周囲の冒険者たちも寝床から起き始め、のそのそと活動を開始していた。
この冒険者ギルド宿泊所二号棟は100人ほどが泊まれる大きな施設であるが、実際に泊っているのは2、30人程度であろうか。暗黙のルールとしてレベルが高いほうから大部屋の奥に陣取って寝ている。レンはレベル1と最下位なので、それに従って入り口のほうで寝ていた。
冒険者ギルドが提供する安価な宿ということで、宿泊客の殆どがレベル10に満たない低レベル者である。
だが、レンに寝返りローリングソバットを見舞った大男は例外で、この場には似つかわしくないレベル20越えの中級冒険者であった。酒場で飲んだ後で自分の宿に戻るのが面倒という理由で、稀にこの宿に出没するレアキャラだという。
だが、レンがこの宿に泊まり始めて数日。既にこの大男とは三回も遭遇していた。本当にレアキャラなのであろうか。
「コバートさん、朝ですよ」
「うごおぉおぉ。ぐおぉぉおぉ」
知らぬ相手でもないのでレンは声をかけて軽く揺すってみた。だが、気持ち良く寝ているらしい大男に起きる気配は全くない。
仕方ないのと、少し仕返しの気持ちもあって、レンは大男の腹をグーパンチしてみた。
「起きてくださいよ、コバートさん」
「んがっ!?」
レベル20越えの大男にレベル1のグーパンチは大して効き目がないらしい。それでも大男を起こす程度の威力はあったようだ。
「うおおぉぉ、もう朝か。おう、坊主。起こしてくれたか」
「また飲んでたんですか?」
「おお、なんか最近魔物が多くてな。実入りが良いんだ。昨日も良い臨時収入があってな。良い酒が飲めた。坊主も早く稼げるようになると良いぞ。たくさん酒が飲める」
そう言った大男は笑顔でレンの背中をバンバンと叩いた。
「痛い! 痛い! 自分のATK考えてくださいよ!」
「こんぐらいでダメージ入りゃしねえよ、わはははは」
機嫌の良さそうな大男の様子に、レンは蹴られた文句を言う機会を逸してしまった。
そんなレンの様子に欠片も気付くことのない大男はボリボリと腹を掻きながら起き上がると、大部屋の入り口のほうに立っている老女のほうへと向かって行った。
「お姉さん、朝からお疲れさんです。今日もお願いしますわ!」
「あんたはいつも朝から騒々しいわね」
老女は呆れ顔であったが、軽く呪文のようなものを唱え、手元のスティック状の棒を振ると、大男の全身が淡い光で包まれた。これが〈洗浄〉と呼ばれる魔法で、全身の汚れを綺麗に洗い流してくれる便利な魔法であった。
この世界には魔法がある。
一事が万事このような調子で、電気はないが魔道具による照明がある。風呂は殆ど普及していないが魔法による〈洗浄〉がある。水道だって魔道具によって清潔な水が提供されるし、トイレだって水洗であった。下水の処理はさすがに限界はあるようだが、ある程度は光魔法による浄化措置が行われているらしい。
――魔法、凄いよな。
老女による魔法を目の当たりにしてそんなことを考えていたが、そんなレンに大男が声をかけてきた。
「おい、坊主! 起こしてくれた駄賃だ。奢ってやるからお前も来い!」
「うぃっス!」
大男の言葉にレンは寝床から飛び起き、老女のもとへと駆け寄った。
すると老女は先程とおなじように、ほいほいと呪文を唱え棒を振ると、レンの身体が淡い光に包まれた。ここ数日草原での戦いで汚れていた衣服が綺麗になっていく。と同時にレンは全身に爽やかな風が通り抜けていくのを感じた。
「よっし、そんじゃあ、俺は行くからな。坊主も頑張れよ!」
「コバートさん、あざーっした!」
「おう! じゃな!」
そう言って大男は嵐のように去って行った。
残されたレンと老女は何となく互いに顔を見合わせ苦笑いした。
「あ、〈洗浄〉、ありがとうございました」
「いえいえ、これが私の仕事ですからね」
と、老女は大男から受け取った銅貨を手に躍らせていた。
言うまでもないことであるが、この老女はこの宿にて〈洗浄〉の魔法を冒険者に提供して稼いでいる魔法使いであった。この世界には風呂が殆どない代わりに、このような流しの魔法使いが宿を巡回しているのが一般的となっている。
「奢って貰えて良かったわね。あのオジさんは騒々しいけど、悪い人じゃないからね」
「わかってます。わかっています」
レンとしては戸惑うことの多い世界であったが、当初想像していたよりは無難に生活を送れていた。
この〈アビサス〉という世界は全体的な文明レベルとしては中世くらいと思われたが、レンの前世にはなかった魔法という存在がある。それによりその文明レベルに比して、生活レベルそのものは非常に高いと感じていた。
――でも、清潔なのは良いけど、お風呂には入りたいなあ。
もっとも魔法のよる利便性にも良し悪しがあって、時折レンはそんなことを思ったりするのだった。