第一〇話 右郎の過去 その五 恐怖の囁き ビンタは、心に来るもの
重い衝突音がし、体が震える。
「せ……」
少女に突っ込んできた軽自動車は、止まることなく衝突してしまった。
「せんせぇえええええええ!」
佐野先生に。
右郎は意味が分からず叫ぶ。
「いやぁあああ!」
少女はパニックになっている。
衝突する寸前、いつ近くに来たのか、佐野先生が右郎よりも先に動き、少女に覆い被さっていた。
少女にも衝突時の衝撃が届いたが、外傷はなかった。
「いやだよ! なんでなんで! なんで!」
少女が泣き叫ぶが、佐野先生は何も言わない。
反応が一切ない。
「イチイチキュウ。だ……通報しないと!」
右郎は放心状態であったが、泣き叫ぶ少女と血を流して何も言わない佐野先生を見て、やるべきことをやらねばと思った。
スマートフォンを取り出す。
「ロックを解除……いや、この緊急通報の機能、これを使う!」
スマートフォンは緊急時ロックを解除せずとも通報をすることができる。
まさか使う日が来るとは思わなかった右郎だが、その機能で救急車を呼んだ。
幸い学校のそばだったため、住所を言うのには困らなかった。
「救急車を呼んだ。できることはやった。来るのを待つしかない……」
ただ茫然と立ち尽くし、救急車を待つ。
「わぁああああああ、ああああああ」
少女はひたすらに泣く。
自分を庇ったことで死にゆくのだ。
少女の心はぐちゃぐちゃになった。
「……」
右郎は目を閉じ、何も言わない。
目の前の光景がショッキングすぎて見ていられなかった。
右郎は少女が轢かれると思った時、見ないのは罪だと思った。
結局視覚を一瞬失い見ることができなったが、今の光景を見て理解した。
(恐怖のあまり、普通に目を閉じてしまったんだな……)
右郎は目を閉じ続ける。
少女の叫び声だけが聞こえる。
いつの間にか、空が分厚い雲に覆われていた。
右郎と少女を照らした雲に空いた穴も塞がり、太陽の光が届かなくなる。
右郎はそんなことに気付きはしない。
目を閉じているから。
何となく暗くなった感じはしたが、どうでも良かった。
そして間もなく雨が降り出す。
体に落ちた雫を冷たいと感じたが、それもどうでも良かった。
雨はすぐに激しくなってくるが、雨音は全て少女の泣き声にかき消される。
それから救急車が到着する。
右郎と少女は付き添いとして救急車に乗り込む。
「ああ、そうだ。寒かったよな」
全身がビショビショに濡れた少女に目を向け、風邪をひいてしまうと思い、自分のブレザーを脱ぎ少女に着せる。
そのブレザーも濡れているが、精神的に参っていた右郎はそこまで考えが回らなかった。
「ありが……と。ひだり……」
少女は声を震わせながらも、嬉しそうに両手で右郎の濡れているブレザーを抱きしめた。
ブレザーが濡れていても、少女は右郎が気を使ってくれたことが嬉しかったのだ。
そして右郎は、そのあとの記憶がなかった。
「ヒダリー。先生助かるよね?」
「……あ」
少女に話しかけられ、現実に引き戻される。
気がついたら、どこかの病院の手術室の前にある椅子に、少女と一緒に座っていた。
「母さん!」
血相書いた少年が走ってくる。
「……お前らか」
少年が右郎と少女を睨みつける。
「お前らが、母さんをこんな目に遭わせたのか!」
不安と怒りによって震えた声で言い、右郎の首に掴みかかる。
「この野郎! この野郎! こんの野郎がぁ!」
憎しみの涙を浮かべながら、殴りかかる寸前で医師に取り押さえられる。
「零くん! それは違う! 違うぞ! やめるんだ!」
少年の名前は佐野零。先生の、佐野零子の息子である。
「高校生のお前! お前がビビって動けなかったからだぞ! お前がその子を命をかけて助けてれば、母さんがこんなことにはなんなかったんだからな! 今からお前代わりに死ねぇ!」
零の心の中では完全に右郎が悪人であった。
憎しみの感情が溢れ出している。
(そんなこと言われても、おれだって自分で助けるつもりだったんだ)
つもりではダメなのだ。
実際に動くことはできなかったのだから。
いくら助けるつもりだったと言い続けても、零は激怒するだけだ。
零が相手でなくても、できなかったことに対して助けるつもりだったと言い続けることは認められないだろう。
それ故に右郎は誤魔化そうとはしなかった。
心の中では言い訳をし続けるが、口に出すのは――。
「ごめんなさい」
佐野先生から学んだ。自分の間違いを認めること。
間違いとは言っても零の言うことは横暴すぎる。
