桜
私は夢を見る
とても楽しくて、恐ろしくて、笑って……泣いている
泣かないで
きっとまた会える
絶対に私は、貴方に逢いにいくから
天真 桜花は、夢を見た。そして、泣いていた。それは彼女の願望なのか、それとも違う何かなのか。
桜花の顔に朝日が差し込み、ゆっくりと彼女は目を覚ます。銀髪が煌めき、薄く開いた目蓋からは髪と同じ銀色の瞳が覗いた。
桜花がベッドの上で上体を起こすと、そのタイミングでノックがあり、朝の挨拶と共に侍女達が部屋へと足を踏み入れた。
桜花は侍女が近づいてくるのに合わせてベッドから降り、そのまま着替えを彼女達に任せると、その間はいつもの様に窓から見える空を眺めていた。
そして今日も図った様に、桜花の支度が終わる頃に再びノックがあった。
品の良い笑みを浮かべた老人が、挨拶と共に入室してきた。凛とした雰囲気を漂わせ、皺一つない執事服を着こなす夜船一之進は、音もなくそれでいて自然に部屋の中心へと進み歩いた。
彼の顔に刻まれる皺の一つ一つ、そして洗練された所作の一つ一つから、仕事への高い誇りが見てとれた。
「桜花様、本日は昼食にて周様と御一緒になることが決まりました」
侍女が入れた紅茶を静かに飲んでいた桜花は、夜船の言葉に手元が止まった。
ゆっくりと夜船に目線を向けると、慌てることなくあくまで落ち着いているかのように振る舞った。
「お爺様が、私と食事を共になさるなんて。今日は何か特別な日だったことを、私が忘れているのかしら」
「いえ、特にそのような日ではありません。昨日あのような事が起きましたので、周様が桜花様の様子を直接御覧になりたいとの事です」
「お爺様は、各方面に対してのご対応にお忙しいでしょう。私などに、態々気を払わなくてもよろしいのに」
「それだけ、桜花様のことを大事になさっているということでしょう」
夜船が侍女達に目配せをすると、彼女達は揃って桜花に一礼し部屋から出て行った。それを見届けると、桜花はティーカップに残った紅茶を飲み干し、夜船に鋭い目を向けた。
「天真家の当主たるお爺様が、継承権の無い私に会うなんて、本当の目的は何なのでしょう。当然、貴方は知っているのでしょう?」
「そのような目を、決して周様に向けてはなりませんよ、桜花様。それに私奴が周様の直属だったのは、桜花様がお生まれになる時までの、十七年前も前のこと。それからは周様ではなく、桜花様が私奴がお仕えする主人であり、此度のことも周様の御真意を推し量ることは、私には出来ません」
「ほら、貴方も分からないって言ってるじゃないの。さっき夜船は、お爺様が私を心配してみたいなことを言っていたわ」
「おっと、これはこれは、一本取られましたな」
朗らかな笑顔を夜船に向けられると、桜花は小さく嘆息を吐きながらも、一旦その件については棚上げすることに決めた。そして昨日起きた事件について、夜船に尋ねる事にした。
「それで、私に話が出来る許可はおりたの? 本家に貴方が許可を求めたという時点で、天真家は不思議な力を扱える家系なのでしょうけど。そして長年仕える夜船もまた、同じというところかしら」
「はい。桜花様の推察通りに、天真家は魔力を扱う事が出来る家系〝目覚めし血脈〟であります。そして私奴もまた、多少なりとも心得はございます」
「そう……なら、私もそうなのよね。だけど、その魔力というものを何も感じないわ」
国会議事堂がテロの被害にあった日、世界中で同時刻に主要都市や重要機関にて同じような方法でテロが発生していた。そしてどの場所においても必ず映像が中継されており、その実行犯は犯行声明時に闇堕人と名乗った。
能力者の存在を知らなかった桜花にとって、世間一般と同じく、それは非常に驚くべきものだった。
すぐに夜船に自分も能力が扱えるのか尋ねたが、その際に夜船はそれを桜花に教える許可が出ていない事を理由に断っていた。
それから一夜明け、再び尋ねると夜船は天真家は能力者の家系であると告げた。昼食に周が桜花を訪れる理由も、彼女はその辺りが関係しているのだろうと考えていた。
「その事については、私奴から話すことは出来ません。恐らくは周様から、ご説明があるのではないかと」
「えぇ、そうでしょうね。その為にきっと、お爺様は私に会い来られるのでしょう」
「朝食の時間まで、どのようにお過ごしになさいますか? 周様との御昼食に遅れる訳には行きませんので、外出はお控えして下さると助かるのですが」
「そうね……なら、少し風に触れたいから中庭で過ごすことにするわ」
「承知致しました。その様に準備させましょう」
桜花の答えを聞くと、夜船は一礼の後に音もなく部屋から出て行った。
