立場
オルガ・デヴィンの青い眼は、先程から彌太郎の魔力を観測しようと試みていた。
事務所にエヴァと共に入ってきた彌太郎から、ほとんど魔力を感じなかった為に、てっきり〝持たぬ者〟だと思ったが実際は異なっていた。
エヴァの口から出てきたのは〝副支部長を任せる〟という言葉だった。このことは、ギルド『宿り木』における支部長クラスに就く者の条件から、彌太郎が帰還者である事を言わずもがな示していた。
「オルガちゃん、それは新人君もとい新副支部長に向ける眼じゃないんじゃないかな?」
「風神さん、アレどう思う? よくよく注意深く覗かないと、持たぬ者と間違えるくらいの魔力しか感じないんだけど」
声をかけてきた風神 永新の方には振り向きもせず、今もエヴァとルーカの前で一月と騒ぎ立てている彌太郎を観ながら、オルガは言葉を返した。
怪訝な表情をしながらも、頭を小刻みに揺らし、エヴァに負けず劣らずの美しい黄金色の髪を揺らしているオルガを見て、風神は満月のように丸いレンズの眼鏡を手に取り、眼鏡拭きでレンズを磨きながら、オルガと同じく彌太郎を見て楽しそうに微笑んだ。
「どうだろうね。確かに彼の身体が纏う魔力は、眼を凝らしてやっと感じるほどに脆弱だが……私の勘は、彼は〝楽しそう〟だと言っているがね」
「風神さん……今年で何歳になったの?」
「六十六だが、何かな?」
「はぁ……いつまで戦闘狂のつもりなの? 顔が物凄く楽しそうに嗤っているけど、アレって風神さんの勘が働く程のモノ? 今の所、どこにでもいそうなただのガキって感じだけど」
彌太郎を観ながら、獰猛に嗤う風神に対して半ば呆れていたが、オルガもまた実は風神が彌太郎に抱いた雰囲気を感じていた。
「そんなこと言いながら、オルガちゃんの頭も犬の尻尾みたいに楽しそうに揺れてるよ」
「犬の尻尾⁉︎」
無意識に揺らしていた頭を風神に指摘され、オルガはおもわず赤面してしまっていた。その様子に風神は更に楽しそうに笑うが、眼はいつまでも鋭く彌太郎を見つめていた。
一月に喧しく絡まれている彌太郎だったが、オルガと風神に観察されていることは分かっており、二人から挑戦的な視線を向けられていることにも気づいていた。
あの手の眼は、戦うことを楽しいと感じる人種であることも彌太郎は知っていた。
ある種の面倒臭さを二人に感じながらも、もう一方の二人組に目線を向けた。
彌太郎と同じ歳くらいに見え、どこかの制服を着ている少女は、胸のあたりまで伸びる黒髪を指で弄りながら、酷い隈を作っている目を、まっすぐ彌太郎に向けていた。
そしてその少女に親しげに話しかけている男は、濃い黒色のレンズのサングラスをかけており、一見しただけでは彌太郎に目線を向けているかどうかは分からなかった。
「ねぇねぇ、千乃ちゃぁん。お肌のケアによく効くって噂のクリームが手にはいったんだけど、買わない? 千乃ちゃんの頑固な目の隈も、綺麗さっぱり消えるかもしれないこのクリームは、今なら何と定価一万円のところを友達紹介価格で、三千円でオッケー!」
「……」
「はい! 毎度お馴染みのスルー出た! 女子高生に完全無視されると、オジサン泣いちゃうなぁ」
軽薄そうな笑顔で十三 千乃に話しかけ続ける花ヶ前 桔平は、扇子を仰ぎながら楽しそうに返事の貰えない相手をかまっていた。しかしいつもながら千乃が花ヶ前に言葉を返すどころか、反応を返すことはなかった。
千乃がまともな会話が出来るのは、エヴァのみであり、彼女は一月とは異なる意味での、狂信者であったからだ。
「千乃ちゃん、あの新入り君が気になるかい? そりゃ気になるよねぇ。だって千乃ちゃんの神様が直々に選んだ、謂わば眷属だものねぇ」
「エヴァ様の……眷……属⁉︎」
彌太郎を凝視し花ヶ前の言葉に反応しなかった千乃だが、『眷属』という言葉を聞いた途端、一度驚愕の表情を花ヶ前に向けたと思ったら、すぐさま彌太郎に視線を移した。
その様子を見て花ヶ前は声を押し殺しながらも、腹を抱えて笑っていた。対照的に千乃は親指の爪を噛みながら思考し始めると、狂気を孕んだ声で呟き始めた。
