第一二話 右郎の過去 その六 メモ用紙
「零さん。意識を失ってしまいましたか……」
零を取り押さえていた医師が不気味な声色で言う。
零への呼び方も「くん」から「さん」へと変化した。
「……なんで、零くんはあんなに怖がっていたんだ?」
少女に掌で頬を叩かれた零は、酷く怯えた。
右郎にはそれがどういうことなのか、理解することができなかった。
見当もつかなかった。
「ワタシも、なんであんなに怖がられたのか分からないよ……」
少女は許せない感情のままに叩いただけだった。
それで恐ろしいものを見るような目で恐怖されるのは、少女自身理解ができなかった。
「もうっ! ワタシみたいな美少女を怖がるなんて失礼だよね! コイツ!」
意識のない零を指さしながら言う。
「本当だよな! こんなに可愛いキミを恐れるなんて、餓鬼だな零くんは」
そして右郎は本気でそんなことを言った。
言ってしまった。
「え! あ、え? ええ……? えええええ!」
好きな人から可愛いと言われた少女は、照れすぎて言葉がでなかった。
「あ……ああああ! うっかりとんでもないことを……」
右郎は告白じみたことを言っていたことに気がつき、焦る。
とはいえ修正する必要はない。事実なのだから。
「イチャイチャしているところ失礼致します。私こういう者でして」
折角イチャイチャしているところに医師が割り込み、名刺を右郎に渡してくる。
「なんですかいきなり……これは!」
名刺を見て目を疑った。
「どうしたの? ヒダリー」
少女が気になり名刺を覗き見ようとするが――。
「いや、なんでもないよ。特に面白くもないよ! 見る価値ないね」
本人である医師の前で言うには非常に失礼であるが、失礼でもいい。右郎自身がどう失礼に思われようともこの名刺を少女に見せてはいけないと思った。
「ヒダリー。分かった」
右郎が不自然に隠そうとしていることに少女は気つく。
しかし不自然になるほど必死に隠そうとしていることにも気がついた。
気になるが、少女は右郎を信じている。隠す大きな理由が必ずあるのだと考え、見るのをやめた。
「この子に聞かせられない。何とかしろ」
右郎らしくもなく、医師に命令をした。
「ふふ。良いでしょう。そちらの少女は我が社の者が責任をもってご自宅までお送りしましょう」
「頼む。だがな、我が社とか怪しいこと言うんじゃないぞ!」
右郎は当たり前のように偉そうな態度をとる。
「キミ。今からこの病院の人が家まで送ってくれることになった」
突然のことで少女は多少困惑するも、右郎を信じている。
「ん。分かった。でもちょっと待って。紙とペン無い?」
右郎の言うことは簡単に了承した。
しかし最後にやりたいことがあり、紙とペンを要求する。
「おい。この子の頼みだ。用意しろ」
右郎が偉そうな態度で医師に紙とペンを要求する。
「それでしたら私のボールペンとメモ用紙を千切ってご使用ください」
そう言った医師が、一般的な市販のメモ帳の一ページをちぎったものと、黒ボールペンを少女に手渡そうとする。
「おい、お前がその子に触れるなよ」
感じの悪い態度で右郎が取り上げ、少女に渡す。
「ありがとうヒダリー!」
受け取ると満面の笑みを浮かべ、すぐさま壁にメモ用紙を押し当て「佐藤逆瑠」と書く。
「ヒダリー。これ、ワタシの名前だよ。今は見せられないけど、再開した時に読んでね!」
笑顔で言いながらメモを四つ折りにし、借りていたボールペンと一緒に渡す。
「……ありがとう」
右郎は嬉しくて、涙が出てくる。
「おれも、同じことをするよ。おい!」
またもや偉そうに医師へ、もう一枚のメモ用紙を要求する。
「千切って。ほいどうぞ。みぎろ――ご子息様」