零の言ってきたことに対して謝ったのではない。
心の中で言い訳をし続けたことに対する佐野先生への謝罪である。
謝りはしたものの、きっと右郎はこれからも心の中で言い訳をし続けてしまうのだろう。
それでも今回のことで心を誤魔化し続ければ何も学べないのである。
また同じことを繰り返さないために、ケジメとして謝ったという意味合いが正直大きい。
そして、それはもちろん右郎の自己満足なのだった。
「へっ! ごめんなさいだと? ああ? 言葉だけで許されるとか思っちゃってんのかよぉ!」
零は感情のままに右郎の顔面を殴りつける。
「くっ!」
零の一撃は脳に響くように右郎には感じられた。
「全然……痛くないぞ」
強がりである。右郎はとても痛く感じ、あまりの衝撃に死ぬかとすら思った。
それでも物理的に痛いだけであり、精神的には耐えられる。
我慢することができる。
「零くん。君は、おれを殴りたいだけなんだ。怒りのあまり正しさが見えなくなっているんだ」
「ナニ! わけのわっかんねえこと言ってんだよ!」
ダメもとで零の説得を試みるも、やはりダメだった。
「死ねぇ!」
声を荒らげながら両手で右郎の首を絞めつける。
「ぐ、ぐが。ああ……」
零は鬼の形相であった。
――もう何を言っても無駄だな……。
右郎は匙を投げた。零くんはもうダメであると。
「ひだりー……」
不安に思いながら、少女は泣きそうな顔で右郎にしがみついている。
「やめなさい零くん!」
そう叱るように言いながら、医師が零を取り押さえる。
「邪魔だぁ! カスが!」
荒々しい声を上げながら思いっ切り睨みつける。
「少年の睨みつけに屈するとでも思ったかい? 私も嘗められたものだな!」
医師は自信溢れる表情で零の腕を掴み、右郎から放す。
「があ……う……はあ……はあ……はあ……」
零の手が放され呼吸ができるようになるが、すぐには整わず、荒い呼吸が続く。
「ヒダリー!」
元々右郎にしがみついていた少女だったが、しがみつく力が強くなる。
「キミ……大丈夫だったか?」
零が少女に危害を加えた様子はなかったが、念のため確認をする。
「あっはは。はあっははははははははは!」
零が突然高笑いをする。
「キミとか呼んじゃってんの? 名前知らねぇの? 名前も知らない年下の女をそんな手名付けてるとかロリータコンプレックスかてめぇ! あひゃひゃあひゃああああ! ひゃひゃっひゃぁあああ!」
目を大きく開き、右郎と少女に指を差しながら馬鹿にするように笑う。
「……」
右郎はあまりに馬鹿な煽りだと思い、無視をした。
「こら! 零くん、君は本当に……」
医師は完全に呆れた。
「黙って……」
しかし、ただ一人。少女の心は動き、涙を流した。
「どうした? あんなの無視していいだからな」
右郎は心配する。
「すぐ、戻るから……」
震えた声でそう言いながら右郎から離れ、零へ真っすぐ向かって行く。
「ダメだ! 零くんに近づくな!」
少女を引き留めようとするが、止まってくれない。
「零くん! その子に何かしたらおれ、お前に何するか分かんねえからな!」
零に釘を刺した。少女が何をするつもりかは分からないが、零が少女に何かしようものなら、右郎は容赦なく殴りかかるだろう。
「おい女ァ! お前一人でこの零を攻撃するつもりかぁ?」
「……」
『パァアアアン!』
大きな音が鳴った。
零が少女を煽ったあと、少女は何も言わずに零の頬を掌で叩きつけたのだ。
いわゆるビンタである。
叩きつけた際の音が廊下中に響き渡る。
「え? え? あ……あ……」
零は涙を流した。
「「え?」」
右郎と医師は同時に驚く。
そして理解ができなった。
零本人も理解ができなかった。
なぜこんな少女のビンタ一つで涙を流すのか……分からなかった。
「……さっき、ヒダリーお兄ちゃんに死ね死ね言ってたよね? 言ってた……よね?」
無表情のまま零の目を、まばたき一つせず凝視しながら言う。
「……い、言いま……した……」
なぜか少女に逆らうことができない。
「な……ん、で?」
零はガタガタと震える。少女にひたすら恐怖する。
「なんでだ! なんでだ! この女、こんなに強いならなんであんなに僕に怯えてたんだよ! あの、怯えていたこの女はどこへ行った!」
混乱している中、少女は零の耳元へ顔を移動させて囁く。
「……あなたが死ね」
それを聞いた瞬間、零は全身からゾクゾクと震えあがる。
「ひっ! いや、ああ! いやふぁぁああああああああ! ふぉふぁああああああ!」
そう叫んだのち、零の意識は途絶えた。