「あの男がエヴァ様の眷属? 殆ど魔力を感じないのは何故? エヴァ様に取り入っただけの雑魚? いや、そんなことあるはずが無いじゃない。エヴァ様が間違いを犯すなど、絶対にありえないのだから。それにエヴァ様がギルドの幹部に取り立てたという事は、間違いなく彼は帰還者である筈よ。であるならば、魔力を隠す術を今も行使している? それは何故? 態々ギルメンを集めた上でエヴァ様が直々にサプライズ的に紹介してくださったのよ? 寧ろ全力で魔力でも何でも解放して、自らの力をみせつけるべきじゃないの? そうしないと、エヴァ様が恥をかいてしまうかもしれないじゃない。わざと? わざと隠してエヴァ様に恥を……殺す? 殺しちゃう? 呪い殺してしまえばいい? でも待って、待つのよ千乃。エヴァ様がそんなクソ雑魚ゾウリムシと、自分の右腕以上の存在であることの証明と言える『主従の契り』をかわすの? ギルド本部、日本支部、英国支部にいる支部長達を差し置いてよ? という事は、彼は理由があって実力を隠している? もしくは出せない理由もしくは何かしら条件があるということ。でなければ、エヴァ様が契りを交わすわけないもの。そしてその理由はエヴァ様のご指示であるに違いないわ。そうよ、私が考える必要なんてないのよ。全てはエヴァ様の御心のままに、この世界は動いていくのだから。彌太郎様は、エヴァ様唯一の使徒なのだから。理解したわ。あぁ、私は理解したの。だから、今なすべきことは……エヴァ様、そして彌太郎様の敵は、私の敵!」
千乃は最終的に彌太郎が女神の使徒であると結論づけるや否や、右手の中指と人差し指を伸ばし刀の印を結ぶと、空中に四縦五横の格子を描き始めた。
「臨める兵、闘う者……」
事務所内で突如として高まる魔力に、千乃と花ヶ前とエヴァ以外の者は虚をつかれた。
流石にこの場で、誰かがいきなり戦闘行為を始めるとは思っていなかったのだ。煽った本人である花ヶ前は別として、エヴァが千乃の行動に驚かなかったのは、こうなるかもしれないと予め予測していたことも大きい。
かつて全てを失い彷徨い、追っ手からの逃避行の果てに闇に染まってしまっていた千乃の心は、エヴァによって拾い上げられた。
千乃にとってエヴァとは、神として狂信するに値する人物であり、千乃がそのように考えている事はエヴァ自身も分かっている。
だからこそ、この展開は容易に想像できる展開であり、千乃の中での彌太郎の存在定義もそうなるだろうと思っていた。その結果、千乃が取った行動に対する、エヴァの反応は素早かった。
「皆、陣列べて、前に在はべし⁉︎」
九字を唱える千乃が突然床に突っ伏し、場を支配した突然の緊張感が同時に霧散していた。
明らかに目を回して気絶している様に見える千乃の元へと歩き出すエヴァを、彌太郎は黙って見送りながら嘆息を吐いていた。そして一月の方に、確認するべく顔を向けたのだった。
「なぁ、いつも此処はこんな感じなのか?」
「そんなわけ……ないだろう」
先程まで、闘犬のように自分に吠え掛かっていた一月が、この現状に本気で驚いている様子を見ると、彌太郎は他のメンバー達の様子もすぐさま確認した。
概ね他のメンバーも同じ様に驚いていたが、花ヶ前だけは顔をニヤつかせているのが見え、更には濃い色のサングラスで視線は見えないが、彌太郎はこの瞬間も、花ヶ前に観られていると感じていた。
花ヶ前もまた、彌太郎が自分の態度を不審に思っていることを知っており、そして薄ら笑いを浮かべた後、口元を動かした。
「〝石ころコロコロ転がって〟」
そして、この場にいる全員がエヴァと千乃へと意識を向けたのだった。誰一人として、千乃の後ろで楽しげに嗤う花ヶ前を見ることはなく、そしてそのことに疑問を持つことすらなかった。
「ほら、起きたまえ。全く……千乃は、予想通りに行動しすぎだ」
床に潰れた蛙の如く、無様に突っ伏する千乃の頭を優しく撫でながら、エヴァは諭す様に呟いた。
「いやいやいや、周り見渡してみろよ。完全に全員が、今のその子の行動に対して、予想通りどころか驚いた表情をしてるぞ?」
「全員?」
彌太郎の言葉にエヴァが改めて周りを見渡すも、特に表情を変えずにいた。しかし、千乃の後方に視線を向けると、僅かにエヴァの眼が紅みを帯び、強い輝きを発した。
そして右手を握り締め、派手にその場で天井に向かって豪快に振り抜いたのだった。
「ごぶふあ!?」
