#65 蓮の花
東北の田舎街、とある寺院の境内。
あまり人の訪れない古い寺院であるが、歴史をたどれば旧会津藩の支藩の菩提寺となっていた由緒ある寺である。
その寺に軽トラックでのんびりとやってきた初老の男がいた。
要宗丞である。
宗丞には二人の子供がいる。宗一郎と遼二郎。うち、弟の遼二郎のほうは東京に出て行き、いまでは立派な家庭を築いていた。
問題は兄、宗一郎であった。こちらは最近になって翠という女性を連れてきて、ようやく所帯を持ってくれたかと安堵したのだが、口を開けば未だに武道だの格闘技だの言っている。道場を継いでくれるつもりのようだが、それならそれで学ぶべきことは沢山あるというのに、困ったものだと思っていた。
宗丞が軽トラックでこの古い寺院にやって来たのは、その困った息子を探してのことである。
「ああ、やっぱりここにいたか」
そして期待したとおり、息子夫婦の姿を発見した。
宗一郎は寺にある小さな池に足を浸していた。
蓮の花が咲き乱れる寺の池である。
胴着と袴姿であったが、さすがに袴は水に浸からないように捲り上げていた。その状態で腰の剣に手を添え、その構えの状態で微動だにしていなかった。
池の傍らでは昨年、要家に嫁いでくれた翠が庭石に腰を下ろし、夫の様子を見守っていた。
季節は初夏になろうかと言う頃。境内は緑と花々に囲まれていた。
そんな息子の様子を見て、軽トラックから降りてきた宗丞が呆れたように声をかける。
「なんだお前、まさかあの話を信じたのか?」
「親父、騙したな?」
「騙したも何も、信じるとは思っておらんかった」
宗一郎が行っていたのは居合の訓練である。
居合で蓮の花を斬る。
蓮の花は早朝に咲く。夜のうちに大きな蕾をつけている蓮を見つけ、その前で待機する。そして、陽が昇るとともに蓮の花は、ポンと大きな音を立てて花を咲かせる。その瞬間に剣を走らせる。居合における忍耐と集中力を養う訓練である。
「有名な作家が書いた嘘なんだがなあ」
だが、その訓練は創作であった。
実際のところ、蓮の花は朝に緩やかに咲く。ポンなどと音を発てたりはしない。
宗一郎はゆっくりと花弁が開く様子を居合の構えのまま、ずっと眺めていたようだ。
「どうした、花は咲いているぞ?」
「タイミングを逸した」
「だろうな」
池に足を浸し、居合の構えのままの息子に宗丞は呆れるばかりであった。
「翠さんもすまんな。こんなことに朝から付き合わされてしまって」
「ええ、私は早々に止めましたけど」
「なんだ、翠さんもやっていたのか」
見れば息子の嫁も道着と袴に裸足で、傍らには濡れたタオルがあった。彼女の剣は既に鞘に納まり、庭石に立てかけられている。
――息子も息子なら、それに付き合ってくれるこの女性もなんだかな。
――まあ、それくらいだから一緒になってくれたのだろうが。
数年前、弟遼二郎と同じく東京のほうに出て行った宗一郎であったが、弟とは異なりそちらでも武道だの総合格闘技だのと、ずっと馬鹿な真似をしていたようだ。
ずっとそんなことをしている様子に心配をしていたのだが、その長男が昨年ひょっこりと女性を連れて生家に戻ってきた。それが、この翠という女性である。
こんな息子と連れ添ってくれるというのだから感謝しかないが、この女性も大概である。だが、決して嫌いではない。
「で、いつまでそうしているつもりだ? 斬らないのか?」
問われた宗一郎は、居合の構えのまま面白くなさそうに応える。
「いや、綺麗な花だと思ってな」
「そうだな。立派な蓮の花だ」
宗一郎の目の前にある蓮は、見事な一凛を咲かせていた。
水面から一本の茎を真っ直ぐに伸ばし、大きな花弁を一枚一枚丁寧に開いたような、美しい花を咲かせていた。
「で、斬るのか? 斬らないのか?」
問われた宗一郎は悩んでいたようだが、やがて構えを解いた。
「斬らない。いや、斬れない」
「まあ、それも良かろう」
見事な一凛である。斬るのは忍びない。
宗一郎は池から上がると、翠から新しいタオルを受け取り、足を拭いた。
陽が昇り、境内には鳥の鳴き声が響いていた。由緒ある寺院である。綺麗に整えられた庭園に温かな陽射しが降り注いでいた。
そんな中、気がつけば宗一郎と翠が二人で池の前に立っていた。
「子供が生まれたら、名前に『蓮』の字を入れたい」
「そうねえ」
そんな二人の声が聞こえてきた。
――おや。
それを傍で聞いていた宗丞は思った。今までこの二人から子供の話など出たことはなかった。
驚いたが、しかし二人の背後で黙っていることにした。
「子供の名前に? 蓮の花言葉って知ってる?」
「いや、知らないが。綺麗な花だと思ってさ」
「そうね。綺麗だものね」
そうして、池の前で寄り添う二人。
その様子に宗丞は新しい命の予感を感じた。
ようやくか、という安堵の気持ちと共に、喜びがじわじわと宗丞の心を満たしていった。
新しい命と新しい未来を宗丞は想像する。
きっと二人の子供であれば良い子に育つであろう。と同時に、不器用で困った子になるかもしれない。この両親に似るのなら、おそらく要領が悪く、遠回りの多い人生を送ることになるのだろう。
宗丞もまた、二人の前に咲く蓮の花を眺めた。
その蓮は、美しい花であった。その花を前に寄り添う二人も、また。
そして、思うのだった。
ゆっくり咲いて良い。
それでも、この二人の子であれば、大きく、美しく咲くだろう。
と。
一章終わり。
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