第九話 右郎の過去 その四 それは、独りよがりな願望。
「ワタシ、両親に無理矢理髪をこの金色に染められて……このままじゃ学校に通えないから……だから、ええと……」
少女は、相談する。それ自体ばかりに気を取られ、いざ相談するとなると上手く言うことができなかった。
「大丈夫です。大体、今ので分かりましたよ」
悩みの根底は伝わったので問題ない。
佐野先生は優しく肯定する。
「おれも考えたんです。この子の両親や学校に話をするとか、でもおれは高校生です。中途半端にしかできず、却ってこの子の問題を悪化させかねないと思いました。一応匿名で相談できるサービスってあったじゃないですか。あれを使うって手も考えたのですが……」
右郎は少女を助けたい。それは簡単なことではなく、高校生の少年一人で行うには荷が重すぎた。
それでも本気で助けたい。その何があろうと揺るがない絶対意思を、必死に佐野先生へ伝える。
「ヒダリー君。あなたの意思、伝わりましたよ」
「……ありがとうございます。この子のことお願いします」
深く頭を下げ、改めてお願いをする。
「ちょっとヒダリー。そんなに真剣に頭下げてくれるのは……嬉しいけど恥ずかしい……よ?」
少女は頬を赤らめながらも右郎を見つめる。
「……あ、う」
右郎は見つめられるのが気恥ずかしく、後ろを向いた。
「あーンッンー!」
佐野先生がわざとらしく咳払いをする。
「「あ……」」
人前でイチャイチャしてしてしまっていたことに気がつき、急に恥ずかしくなる。
「本題に入りましょう。匿名で相談できるサービスを使用すると言う考えは良いですね。わたくし以外の大人の意見も取り入れることができます。わたくしだけではやはり気付かぬうちに偏った意見になる可能性がありますからね」
「なるほど……キミ、おれのスマホを」
そう言ってスマートフォンを少女に手渡す。
「わあ! お兄ちゃんの。ヒダリーのスマホだぁ!」
好きな人のスマートフォンを受け取った少女はやけに嬉しそうにする。
「ふふ。ロック教えてよ」
囁くように言う。
「おれの誕生日だな。〇、五、一、四だ」
「覚えたよ~。五月一四日だね!」
「その子の中学校に努めている者の中に、わたくしの知り合いが居ます」
「あ……電話でワタシの名前言うことになりそう……」
中学校の者に相談するにあたって、少女の本名を言う必要があるだろう。
キラキラネームであるが故に、右郎には知られたくない。
その上、右郎のことが大切になってしまったからこそ、自身の抱える問題を知られたくなくなってしまっていた。
「ヒダリー。悪いんだけど……」
右郎に知られないためには、この教室から暫く出ていてもらうのが確実だろう。
しかし、助けられておいて追い出すと言うのは気が引け、声が小さくなる。
「分かってる。佐野先生! この子のこと、お任せいたします」
佐野先生に深く頭を下げる。
その深さは、単純に頼みごとをすると言う意味も当然あるが、それよりも、最後まで力になれなかったことへの悔やみが強い。
少女と仲良くしすぎたせいで、肝心な部分で力になることができなかった。
――皮肉だな。
心の中で思い、表情には決して出さない。悔しさを少女に悟らせないためである。
「お任せください。絶対的な意思を以てして、この少女をお救いします」
佐野先生は信頼できる目をしながら快く引き受ける。
その目を見て安心した右郎は、静かに退出して行った。
右郎が退出し、五分程経過した頃――。
「ええ! 元の髪てっきり黒だと思い込んでおりましたが、銀色だったのですか? 言われてみれば……根本にライトウィステリア家の特徴的な銀色が見えていますね……」
佐野先生の驚く声が廊下まで聞こえてくる。
「な、なんだ?……」
気になり、教室の扉に手を掛ける。
「ひ、ひだりー! 何でもないよ! 大丈夫だから!」
扉を開こうとしたことに気がついた少女が焦りながら誤魔化す。
「そ、そうか……」
良く分からないが、知られたくないと言うことだけは分かり、廊下で大人しく待つことにした。
それから三十分ほど話し合いが続いた。
「ひだりー! 終わったよ! ありがとう! ごめんね! 何とかなりそう」
少女が嬉しそうに礼を言う。
話し合いの結果、佐野先生が少女の中学校に説明をすると言う形で収まった。
たったそれだけである。
発言力の高い教師によっていとも簡単に解決した。
「やっぱりこの子をここに連れてきて正解だったな」
右郎の気分は高揚していた。
「ヒダリー一緒に帰ろ!」
そう言って少女が右郎の左手を握る。
「ああ。一緒に帰ろう。佐野先生、ありがとうございました」
佐野先生に一礼し教室を出る。
右郎の気分は高揚していた。
自分が作ったきっかけで一人の少女を救うことができた。
――嬉しかった。
社長の息子と言うレッテルを貼られ生きてきたが、右郎という個人を見てくれる少女を救ったことで自分自身を肯定することに繋がった。
高揚して、周りが見えにくくなっている。
その精神状態で校舎を出る。
少女とは悩みの話ではなく、他愛のない話をした。
「ヒダリーの好きな食べ物は?」
「ラーメンかな」
「お弁当に入るようなのだったら?」
「うーん。ハンバーグとか?」
ただの食べ物の話だ。深く考えずに答えた。
「そっかぁ覚えとこっと。役に立つ日が絶対来るからねぇ」
深く考えずにハンバーグと言っただけで満面の笑みを浮かべる。
(卵焼きって言っとけば良かった……)
よく考えるとハンバーグよりも卵焼きの方が好きだった。
「そしたら……さ」
急に少女が立ち止まる。
「どうした?」