奇行と言えるエヴァの突然のアッパーカットに対して、それに応じるかの様に男の悲鳴があがった。その直後、窓から外に飛び出さん勢いで吹き飛ぶ花ヶ前を見た面々は、彌太郎以外は何かを察したかの様に呆れ顔になっていた。
「なぁ……今のは」
「あれは、いつもこんな感じだな」
「なんだそりゃ……」
彌太郎は、完全に意識を飛ばして壁際にボロ雑巾のように転がっている花ヶ前に対して、全員の表情が彼に向けている呆れ顔から〝怪しい奴〟という評価から〝怪しい変態〟にランクダウンさせたのだった。
「花ヶ前、私の可愛いギルメンで遊ぶとは感心せんな」
「痛ぅ……いやいや、俺もその可愛いギルメンの一人なんすけど?」
「お前みたいな奴の首でも、きちんと残しておいてやっただろう? 十分に私は、お前に対しても寛大だ」
「へいへい、お優しいギルマスでこって。つか、今のを見抜いた種明かしは、当然してくれませんよね?」
「当然だろう」
花ヶ前はエヴァの返答に対し、あからさまに溜息を吐きながら立ち上がると、事務所内の事には興味がなくなったと言わんばかりに、窓から大通りを退屈そうに眺め出したのだった。
エヴァもまた花ヶ前のその様子を見ると、同じく花ヶ前に対する興味をなくしたかのような表情になっていた。そして視線を潰れた蛙状態の千乃へと戻し、優しく頭を撫でると、千乃が淡い翠色の光に包まれた。
「う……この優しい魔力は……エヴァ様ぁあはべし⁉︎」
エヴァにより意識を回復した千乃は、目の前にいるエヴァに抱きつこうとし、今度は頭を直接叩かれて再び床に突っ伏した。
「ということで、新しい副支部長の世話役には千乃と一月に任せる。それと、各自忘れずに依頼の確認をしておいてくれ。〝理の改変〟により、その手の依頼が増えそうだからな」
そして言いたいことを言い終えると、エヴァは風を切り颯爽と事務所を出て行った。
あまりに突然の宣告に、一月は顎を外れたかと思うほどの状態で固まり、彌太郎は先ほどの千乃の状態を思い出すと、顔を片手で覆いながら天を仰いだのだった。
エヴァが事務所の扉を閉めたと同時に、まるでそれが合図の鐘と言わんばかりに一月の叫び声が上がった。
エヴァは、それを気にしないばかりかむしろ足取り軽やかに、屋上に向かう為に階段を上がり始めた。
「エレベーターを使わない事に、何か意味があるのかい?」
「意味などないさ。ただそんな気分というだけだよ」
「珍しく、本気で機嫌が良さそうだな」
エヴァに追いつき横へと並んだルーカは、鼻歌を口ずさみながら階段を上がる彼女を見て、素直に驚いていた。
「そんなに彼は、君の望みを叶えてくれそうなのかい?」
階段を上がる脚は弾むように、鼻歌はいつしか天使のような歌声に変わる。
ルーカの問いに答えぬまま、遂に屋上への扉の前まで辿り着くと、扉は壊れんばかりに勢いよく開かされた。
「彼の力の一端しか、まだ私は見ていない。だからこれは、私の勘でしかないのだが……彼は、〝届く〟。そんな気がするのだよ」
「……嫉妬してしまうね」
屋上に設置されている転移魔法陣の、中央にまで歩いて行ったエヴァが、ルーカに振り向きざまに見せた笑顔は、発せられた言葉以上の衝撃をルーカに与えた。
これまでにただの一回も、エヴァのこのような純粋に楽しそうに、そして希望を乗せた笑顔を見たことがなかった。
言うなればそれは、恋する乙女のそれだった。
そして徐に青空を仰いだエヴァは、またしてもルーカを驚かせることになる。それまでの天使か女神かと思わせる笑顔から変わり、見る者の背筋を凍らせる程に冷たく、そして恐ろしく……嗤ったのだった。
狂気を振りまくように妖しく、聴く者の正気を狂わせるような、それでいてなお美しく。
転送陣が発動し光がエヴァを包み、そして消えていく中でもエヴァは嗤っていた。完全に消えてもなお、どこか彼女の狂気の余韻が漂っていた。
「天使と悪魔の両方を、一身に向けられる男に嫉妬し、神殺しの剣として期待される新入り君を、羨ましいと思う俺は、きっとおかしいのだろうな」
屋上の手摺りに寄りかかりながら、煙草に火をつけたルーカは、エヴァの残した狂気の残り香を一緒に吸い込むように、煙草をゆっくりと吸い始めた。
そしてその煙は狂気と共に、風に流され街の喧騒に流され消えていくのだった。