再び桜花が窓の外を眺めると、梅雨の中休みと言わんばかりの青空が広がり、眩い光が降り注いでいた。時は静かに流れ、下界から切り離された世界の様だ。
「世界は昨日、確かに変わったのでしょう。でも……それより前に、私の世界は何かが変わった気がするのに」
誰に聞かせる訳でもない桜花の呟きは、声が消えると共に霧散していったのだった。
「桜花様、そろそろ御昼食の準備が整いますので、ご移動の程よろしくお願い致します」
「もうそんな時間になってしまったのね。わかったわ、参りましょう」
周との昼食の時間が迫り、桜花の部屋に夜船が呼びに来た時、彼女は椅子に腰掛けながら本を読んでいた。
朝食を屋敷の庭で済ませた桜花は、そのまま中庭で先ほどまで穏やかな時間を過ごしていた。そして時間に合わせ部屋へと戻り、書棚から一冊の本を選び読んでいたのだ。
丁寧に本を閉じると、侍女に渡し書棚に戻す様に伝えてから椅子から立ち上がり、桜花は周と昼食を共にする部屋に向かう為に、自室を出たのだった。
「お爺様は、もういらしているの?」
「いえ、周様はまだ到着されておりません。特に連絡はございませんので、時間通りにいらっしゃる筈です」
桜花にとって、周は実の祖父でありながら遠い存在だった。周には正室に加え側室もおり、桜花は周の子供が何人居るか知らなかったが、自分の父親が周の後継者として指名されている事は知っていた。
しかし、それ以上の事は知らなかったのである。
大きな屋敷を与えられ、一緒に住むのは執事の夜船と侍女達だけ。本来ならば母親と暮らす予定だったが、桜花の母親は生まれて直ぐに亡くなり、それ以来この屋敷の本当の意味での住人は桜花一人であった。
周を出迎えるべく会食の間の扉を夜船が開けると、二人は一瞬にして身体が硬直していた。
「やぁ、桜花よ。元気だったかい?」
「お爺様!?」
「御屋形様!?」
「ははは、驚いたか。夜船まで驚かせる事が出来たのは、珍しいことだな。それに私はもう、お前の主人ではないのだ。御屋形と呼ぶなら桜花であろう?」
「申し訳ございません。桜花様にも、大変ご無礼を致しました」
昼食会場となる部屋の扉を開けると、すでにテーブルに天真 周が座っていたのだった。この部屋で給仕している侍女達の表情も、桜花達同様に驚いていることからも、本当に突然現れたのだろうと夜船は考えていた。
周がその様な力を示したことがこれまでなかった為、夜船は恐らく直属護衛の誰かの仕業だろうと考え、周囲の警戒を高めた。
その夜船の様子に周は気付いていたが、特に何も言わずに桜花に席に座る様に促した。
桜花はあまりにも突然の事に呆けていたが、周に話しかけられると慌てて一礼をして席に着いた。
「どうやら、驚かせすぎてしまったようだ。久しぶりに桜花に会うので、年甲斐もなくはしゃいでしまったな」
「私も楽しみにしておりましたので、あまりの嬉しさと驚きのあまり声が出ませんでした。お爺様の気を悪くしてしまい、申し訳ございません」
桜花が謝罪し頭を下げる様子を見て、周は少し落胆するような表情を作ったが、表情を戻すと夜船に目線を向けた。それを合図に、周と桜花の元へと昼食が運ばれてきた。
周は食事をしながら桜花に近況について尋ね、桜花がそれに答えるという形が食事が終わるまで続いた。
食事も終わり、二人の元に紅茶が出されると、柔和だった周の顔が天真家の当主としての威厳を持った表情へと変わっていった。
「桜花の最近のことも知れたところで、本題に移ろうと思うのだが、何の話か見当はついているかね」
試すような視線を投げかけられ、桜花は背筋に寒いものを感じるが、ここで黙るわけにはいかなかった。当主である周に対して、黙秘するなど許されるはずがないのだから。
「天真家と能力者の関係、そして私の力が脆弱な事についてでしょうか」
「うむ、桜花は力は無いが頭は悪くない。それは、とても喜ばしいことだ。そうだな、天真家は私より目覚めし血脈としての歩みが始まったのだよ。私の血を受け継ぐ者達の中でも、より強くその力を示した者達は、これまでも裏天真として動いてもらってきた。そしてそうでない者は、分かるね」
「何も知らされず、普通の……表の天真家として、そして継承権を持たされず生かされてきたということですか」
「そう、そして君が今も魔力を感じないのは、元々素質がなかったと言う事ということなのだろう。ここまで濃密な魔素の中で、魔力を扱うことが出来ないというのであれば、最早一般人と変わらない程の素質しかない」
