#38 東の木漏れ日亭 2
レンはユリーシアに〈東の木漏れ日亭〉へと案内された。
表通りから今までレンが踏み入ったこともなかったような裏路地へと入る。
ストラーラの路地は細いものが多い。一歩表通りから逸れると、石造りの背の高い建物に挟まれた薄暗い小道となる。土地勘のない者が入っていくには少々勇気が要る。
魔物対策のため街全体が外壁に囲まれており、狭い土地に建物が密集しているため、必然的にそのような街並みとなっている。
背の高い建物に囲まれた日陰の路地を少し歩くと、その宿はあった。
入口には意匠を凝らした看板が吊るされていた。ナイフとフォーク、それにベッドの上に木の枝を配した看板で、それが〈東の木漏れ日亭〉という宿のエンブレムとなっていた。
「ただいま帰りました」
ユリーシアが躊躇なく扉を開けると、ドア鈴が鳴った。
その音とともにパタパタと奥から駆けてくる音がして、年若い女性が顔を出してきた。
「はーい、シアちゃん、お帰り。おや、またその子かい?」
「レン君です」
いきなり紹介されたレンは戸惑ってしまったが、その女性――女将のエリザ――にぺこりと頭を下げた。
「今日もポーションを作ってあげるの?」
「いえ、今日はちょっとエリザさんに相談が」
「私に?」
「彼、宿を探しているんですよえ。それで〈東の木漏れ日亭〉はどうかなって思って」
「あらあら、そんな話?」
ユリーシアの話にエリザは驚いたようであったが、すぐにレンに向かって笑顔を見せてくれた。
◇◇◇◇◇
〈東の木漏れ日亭〉の一階、食堂のテーブルにてレンとユリーシア、それに女将のエリザと亭主のバクドゥが席を囲んでいた。
綺麗な宿である。数年前にストラーラが大きく拡張された時期にできた宿で、まだ真新しさが残る。亭主夫婦もこの新興の都市で宿を始めたばかりの若夫婦で、下町の雰囲気を感じる気さくな宿であった。
少々内装に洒落た雰囲気があるのはエリザの趣味が前面に出ているためであろう。
「ふむふむ、そんなにお金はないのね。でも、臨時とはいえシアちゃんと一緒のパーティーを組んでいると。一緒のパーティーなら一緒の宿に泊まっていたほうが何かと都合が良いものね」
「そうなんですよ。それにレン君は今、冒険者ギルド宿泊所に泊まっているんですって」
「あそこに泊まっているのかい? それじゃ大変だろうに」
その席で、冒険者ギルド宿泊所二号棟の話が再び出たが、やはり女将エリザもまたそのような反応であった。
――そんなに悪い宿じゃないと思うんだけどな?
――ギルド職員が目を光らせているから泥棒の心配もないって話だったし。
――なによりあの価格帯であれだけ清潔な場所って他になかった。
レンはそう思うのだが、清潔さへの拘りはこの世界の人にはあまり理解されないかもしれない。
また、仕切りのない大部屋でずっと生活するのが辛かったのも確かである。一日二日程度の宿泊ならば良いのだが、プライベートのない生活がずっと続くのはさすがに辛かった。
実際、貧民街で生活していような者たちであっても冒険者ギルド宿泊所には決して泊まろうとしない。基本的には他の街から出てきたような若者が一時的に泊まる宿なのである。
「それならウチに泊まるのは良いかもね。ねえ、アンタ」
「そうだなあ」
そんな話を聞いたからであろう。亭主夫婦もレンに少し同情的な様子であった。
また、こうして話をしている限りこのレンという少年はとても礼儀正しく、比較的に女性が多いこの宿で問題を起こすようにも見えない。亭主夫婦としてはなかなかの好印象であった。
「部屋は空いているって話でしたよね?」
そんな夫婦にユリーシアが問いかける。
「先月アトラさんが出ていったから空いているんだが。でも、レン君はあまりお金がないんだよな?」
