【やっぱできませんでした】
「それでは、始め!」
お互いがはめている薄いグローブをタッチし合い、間合いを取った。
ハナちゃんは左半身を前にした構えを取り、僕の動きをしっかり見ているみたいだった。
前回みたいに、
急に殴り掛かってきてくれたら、どれだけ楽なことか、と考えるが、彼女は慎重だ。
僕は真っ直ぐ立って、
ハナちゃんが距離を詰めてくれるまで待った。
ハナちゃんは細かいフェイント見せながらゆっくりと前進し、一歩半程度の位置まで近づいてくる。
三枝木さんは言った。
ハナちゃんは絶対打撃できます、と。
これでタックルにこられたら、
僕は寝かされた上、パンチを雨のように落とされ、
何も抵抗できず気を失うことだろう。
しかし、そんな想像は一切捨てる。
ただ、一発のパンチを待ち、それにカウンターを合わせるだけだ。
ハナちゃんが様子を窺うような、小さなパンチを突き出した。この距離からして、当たることはない攻撃だ。恐らくは僕の反応を見ているのだろう。
そのパンチに対し、僕は一切反応しなかった。反撃するような動きも、躱すような素振りも、一切見せず、動かずにいた。それを見てハナちゃんはどのように判断するのか……。
ハナちゃんはさらに半歩近付く。
これで、お互いのパンチが十分届く距離に。
僕はそれでも動かない。
心理的に動じていないわけではない。
いつくるか分からないパンチが怖くないわけでもない。
少しでも気を緩めたら、逃げ出してしまいそうだ。
でも、少しでも怖がって目を逸らしてしまったら、
次の瞬間は気を失っていることだってあり得るだろう。
ここは、絶対に逃げられない。逃げるわけにはいかないんだ。
突然、ハナちゃんが動いた。
右の拳を振り回すようなパンチ。
僕は身を低くしてそれを躱してみせたが、反撃の余裕はなく、距離を取るしかなかった。
ちくしょう。
真っ直ぐなパンチをイメージしていたせいで、避けるので精一杯だった。あれでしっかり反撃できていたら……。
後悔する間もなく、ハナちゃんが距離を詰めてきた。
さっきと同じ、一歩分の距離。
ハナちゃんが小刻みに肩を動かすフェイントを見せる。
素人相手にそんなフェイントを使うなんて!
そんな動揺を抱いた瞬間、再び動きが。
左の拳を突き出した、と思ったら、
奥から右の拳が伸びてきた。
僕は左側に踏み出しつつ、右の拳を突き出す。
ハナちゃんの拳と交差するように、
僕の拳がハナちゃんの顎を襲う――はずだった。
しかし、手応えが一切ない。
ハナちゃんはギリギリのところで顔を逸らして、僕のパンチを躱したのだ。
「神崎くん、離れて! ボディがくる!」
三枝木さんの声。
そうだ、驚いている暇はない。
僕はすぐさま距離を取って、ハナちゃんの射程から抜け出すと、彼女の舌打ちが聞こえたような気がした。
遅れて恐怖心が腹の中で暴れ回った。
もう少し遅かったら、あのときの二の舞。
言い訳ができない、なんてレベルではないだろう。
そして、これからも似たような攻防が続いてしまったら、経験で劣る僕は不利だ。これ以上、無駄な動きは見せられない。
じりじりとハナちゃんが詰め寄ってきて、すぐにパンチが当たる距離になった。
ハナちゃんが上半身を揺するように、
右へ左へ動き、次の攻撃の伏線を張ってくる。
その上、拳を上下に振るような動きも見せ、ますます本命のタイミングが分からなくなった。
と、思った瞬間、
ハナちゃんがピタリと動きを止めた。
一秒、二秒、三秒。嫌な時間が続き、それがやってきた。
前手の左拳が飛ぶ出すように放たれる。
今まで強いパンチは右だったのに!
それでも、僕は反射的に体を横に捻って避けることに成功した。そして、お返しと言わんばかりに右の拳を振り回す。
ジャストのタイミングだ。
その証拠に、ハナちゃんの表情に焦りが見えていた。彼女のこめかみ付近に吸い込まれる僕の拳。
そして、確かな手応えが。
ハナちゃんがふらふらと後ろへ二歩下がった。
くそ! かすっただけで、直撃ではない!
「神崎くん、追撃!」と三枝木さんの言葉。
僕はすぐに距離を詰めて、最後の一撃を放とうとした。
しかし、ハナちゃんの姿が消える。
彼女の次の動きを目で追う余裕はない。それだけ彼女のスピードは速かったし、目で追うことで時間を使っていたら、瞬く間に僕は倒されてしまうだろう。
だから、僕は彼女が消えたと認識した瞬間、
何度も練習した、膝蹴りを放った。
ガツン、と膝に衝撃が。
それに一瞬遅れて、ハナちゃんの姿が視界に戻ってきた。
「良いですか、神崎くん。格闘戦は繰り返しの練習が重要です」
練習中、三枝木さんは何度もそう言った。
「練習で同じ動きを何度も繰り返したからこそ、いざというときに技が出るのです。敵がこういう動きを見せたら、あの攻撃。こういう攻撃がきたら、こんな防御を。そういう動きは練習しなければ、咄嗟に出ない。ハナちゃんが隙を見せた瞬間、そこに一撃を刺せるかどうかは、練習次第です。ただし」
三枝木さんは指を一本立てた。
「それは弱点にもなり得ます。練習してきたからこそ、ピンチになったとき、何度も繰り返した動きで凌ごうとしてしまいます。ハナちゃんの場合はどうでしょう。もし、強烈なパンチを受けて、倒れそうになったら、何をすると思います?」
それは一ヵ月前と同じ。
僕の腰に組み付いて、投げて倒そうとするはずだ。そのためには、腰を落として抱き着いてくる。
その迎撃には、膝蹴りが最適だった。
組み付こうと姿勢を低くしたところ、僕の膝を受けたハナちゃんが、またも覚束ない足取りで後退していた。
行ける!
僕は前に出て、
思いっ切り拳を前に突き出そうとした。
出そうとしたのだが、
そのとき、僕は見てしまった。
最後の一撃を出そうとする僕を見て、青ざめるハナちゃんの顔を。
「や、やっぱ無理ーーー!」
叫びつつ、僕は拳を止めていた。
「駄目だ。女の子を殴るなんて、やったことないし、僕にはできない!」
それは、急に正気を取り戻した瞬間だった。
だって僕は、今までまともに暴力を振ったことがない。
そんなやつが、女の子の顔を殴れるわけないだろう!
「あぶねー、何やろうとしていたんだ、僕は」
あと少しで取り返しのつかないことをしてしまうところだった、と両手で頭を抑える。
しかし、そんな僕の正面で、膨大な怒りが膨れ上がっていた。
「ふ・ざ・け・る・なーーー!」
もちろん、ハナちゃんの怒りだ。
彼女は僕の腰に手を回したかと思うと、軽々と持ち上げ、僕をマットに叩き付けた。
「がはっ!」と、衝撃で体中の空気がすべて飛び出してしまったような音が出た。
あまりの衝撃に、目が白黒する。
これでは立てそうにない。
立てたとしても、ハナちゃんのパンチを避けるなんて、絶対に無理だ。
やっぱ、ハナちゃんは強すぎる。
三枝木さんや練習を手伝ってくれたクラムのみんな、セレッソには悪いが、僕の負けみたいだ。
嗚呼、ハナちゃんとのファーストキス。
一生の思い出になるような、美少女とのキスは、泡のように消えてしまった……。
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