無意識の間に繋いでいた手を放してしまう。
「好きな、女の子のタイプ……とか……は?」
少女も気分が高揚していた。
悩みが解消された反動によって、普段では言えないような大胆なことを言えてしまった。
数歩先を歩いたのち、振り返って答えようとする。
「それはキ――」
それはキミだ。まだ名前が分からないためそう言うしかない。
そう、言おうとした。したのだが、途中まで言った時点で声が出なくなる。
右郎は恐怖した。
気づかぬうちに、少女に向かって改造された軽自動車が百二十キロを超える速度で突っ込んできていたのだ。
突っ込んできているのに、恐怖で身体が動かなかった。
――必ず助ける。
右郎は強い意思でそう思った。
それなのに身体が動いてくれない。
――動け動け動け動け! ああああああああ!――――ああぁ……。
右郎は少女を助けたいと言う意思よりも、自分が死にたくないという意思が強く出てしまい、身体が動かない。声も出ない。心の中で叫ぶ。
そもそも叫んでいるような時間はない。
アドレナリンの分泌によって体感時間が異様に長く感じているのである。
――キミィイイイイイイ!――――。
右郎の頭は情けなさと悔しさで埋め尽くされる。
――こんなにも助けたいのに、好きなのに、名前を叫ぶことができない! キミとしか、言えない……。
しかも心の中でしか言えていない。
――知らないから! 名前で呼べない――――。
そう、知らないから。
――知らないまま終わりたくない。
右郎の身体は動かない。声も出ない。
それでも、名前が知りたいと強く思う。
――教えてくれ、キミの名前。
だがそれは違う。間違えだろう。
このままだと、少女は軽自動車に轢かれて死亡してしまう。
それを助けるには、右郎が動く必要がある。
なのだが、やはり動けない。
――おれは……怖くて動けないんだ。
それでも、右郎は少女の名前が知りたい。
だが名前を知ったところで助けることにはつながらないのだ。
自己満足である。死ぬ前に名前を教えてくれなど、独りよがりな願望もいいところだ。
少女の名前を知りたがるのは、違うだろう。
知りたいことばかり考えている暇があるのならば、動いて助けることを考えた方がいい。
間違えであることは右郎も分かっている。
それでも、名前のことが頭から離れず、せめて代わりに、言えなかった自分の名前を少女に伝えようと考える。
「――――おれの名前は左門、左門右郎だ!」
右郎は腹の底から、十六年の人生で出したことのないような大声量で叫んだ。
――やっと言えた。
達成感に包まれる。
遅すぎるが、右郎は少女に名前を言うことができた。
「――なっ! 身体が、動く!」
名前を叫んだことで恐怖心が誤魔化され、なんと身体が動くようになったのだ。
「間に合えぇええええええ!」
右郎は迷わず少女に手を伸ばす。
――出会った時。おれは必ず、絶対的な意思も以てしてキミを救うと約束した。
その約束は、先ほどの髪染め問題で終わりではない。
「あの時に決めたことは、曲げない。絶対に――」
轢かれそうな少女との距離は、ほとんど離れていない。
手を伸ばせば繋げる距離だ。
始めから走ったりなどしているわけではなく、ただ手を伸ばすだけ。
問題になっていたのはその手が間に合うかどうかなのだ。
掴んで、抱き寄せる。それで助かる。
たったそれだけなのに、恐怖で動けなかったことで右郎は間に合いそうにない。
「あああああああああああ!」
絶望した、火事場の馬鹿力で思考速度が異常に上昇している中で、これは絶対に間に合わないと悟ってしまった。
それでも、絶対的な意思を以てして救うと。右郎は少女と約束したのだ。
絶望であっても手を伸ばし続ける。
「みぎろー! ワタシの名前は――」
右郎の必死で言った遅すぎる自己紹介。
しっかりと聞いていた少女が下の名前で右郎を呼ぶ。
――嬉しいな。
右郎は嬉しかった。自分の言った名前が聞こえていたんだなと。
少女は言いたくなかったはずの名を言おうとしている。
右郎にはそれが、死ぬ前に自分の心を全て使い切る気持ちで言おうとしているように見え、複雑な心境になる。
必死に言った右郎の自己紹介と同じで、少女の必死さは尋常ではない。
精神力をふんだんに使ったその声は、女子中学生から出るそれではなかった。
少女は文字どおり必死。必ず死ぬだろうと悟りながら声を出している。
「キミィイイイイイイ!」
右郎も再び叫んだ。手は届きそうにないが、叫んだ。
折角、少女が自己紹介をしてくれようとしているが、それを待っていると手遅れになりそうだ。
もはや論理的な意味はほとんど無いが、右郎はキミと叫ぶしかなかった。
右郎の叫びは、手は届かないが、最後までキミのことを見捨てないというアピール。そういうことになる。
キミと叫んだところで少女は救えない。
このアピールもまた、右郎の独りよがりである。
少女に軽自動車が触れる――。
その瞬間、右郎は目を離さなかった。
とても見ていられないものだが、まばたき一つする訳にはいかないと思ったのだ。
見ないことが、罪になる気がした。
法律的な罪ではなく、自分の心が決める罪だ。
だが、心が見るのを拒否したのか、一瞬だけ視覚を失ったかのように、右郎は世界が真っ暗闇に見えた。
聴覚も一瞬何も聞こえなくなり、完全な静寂となる。
「――佐藤逆瑠!」
少女が名乗っても、聞こえなかった。
「中一だよ! なんかキラキラネームっぽいんだけど? よろしくね!」
名前は聞こえなかったが、最後そんなことが聞こえた気がした。
(きっと気のせいだろう。そんなことまで喋れる余裕など、ありはしなかったのだから……)