「とりあえず私とパーティーを組んでいる間は工面はできると思います」
「でも、スタンピードがいつ治まるか、わからないからな」
スタンピード騒動が治まればレンとユリーシアのパーティーは解散であろう。パーティーを組み続ける理由がない。
そうすればレンの収入は元通りである。そうすると〈東の木漏れ日亭〉に泊まるには少々厳しい。その時はその時で出て行けば良いのだが、冒険者ギルド宿泊所の件を聞いているので、それも酷な話と感じられた。
「そういうことであれば、屋根裏部屋なんてどうだ? 少し荷物を整理せにゃならんが、少し荷物を移せば泊まれるだろう?」
「アンタ、何言っているの。いまの季節、屋根裏部屋なんて蒸し風呂よ?」
「冒険者なんて昼間は外に出てるだろ? 夜寝るだけなら屋根裏部屋でも良いんじゃないか? そのぶん安くしてやろう。そうだなあ。月に11万ディルでどうだ? 銀貨11枚。それで朝と夕に一日二食が付く」
亭主バクドゥの提案にレンは目を丸くした。
レンの現在の所持金は銀貨6枚程度。また、ホーンラビットなどを狩るようになってから、月に銀貨4、5枚程度は稼げるようになっている。そういった経済事情なので、本来であれば少々厳しい。だが、今はユリーシアとパーティーを組んだことにより、銀貨15枚程度の収入が見込まれていた。
レンにとってユリーシアとパーティーを組ませてもらったことが、いかに大きな出来事であったか。
――こんな綺麗な宿で。しかも、食事付き。
――急にそんな良い生活になって大丈夫だろうか?
大きな金額を提示され、なんとなく不安に感じたりもしたが、断る理由もない。
レンは少し悩んでいたが、やがてぺこりと頭を下げた。
「それで是非、お願いします」
レンの応諾に亭主夫婦は破顔した。
「よしよし。レン君だったな。これで君はウチのお客さんだ」
「これからよろしくね。ウチの宿は女の人が多くってね。男の子が増えてくれるのは嬉しいわ」
そうしてレンの〈東の木漏れ日亭〉への宿泊が決まった。
◇◇◇◇◇
「ここが屋根裏部屋だ」
亭主バクドゥに案内されたのは、屋上菜園に出る階段の横に設置された小さな部屋であった。
〈東の木漏れ日亭〉は七階建ての細長い建物である。一階と二階は吹き抜けとなっており、厨房と食堂となっている。三階から七階が客室となっているが各階には三部屋ずつしかない。ちなみに亭主夫婦の居室は地下にあるらしい。
そして、その七階から階段を上った屋上にレンが宿泊する小さな屋根裏部屋はあった。
「最初はここも客室にするつもりだったんだが、いつの間には物置になってちまってな。広さは申し分ないんだが、夏は暑いし、冬は寒いんだ」
「いえ、僕には十分ですよ。まあ、でも確かに暑いですね」
「この時期は夜、寝るだけの場所と思ってくれ」
女将のエリザが蒸し風呂と表現したように、屋根裏部屋は八月の陽気で熱気が籠っていた。
だが、バクドゥが部屋の奥にある小さな出窓を開け、反対の屋上菜園側が見える窓も開け放つと、風が通った。熱風であったが、しばらく待てば部屋の熱気も少しは逃げるだろう。
「ベッドはこれ。あとで新しいシーツに変えておくよ」
「ありがとうございます」
「あとは、この荷物か。どうしようか、俺たちの部屋に移すか?」
「屋上に置いときましょうよ。防水布でもかけておけば良いでしょ」
「あ、荷物はこのままも全然良いですよ。ベッドさえ使えれば僕は構いませんので」
レンは屋根裏部屋に足を踏み入れた。
建物の構造としては、屋上へ上がるための階段の横にある余分なスペースを仕切っただけの部屋である。屋根の形に合わせて三角となっている天井は確かに屋根裏部屋というに相応しい。
そんな部屋の奥にある小さな出窓から、レンは外の景色を覗いた。
「ストラーラのこんな景色、初めて見た」
