第四五話 右郎の過去 その九 トイレットアクシデント
「マンキシ?……父さんもそんな名前言ってたな?」
五歳の頃、クァワウィーや那深嬉と初めて出会ったあの湖に、マンキシ・ライトフィールドも居た。
だが、右郎は思い出すことができない。
「それに、左野って言ったか? このヒダリトの施設で左野って……偶然とは思えない。お前は佐野先生と零くんの何だ? 血縁者なのか?」
佐野先生のことを伝えに、零を探している真っ最中に現れた新たな左野。
しかもこの騎士雄と言う男からは、ヘラヘラと気色の悪さだけを放っている左々木とはまた違った、危険な雰囲気を放っている様に、右郎は感じた。
「く……」
目の前の男が何なのか、右郎には解らないが、危険な気がし、ゆっくりと、熊と遭遇したかの様に、ゆっくりゆっくり――男から視線を外さぬ様にしならがら後ずさる。
「流石だな右郎君よ。殺意を込めた霊力――邪気を感じ取れるんだな」
「邪……気?……」
五歳の出来事を忘れている上、そう言ったことは右蔵の意思で隠されてきた。
一九歳の右郎ならいざ知らず、この頃の右郎は、霊力や邪気と言う単語を知らず、騎士雄の言うことが理解できない。
「何の、話をしている?」
物語なんかだと、こういう風に、謎の人物が謎の話をしてきた後、突然動機不明に主人公へ襲い掛かってきたりする。
右郎は高校一年生。色々な深夜アニメを鑑賞したり、バトル系のライトノベルを読破したりとしていた。
なので、
「……一応言っておくが、いきなり襲い掛かって来るなよな? ここにはおれの味方も居る――それを、ゆめゆめ理解しておいてくれよな?」
騎士雄に指を指しながら強気で右郎はそう言ってやった。
バトル系の物語で突然襲い掛かって来る敵キャラクター。
この騎士雄が、まさにそれなんじゃないかと思った右郎は、足に力を籠め、いつでも全力ダッシュで逃げられるよう、肉体と心の準備を整える。
全身の脈動が早くなり、右郎自身気が付いていないだろうが、走る準備段階であるこの時で既に、火事場の馬鹿力が発動している。
「――ふっ。ハッハハハ!」
右郎の警戒度が面白かったのか、騎士雄は目を見開き、大声を上げながら笑いだす。
「こいつ、やっぱヤバイ、おれを襲って来そうな雰囲気ッ!」
笑い方が悪役っぽいと勝手に思った右郎は怖くなり、全力で、後方(先程歩いて来た道)へと走って逃げだす。
――ヤバイヤバイ、アイツがなんなのかわからないけど、何となく、ヤバイ。
ヤバイヤバイとひたすらに思いながら走り続ける。
白色をした床に足が着く度、ダッダッダッダッダッ! と大きな足音がする。
あまり足に力が入っていない証拠である。これでは直ぐに疲れが出てしまうだろう。
「ちょおい。逃げるなよ」
騎士雄が余裕そうな声色で、そう一言言うと、直後、ビュンッと風を切る様な音がし出す。
――なんだこの音ッ!
一瞬何の音だか分からなかった右郎だが、振り返らずとも今の状況からして、騎士雄も走りだし、自身を追ってきているのだと理解した。
――いくら足が速いと言っても、こんな音するか?
騎士雄の出した風切り音は、例えるなら長い棒を素振りした時の様な音。その音が途切れることなく、寧ろどんどん右郎へ近付くにつれ、大きくなっていく。
短距離のアスリートであっても、流石にここまでのことは難しいだろう。
「この速度、あの左々木が着ていたなんちゃらスーツと同じ力だとしたら……逃げるの、無理そうだな…………」
左々木が零を投げ飛ばしたり、壁を凹ませたりしていた姿を間近で見ていた右郎からすると、それと同じ力で走られたら、一般的な男子高校生の体力で逃げられる訳がないと、そう思ってしまった。
右郎は諦めの気持ちが強くなっていった。
「このまま逃げ続けるのは無理があるな……」
走り始めてから百メートル程度。既に騎士雄は右郎の直ぐ後ろ――僅か三メートル程度しか離れていない。
このままだと、右郎は一秒程度で捕まってしまうだろう。いや、一秒も掛からないかもしれない。
騎士雄に捕まったら最後、何をされてしまうのかわからないと言う恐怖から、脳内にアドレナリンが大量分泌し、いつの間にか元々発動していた火事場の馬鹿力が更に強力なものへと変貌する。
これにより、思考速度や肉体の運動能力が数倍に上昇。
今の右郎には時間の進みがゆっくりに感じられている。
実際に時間を操っているのではなく、その様に、感じているのだ。
だが、そんな時間感覚の変化を、右郎は気にも留めない。
必死に考える。
――どうする! このままでは駄目だ! 追い付かれる!
