第30話 ちゃんと事務員をやる
初日の晩は大人しく3階の部屋に引き上げ、そのまま明日の初仕事の為に休むことにした。
この身体になって「ありがたい」と思うことが一つある。この身体は歯を磨く必要も無いし、身体を洗う必要というのも無い。
身体はおよその物を表面から吸収するし垢は出ない。
歯については、全部をネロッと細かい隙間まで撫でてやれば食べカスも残らないというわけだ。
文字を読んだり、外見の確認の必要が無ければ夜の灯りも必要ないから、ランタンについては油の節約の為にすぐに消した。
マスクから服まで全部を脱いで、それは寝床の上に広げて乗せると適当に布団を被せる。これで寝てる風を装って、本体の私は寝床の下の空間に荷物と一緒に平たくなることにした。
ここの客たちは、泥棒や強盗などのセコい真似はしないと思うが念の為である。
この身体になってから、自分が本当に寝ているかどうかが定かではない。ただ動かず、思考も停止しているだけという感じもするのだ。何かの外部刺激だけですぐに行動に移ることが何度かあった。
それでも休息が取れる時に取っておいた方が良いだろう。急に眠くなったりしたらことだ。
静かに明日のことを考えて、いつの間にかそれを止めたと思ったら翌日になっていた。
「よく休んだという気はする。今はどんな時間だ?〔ゴボゴボ〕」
思わず独り言が漏れたが、同時に外では「ゴーン」というカネの音が3回鳴った。ということは3刻(朝6時)だ。
約束の出勤時間までにはまだ1刻(約2時間)ある。
身支度は整えていつでも動ける様にだけはしておこう。
肉仮面をかぶる。皮膚を模した手袋と足袋を着ける。茶色い靴下を履く(余分に作っておいたのだ……本当に)。
茶色い上下の服にブーツと金属繊維の灰色のコートを着る。もうフードは絶対に必要というわけではない。
金属繊維の手袋の方は、荒事の現場でもないのでしまっておく。腰に『爪のナイフ』を鞘ごとベルトで固定すれば完成だ。凄い簡単だ。
まだ早朝の部類に入るとは思うのだが、荷物を全部持って階下に降りてみると朝食の準備が始まるところらしかった。
「早いなツライオ。確か4刻じゃなかったか、役所は」
「おはようご主人。朝は取らずに少し界隈を散歩してから役所に行ってくるよ〔ゴボゴボ〕」
そんな感じで挨拶を交わし、そのまま近所の地図を片手に通りの方へと道を辿る。
周辺を見ると、昼間だけ出していると思われる屋台が結構あることに気がついた。逆に夜だけの屋台というのもあるのだろう。
煮物よりは焼いて出す物の方が多い。この時間は酒を出すところはさすがに無いようだ。手頃に見えるので、薄いパンに鳥の肉を挟んである物を購入してみるとしよう。
「おはよう、これを一つ貰えないか〔ゴボゴボ〕」
「うわぁ! アンタ何なんだ!」
いかにもな西方者という茶色いヒゲの亭主なのだが、ケンカ慣れしていそうなゴツい顔を歪めてエプロンの裾を掴みながら大声を出した。
「戦で喉をやられてこんな声なのだ。今日から役所で事務をやることになった。ツライオという。流しの魔法使いだ〔ゴボゴボ〕」
ほとんど翻らない重い金属繊維コートを着て、2アーム(≒m)も身長がある上に声が酷いとくれば誰でも驚くだろうな。ここは穏便に自己紹介から入った。
「そうなのかい。ここには来たばっかりで? これどうぞ。10デネイだよ」
「カネはここに置くよ。ありがとう。来たばかりだ。元は東方の者だ〔ゴボゴボ〕」
そう言って屋台の台の上に大銅貨を1枚置いた。
「こりゃどうも。向こうじゃ2年前に蛮族どもが攻めて来たって言うじゃねえか……旦那もそん時に?」
「似たようなもんだ。これは何の肉なのだ? 旨いが鳥とは少し違うな〔ゴボゴボ〕」
屋台の亭主からもらったパンをかじる。結構いけるが何となく何処かで食べた気がする。
そしてワラの様にガサガサした不思議な紙の様な葉で包んであった。葉は小さな穴だらけで薄茶色いが、何かを包むには便利かもしれない。
「これはこの街の地下にいる動物さ。ウロコ駄犬ってんだが、多分だけどトカゲの仲間だと思うね!」
何てことだ! 生で食うよりはよほど旨いのだが、まさかのウロコ駄犬さんである。ウロコサンド〔※〕ってことか。
〔※異世界の御方である帝国初代皇帝ドマイケル陛下は、何かを挟んだパンについては全部を『~サンドである』と仰られた。以来1500年もの伝統というヤツである〕
「旨かった。また来る。この辺は昼までやっているのかな?〔ゴボゴボ〕」
「ご贔屓に願いますよ。この辺のは昼よりもちょっと後までだね。夜は酒を出す屋台が来るけど多くはないよ」
「分かった。ではな……〔ゴボゴボ〕」
この界隈は非常に治安が良いらしい、ということは分かった。通りには揃いの制服らしきものを着た夜警と思われる者や、重いであろう金属鎧に身を固めた騎士などがチラホラと見える。
半刻(約1時間)が経つと、鐘が鳴って最後にブオーという笛が鳴らされる。
「もう半刻で仕事の時間だな。少し早いが行ってみるか〔ゴボボ〕」
初日のことであるし、役所が開いていれば中で待つつもりで早めに顔を出すことにした。
幸いにして役所はもう開いていた。業務はまだこれからであるはずだ。
「ツライオさん……ですよね? おはようございます。早いんですね」
ナミーモリー女史はもう来ていた。彼女も早いな。
「おはようございます。実はシヴィン先生のところで一番高い毛生え薬を試したのですよ。で何とかフサフサになりました〔ゴボゴボ〕」
朝の挨拶を返した時には、他にも何人か来ていた職員たちがギョッとした顔をしたが、すぐに「なるほど」という顔になってそれぞれの仕事に戻った。私の話は既に伝わっているらしいな。
それでも職員一同に挨拶をした時にはやっぱり引かれた。
早めに来たので、仕事の説明を受けてすぐに業務は開始された。
ここは税金で運営されているので当然ながら出ていくカネの方が多い。
午前中は『修繕費用の見積もり』『狩人への報酬の週の合計』の確認や『肉や素材の買い取り価格と合計』『肥料土の今月の販売額』の書類を作って終わった。基本的には、上下水やその他の設備を維持していく仕事だ。
その日は昼までずっと簡素な木製机と椅子に囲まれ、フード付きコートと荷物は別室の『荷物入れ』に突っ込んで、私はペンで紙の書類と格闘したのだった。
木炭筆〔エンピツの様な物。食べるとお腹を壊すが死にはしない〕で下書きをやれるのがむしろありがたい。
そんな風に過ごしていたら、やいのやいの言いながら数十人の狩人が役所へやって来た。全員機嫌が悪そうだ。