そこにはストラーラの街の屋根が延々と続いている景色が広がっていた。他の建物も屋上には殆どが菜園を設けており、緑あふれる独特な街の光景であった。今まで狭い路地ばかりが印象に残っていたストラーラの別の一面を見た気がした。
一方で反対を見れば、窓から〈東の木漏れ日亭〉の屋上菜園が覗いていた。八月の元気いっぱいな夏野菜たちが実を付けているのが見える。もっともレンはこの世界の植物など全くわからないので、どれが何の野菜か見当もつかなかったのだが。
しかし、こういった菜園などというものも、レンはこの世界に来て初めて見たように思う。
「僕、この部屋、好きです」
そんなレンの発言に、女将のエリザが破顔した。
「そう言ってくれると嬉しいわねえ。それじゃ、ちょっと掃除をするから、どこか街でぶらぶらしてきておくれ」
「掃除なら手伝いますよ」
「お客さんに掃除させるわけにはいかないわよ」
「いえいえ、自分が泊まる部屋ですから」
そう言って、レンは女将のエリザと二人で暑い夏の屋根裏部屋を汗だくになって掃除した。
◇◇◇◇◇
日が暮れる頃、〈東の木漏れ日亭〉の一階の食堂に宿泊客たちが集まってくる。
ストラーラにある宿屋の殆どがそうであるように、この〈東の木漏れ日亭〉の宿泊客もその殆どが冒険者を生業としていた。ただし、この宿は女性客が多いのが特徴である。亭主バクドゥがその荒々しい容姿に反して繊細で凝った料理を提供するので、女性客に人気となっていた。
「レン君、こっちこっち」
部屋の掃除を終えて一休みした後、一階に下りてきたレンは吹き抜けの二階から声をかけられ、上を見上げた。
そこには二階席で手を振るユリーシアの姿があった。
レンは周囲の客たちから珍しそうな視線を受けていたが、そんな視線に気づく余裕もなくユリーシアのもとへと駆け寄った。
「この宿はみんな長期宿泊客ばかりだからね。だいたい座る席って決まっているの。だから、今度から一緒に食べましょう」
「あ、え、良いんですか?」
「良いも何も。パーティーを組んでいるんだから一緒に食べたほうが相談もできるし良いでしょう? それに他の席なんて空いてないと思うよ?」
言われてレンは周囲を見渡した。確かに他に席は全て埋まっているようであった。
ちなみに周囲の人たちはレンという新しい宿泊客に興味津々だったが、レンが周囲を見渡したタイミングで皆さっと視線を逸らした。
そして、レンがユリーシアのほうに視線を戻すと、再度レンに注目が集まる。
「それじゃ、食べるなら自分の配膳は自分で持ってくる」
「あ、そういうシステムですか」
というわけで、レンは一階の厨房のカウンターから、自分の分の配膳を受け取って席へと戻って来た。
レンはやや緊張した面持ちで席に着く。
と、向かい合うユリーシアを見てレンは一瞬固まった。
いつもは胡桃色の髪を後ろにまとめていたユリーシアであったが、この時間は寛いでいるのだろう。髪を下ろしていた。まとめていた時の名残であろう髪の緩いウェーブが、初心なレンにはとても女性的なものに感じられた。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないです」
実のところレンにとっては家族や親戚ではない若い女性と向かい合って食べるなど、前の世界も含め初めてのことだったかもしれない。ユリーシアとは大分馴染んでいたが、こうして一緒に食事をするとなると多少緊張した。
ただ、幸か不幸かレンは未だ色気よりも食気の年頃である。膳から漂う香りにたちまちに意識を奪われた。
「美味しそうでしょう? バクドゥさんの料理、美味しいのよ」
この日のメニューは薄いナンのようなパンとスープ、それに肉野菜炒めのようなものが添えられていた。スープから漂う香りが鼻腔を刺激する。
