【女暫定勇者】
ハナちゃん、と呼ばれた女の子はフロアの中央にあるリングに上がると、ストレッチを始めた。
その姿は勇者というよりは、優雅に舞う準備をするバレリーナのように見えるが、どこか近寄りがたい鋭い雰囲気がある。
「おい、誠。私の計算通りだぞ」
準備運動する僕の後ろでセレッソが囁いた。
「あの女がアミレーンスクールの現女子暫定勇者、綿谷華だ。戦績は、十三試合十一勝一敗一分け。国内最強の女勇者になるだろうと期待が集まる、今最も注目されている戦士の一人だ。毎朝、ここで練習しているという情報を掴んでいたから、上手く行けば戦えると思っていたが、まさか一発で本命を引くとは」
どうやら、めちゃくちゃ強い女勇者らしいが、確かにそのその肉体は引き締まっている…という表現では足りないだろう。
何と言うか、ゴリラのようにごっついわけではなく、密度の高いしなやかな筋肉を無駄なくまとっている、といった感じだ。
「おい、セレッソ。あの子、めちゃくちゃ強そうだけど、本当に僕が勝てるのか?」
「勝たないと困る。勝て」
……おかしい。いつもなら、無敵の勇者になる男だからどうとか言って、おだてるくせに。
不安を抱きながら、用意されたグローブを手にはめた。両手は指が開くようになっているグローブで、厚みもほとんどない。これでは直に拳で殴るのと、あまり変わらないのでは……?
「じゃあ、神崎くん。リングに上がって」
下畑さんが入りやすいよう、リングを囲うロープを持ち上げてくれたが、それを引き止める人物が現れた。
「下畑さん、いいんですか? 彼、どう見ても素人ですよ」
冴えない三十代のサラリーマン、といった感じの男性が忠告する。が、下畑さんは爽やかな笑顔を見せた。
「大丈夫ですよ、三枝木さん。ハナちゃんはあれで手加減上手ですから。彼女の防衛戦も近付いているし、ちょうどいい練習にもなるでしょう」
「だけど、ハナちゃんは現役の暫定勇者ですよ? 素人の相手になるわけがないじゃないですか」
「だったら、本人が辞退すればいいだけです。暫定勇者の強さを知らない人間がこの国にいるわけがないのですから。ねぇ、神崎くん。暫定勇者が相手でも、問題はないですよね?」
どう答えれば良いのか、僕が迷っていると、サラリーマン風の男は余計に心配になったのか、下畑さんに提案した。
「やはり無理がありますよ、下畑さん。別の相手を用意しましょう。」
「宗次、大丈夫だ。あの男はやれる」
サラリーマン風の男の反論を止めたのは、セレッソだった。彼は三枝木という名前らしいが、セレッソは宗次と呼んだ。下の名前を知っていると言うことは、顔見知りだったのだろうか。
「まさか、貴方は……」と三枝木さんは呟く。
「さぁ、神崎くん。入って入って」
三枝木さんが躊躇っている間、下畑さんが僕を促すが、本当に大丈夫だろうか。さすがに少し心配になる。
「ほら、誠。行くんだ。昨日、大勢の前でモンスターを圧倒したのは誰だ」
セレッソの一声。
「そうだったな。僕は最強の勇者になる男だ。女の子相手にびびっていられないぜ」
僕はリングに入り、女勇者…ハナちゃんと向かい合った。リングポストに寄りかかる彼女は、口元に微笑みを浮かべているものの、その視線は鋭く、次の瞬間には噛みつかれるのではないか、と思えてしまう。
「どうせ逃げ出すだろうと思ったが、やるのか。お前、なかなか勇気あるじゃんか。歳はいくつ?」
ハナちゃんが気軽な感じで声をかけてきた。
「えっと、十七だけど」
「私のひとつ下か。あまり鍛えてないように見えるけど、何で道場破りなんてしようと思ったんだよ」