火事場の馬鹿力が発動したからと言って、焦っていては策は思いつかない。
と、ここで右郎の目に、左側にある扉が留まった。
「これだッ!」
このまま直線に走っていても追い付かれることが確実ならば、部屋に入ってしまえば良いだろうと考えたのだ。
そうと決まれば、それ以上余計なことに思考を巡らすことをせず、激走とも疾走とも呼べるこの勢いを止めることなく、そのまま扉に手を掛ける。
この扉は右郎の眠っていた病室とは異なり、押し開けるタイプ。しかし一部屋に建付ける扉にしては妙に軽く、まるで誰でも気軽に入室できる風な造りだ。
右郎は妙に軽いことを不思議そうにするが、だがそんなこと気にしている暇もなく、部屋に入るや否や足を急停止させ、内側から扉を全体重を掛けて押し閉め、鍵を探す。
「え? ない……なんでぇッ!」
何故か、鍵が無かった。
本来なら鍵を掛け、騎士雄が入ってこられない様にするつもりだったのだが、何故かこの扉、鍵が付いてない。
先程の病室に付いていたのでてっきりどこも付いているのかと思ったのだろうが、考えが甘かった様だ。
「まずいまずいまずい!」
再び悩み始めるも、焦りから、この場を切り抜ける方法がまるで思いつかない。
このまま全体重で押し続けても、騎士雄の方が強いだろう。もしかすると扉を破壊してくるかもしれない。
と言うか破壊してきたとすると、そのまま右郎をも破壊されてしまうことだろう。
どうしようと思考をグルグルさせながら物理的に頭をグルグルと回していると、ピンク色の壁と、三つ程ある手洗い場、そして奥には個室が見えた。
「――そうか、ここは男子トイレだったんだな」
恐らく個室には鍵が付いていることだろう。
壁がピンク色なのと、小便器が見当たらず、個室が想像の二倍あることから、嫌な予感がする右郎だったが、その考えは捨てた。
トイレの個室如き、ヒダリトの製品を装備していると思われる騎士雄に掛かれば秒で破壊完了だろうが、もうそんなこと考える余裕もなく、右郎は一番手前にあった個室目掛けて猛ダッシュする。
ダッシュし始めると同時に騎士雄が飛び込んで来たのか、扉から、ズドォンと、壊れてしまいそうな悲鳴が聞こえてくる。
個室までは僅か一メートル程度。一秒も掛からず、開きっぱなしになっていた個室に飛び込むと、右手にムニッとした柔らかい感触がし、同時に『ひゃっ』と甲高い声が聞こえて来たが、構わず、勢い良く個室の扉を引いて閉め、スライド式の鍵を掛ける。
「ふぅ……これで一安心……」
安堵する様に、大きく息を吐く。
が、直後、右郎の直ぐ後ろから、焦っているような、感覚の狭まった呼吸音が聞こえてくる。
「――何が、一安心……ですか?」
「――ひゃっ!」
幽霊でも出たかと思ったのか、女の子かと思う様な甲高い声を上げる。
そして幽霊疑惑のある声の主は、とても怒った様な、しかし同時に呆れや動揺を思わせる声色をしていた。
「右郎……様。痴漢……ですか? わたくしに……」
「な、なみき……ネェちゃん?……」
ヤバイッ! そう焦りながら身体と声を震わせて後ろを振り向くと、
これからトイレでする本来の目的を果たそうとしていたのか、スカートの中に手を掛け、恥ずかしそうに、しかし若干嬉しそうにしながらも怒っている左倉那深嬉二五歳の姿が、そこ――洋式トイレの個室――にあった。
これまで地の文の中のカギカッコは「この様に台詞と同じ普通のカギカッコを使用していましたが」今回からは『この様な二重カギカッコで表現することにします』というのも、他の方の作品を読ませていただいた際に、『二重カギカッコ』で表現されていたので、今までの自分のやり方だと違和感がでてきてしまいました。
今までの表現方法に慣れていただいた読者さんには、逆に違和感を感じさせてしまうかもしれません。ごめんなさい。
今後も、『こっちの方が良いかもしれない』と言う様に思った表現方法は、変えていく可能性があります。多くの読者さんにとって読みやすい方が、読んで頂きやすいですからね。
感想等いただけると嬉しいです。