「それじゃ、食べちゃいましょう」
「あ、はい。いただきます!」
ユリーシアに言われ、レンが両手を合わせた。
「それは、レン君の故郷の風習?」
「そうです。宗教というより習慣みたいな? あんまり意味はないんですけれども」
そして、レンは食事を取り始めると静かになった。
実際に口にしてみると期待通りに、否、期待以上に大変に美味しかった。スープに入っている良く下処理のされた肉もさることながら、屋上菜園で取れたであろう野菜も美味しかった。レンはそれらをモリモリと口へと運んでいく。
その様は、対面に座るユリーシアが思わず笑ってしまうほどであった。
「あらあら、若い子の食べる勢いは凄いわね」
「女将さん、凄く美味しいです!」
「良かったわ。うちの宿は料理が売りの一つだからね」
〈東の木漏れ日亭〉で提供される食事は亭主バクドゥのおまかせ料理のみで、日によってメニューが変わるが、いつも宿泊客の味覚を満足させる。ただし、原価は限られているわけで、味を優先するあまり量が犠牲となっているのが玉に瑕であった。
そうこうしているうちにレンは夕食を全て平らげてしまった。小柄なレンであるが、そこは育ち盛りである。大変な食欲であった。ユリーシアの食事はまだ半分も減っていない。
レンがなくなってしまった皿を眺めて寂しそうな表情を浮かべていたが、ユリーシアとしては同情いたしかねる。食べ物は食べたらなくなるのである。
そんな《《しょんぼり》》しているレンに隣の席にいた男性が声をかけてきた。
「君は新しい宿泊客かい? 足りなかったら追加注文すれば良いんだよ」
そんな声をかけてきた男性は、この宿には珍しく大柄な男性であった。そして、その彼のテーブルには溢れんばかりに沢山の料理が並べられていた。基本的には料理が少な目な〈東の木漏れ日亭〉だが、彼のように追加料金を払うことを厭わなければ当然モリモリ食べることができる。
と、その男性と一緒にテーブルを囲んでいた女性が非難の声を上げた。
「あ、コラっ! 皆で声かけるタイミング計っていたのに、なに勝手に声かけてんの!」
「え、なに?」
「そうだ! そうだ!」
と、突然周囲から非難の声が上がり始めた。
食堂にいた人たちは皆レンに注目していたのである。当然そんなことはユリーシアも気づいていた。知らぬはレンばかりであった。
この〈東の木漏れ日亭〉に限らず、ストラーラにある冒険者向けの宿は長期宿泊客ばかりである。ずっと同じ者たちが同じ宿で顔を合わせているのだから、自然皆が知り合いとなる。
そこに新たな者が加わるのだから、注目を集めないわけがない。
特に今回の場合、女性客の多い〈東の木漏れ日亭〉である。
年若いレンなど新しい玩具のようなものであった。
「ねえねえ、君はユリーシアとどこで知り合ったの?」
「名前は? 何歳?」
「それよりどこ泊まっているの? 8階? この宿に8階なんてあったっけ?」
「ちょっと! ちょっと! みんな一斉に喋るのは止めなさい! レン君が戸惑っているでしょう!」
わっと取り囲まれるようにして口々にレンに話かけてくるのをユリーシアが遮った。
当のレンは多くの人から話かけられたことに驚いているようであった。転生以来これほど多くの人から話かけられたのは初めてであったかもしれない。
久しぶりに大勢の人と関わったことに驚きはしたが、いちおう何か話さないといけない雰囲気であった。
レンは席から立つと周囲に向け、ぺこりと頭を下げた。
「レンです。よろしくお願いします」
「よろしくねー」
「ここは飯が美味いからな。良い宿選んだぞ」
そう挨拶すると、他の宿泊客たちから暖かい声がかけられた。
転生以来ずっと一人で活動していたレンは、この宿にとても暖かいものを感じた。