けっこう、ぐいぐいくる系の女子だ。高校に入ったばかりのときは、こういうギャル系の子に声をかけられることが一度か二度あったけど、まったく上手く話せなかった記憶を思い出してしまう。とにかく、返事をしなければ。
「一応、勇者を目指してて……」
「……一応? 大した気持ちもないくせに、勇者になれると思ってんのか? 一日、何時間練習しているんだ?」
「練習……? したことないけど」
ハナちゃんが口元に浮かべていた笑顔が消える。目付きはまるで変わらなかったはずなのに、その鋭さを改めて気づくことになった。
「ふーん。お前みたいな勘違いに喧嘩売られんの、久しぶりだわ。マジで」
彼女はリングポストから離れると、少しばかり前に出た。
「ランカーに入ると、そういう勘違い雑魚は寄り付かなくなるからな。カスを殴れるってだけで、ちょっと楽しみかも」
ここまで馬鹿にされると僕の方も腹を立ってくる。一言くらい返してやるか。
「ハナちゃん、ちょっと強いくらいであまり調子に乗らない方がいいよ。スクールなんて狭い世界で天下取ったくらいじゃ、社会に出た後で後悔するからね」
社会に出たことがないやつが言うことではないが、ハナちゃんの目付きを見る限り、挑発は成功したらしい。
「おい、雑魚。私のことをハナちゃんとか呼べるのは、私が強いと認めたやつだけだ」
「じゃあ、ハナちゃんでいいか。どうせ、五分後には認めてもらえるわけだし」
得意気に返す僕に対し、ハナちゃんは口も閉ざすと、赤い髪の毛をひとまとめにして、頭の上でお団子を作った。どうやら、もう会話の必要はないと判断したらしい。
「それじゃあ、始めようか」
いつの間にか、下畑さんがリングの中に入っていた。
「ルールは金的と後頭部への打撃はなし。時間制限もなしで、一本かノックアウト、ギブアップがあったら終了。これでいいかな?」
どうやら、下畑さんがレフェリー役をやってくれるようだ。
「お願いします」と僕は頷く。
「それじゃあ、グローブタッチして」と下畑さん。
ポンと、お互いのグローブを合わせて、ハナちゃんがリングポストまで後退したので、僕もそれに倣った。
「それでは、始め!」
ついに始まってしまった。
でも、できれば女の子を殴りたくはない、というのが本心だ。
どうしよう。
そうだな、彼女のパンチを避ける。
避けて避けて、
彼女がバテから頃に、一発ぽーんっと当ててやればいいか。
さっき、宣言した五分過ぎる手前がいいかもしれない。うん、それがジェントルかつ強い男の態度と言うものだ。
「くらいな、雑魚が」と正面から声が。
頭の中で作戦を立てている間に、ハナちゃんが目の前まで迫っていた。
しかし、慌てることはない。僕はモンスターの一撃だって余裕で躱せたのだから……。
と思っている間に、鼻先を何かがかすめた。
何が起こったのか、理解ができなかったが、遅れて痛みが。鼻の奥から、どろっと液体が流れる感覚の後、ぼたりと赤い塊がマットの上に落ちた。
鼻を殴られたのだ。
血が、血が出ている。
「てめぇ、避けてるじゃねぇよ。鼻をぶち折ってやるはずだったのによ」とハナちゃんが言った。
避けた?
僕は避けていたのだろうか。
確かに、ハナちゃんの肩が動いた瞬間、反射的に身を反らしていた、ような気がする。でも、それは殆ど運だ。偶然、体が動いてくれていただけ。それがなかったら、彼女が言う通り、僕の鼻は折れていたのかもしれない。
「なんだ、びびっちまったか?」
ハナちゃんがあの獰猛な笑顔を見せた。
やばい。これ、勝てる気がしないけど……本当に大丈夫なのか?
「ハナちゃんかっこいい!」「誠、大丈夫か?」と思ったら
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