うっかり名前を言いそうになりながら、医師がメモ用紙を一枚ちぎって右郎へ手渡す。
「おいその呼び方は、今はやめろ」
半分怒り気味にメモ用紙を受け取る。
医師の呼び方が少女に右郎の正体がバレる恐れがあったためだ。
因みに、軽自動車が突っ込んで来た際に右郎は名乗ったが、うやむやになり、少女はまだ右郎の名前を知らないという態度をとっている。
あの時、右郎の名前を聞こえた上でずっと知らないフリをしているのか、実は聞こえていなく、名前を呼ばれたのは右郎の気のせいだったのかは不明だ。
「全く。この医師は……」
医師がバレるような発言をしたことに呆れながらも、メモ用紙に「左門右郎」と書く。
「これは、おれの名前だ。今は見せられないが、再開した時、一緒に名前を見よう」
少女と同じく四つ折りにし、渡す。
「ヒダリー。約束だよ!」
受け取った少女は嬉しそうに、右郎に抱き着く。
「ああ。約束だ。名前も知らないキミとの」
「うん! 本名の知らないヒダリーとの」
右郎は抱き返す。
「本当はもっと可愛い紙に書きたかったんだけど……」
少女がそう不満を口にすると、医師はイラっとした顔をした。
だが二人にとって、医師の表情などどうでも良かった。
そして数分後。
「ふふ。お待たせ致しました」
なぜか少し嬉しそうにしながら、二十代ほどの女性看護師が近づいて来る。
「この者が車を出し、ご自宅までお送りします」
医師がこのやってきた看護師の役目を説明する。
「お久しぶりですね? 右郎様。ご婚約者様は責任を以てわたくしがお送りさせていただきます」
看護師が諸に名前を呼んでしまう。
「ちょっ! ネェちゃん名前言わないで!」
少女に名前を聞かれた。
互いに紙に名前を書いて……と言うことをやってすぐに名前がバレてしまうのは締まらなすぎる。
あそこまでやっておいてそれは恥ずかしすぎると右郎は思った。
「ヒダリー。何も聞いてないよ!」
少女はわざとらしく両手で耳を塞いでいた。
「よ、よかった……それなら」
看護師が右郎様と言った時、いきなりだった。耳を塞ぐ余裕など、どう考えてもありはしなかった。
それでも、少女が何も聞いていないというのなら、そうなのだろう。
(さりげなく言ったご婚約者。あれはただの勘違いだろう)
そう思い、右郎は聞かなかったことにした。
(ご婚約者ってなんだろう。気になるよ~。でも、聞かなかったことにしちゃったし、忘れるしかないよね)
そう、やはり少女は全て聞いていた。
聞いていたが、聞かなかったことにするということを、選んだ。
「あれ? お二人ともお忘れなんですかね? 左々木の野郎――左々木さん当時のこと何も言いませんし……車の中で聞いてみますか……それでは、行きましょう。キャワ――いえ今は左藤課長のところに居る佐藤さんなのでしたね」
ぶつぶつと独り言を言いながら、看護師は駐車場へ向かって歩き出す。
「え? なんで……ワタシの苗字?」
看護師に苗字を呼ばれ不思議に思う。
「ああキミ。あの……エセ看護師知り合いなんだけど、き、気にしないで――聞かなかったことにするから」
右郎は、医師が先に伝えていたと言えば良かったものの、気が動転して怪しい誤魔化し方になってしまった。
「わ、分かった……うん」
看護師に締まらなくされたが、少女は抱き着いていた右郎から離れ、数歩歩いた時点で振り返る。
「ヒダリー! またね!」
笑顔で大きく手を振った。
「またな。キミ、次は……名前で呼ぶよ」
右郎もそう言って大きく手を振り返す。
一〇秒ほど手を振りあい続けたのち、少女は看護師に着いて行った。
少女の姿が見えなくなるまで、右郎は少女から目を離さなかった。