周の言葉に、桜花はうつむくことはなかった。予想していた以上のことは無く、特に期待をしていた訳でもなかったのだ。先程〝久しぶり〟と発した周であったが、実際には桜花が生まれた際に、その魔力的素質を確認した時以来であり、当然桜花は会った記憶すらない。
桜花は何不自由なく暮らしているが、父親すらこの屋敷に会いに来ない理由が、今の周の言葉ではっきりと分かったのだった。
つまり桜花に対する価値は、生まれた瞬間に会う価値すらないと決定されたのだ。
「本日お爺様がお越しになったのは、私を処分しに来られたのでしょうか」
桜花の言葉に、一瞬にして部屋の空気が張り詰める。夜船は自身の拳を強く握っていることに、心から困惑していた。
何故、自分が桜花の盾になろうとしているのか。本当の主人は周である筈の自分が、どうしてこうも桜花の命の危機に動こうとしているのか。夜船はそのことが理解できず、動けずにいた。
周は、そんな桜花と夜船の様子を観察するようにじっと見ていたが、数秒の沈黙の後に優しく微笑んだ。
「そんなことは考えていない。もしそれほどまでに価値のない者であれば、私は夜船を桜花に渡したりしない。彼は、私の右腕だった程の男だ。それを、君が生まれたお祝いにプレゼントしたのだよ? それだけでも、私が君を大事に想っていることがわかるだろう」
「はい……ありがとうございます」
「だから、そんなに私に殺気を向けないでくれるかな、夜船?」
周の言葉に夜船は誰が見ても完全に動揺しているのが分かる程に、困惑した表情で桜花の横に立っていた。
桜花もまた、夜船の様子を見て驚いていた。夜船は確かに自分の執事であるものの、周の直属護衛の頭目を任されていたほどに周に近い人物であり、真の忠誠は周に誓っているものだと、桜花はこれまで思っていたからだ。
夜船が我に返り、謝罪の言葉を述べる前に、周が先に声に出して笑い始め、一瞬にして先ほどまでの張り詰めた空気が霧散していた。
「桜花よ、お前の能力者としての価値は凡人と何も変わらぬというのに、夜船程の男が私よりお前を主人だと心から想っているようだぞ。この十七年程の人生で、お前は何を夜船に示したというのか気になる所だが、時間が来てしまったようだ。ありきたりの台詞だが、楽しい時間というのは過ぎるのが早くて困るな」
「……はい、お爺様。またお会いできる日を楽しみに、それまで精進致します」
周が席を立つと、桜花も合わせて席を立ち頭を下げた。そして再び顔を上げると、目と鼻の先に周の顔があった。
悲鳴を上げそうになるも、桜花はぐっとそれを飲み込んだが、自分の眼を覗き込む周の眼がマーブル色に変化しており、その気持ち悪さに吐き気を覚えた。
耐え切れず意識を失う一歩手前という所で、周は目を瞑り桜花から顔を離した。夜船が咄嗟に桜花を抱きとめると、周が一言だけ呟いた。
「未だ視えぬか……」
「お爺……様?」
息も絶え絶えの中で、周に今の事について尋ねようとした桜花であったが、周は特に何も言う事なく扉へと歩き出した。
そして扉の前に来たときに侍女が扉を開けるも、周はそこで足を止め、それと同時に突然身体が淡く光だし、身体が光の泡となり始めた。
その様子を茫然と眺めるだけだった桜花と夜船に向かって、周は背を向けたままで別れの言葉を残した。
「夜船よ、長い付き合いだ、私に刃を向けたことはこの一撃を持って許そう。そして、その主人たる桜花よ。従者の行いの責を負うのもまた、主人の勤めだ。お前にも、相応の仕置きを残そう。では、夜船よ。生きていたらまた引き続き桜花に仕え、死すればそれをもって天真家執事を引退とし、暇をやろう」
「な……お爺様! きゃ!? 夜船離して!」
「桜花様! 周様のお帰りにございます! 頭をお下げください!」
周の言葉の意味をすぐに理解した桜花は、周に赦しを乞うべく、駆け出しそうになったところを、夜船に腕を掴まれ止められた。
そして先ほどまでこちらを見ていなかった周が、二人を見定めるかの様に、覇気を伴う瞳で見下ろしていた。
そして周の姿が完全に光の泡となり消え去ると、断罪の刻がやって来た。
「があ!?」
「夜船!? どこからこんな剣が!」
消え去った周に向かい深く頭を下げていた夜船に、いつの間にか光る大剣が背中から心臓を貫いていた。
血飛沫が桜花の顔に飛び、侍女達の悲鳴が二人に降り注いだ。そして罪を犯した従者の主人たる桜花に対する仕置きは、これからだった。
部屋の天井から数十本の光るナイフが出現すると、音もなくそのまま桜花へと降り注いだ。
降り注ぐナイフは、まるで夜空を彩る流星群の様に桜花へと落ちて来る。そして桜花が光の刃を認識する時には、すでにその役目を果たすべく肉体に突き刺ささっていた。
ただし、それは本来その仕置きを受けるべき人物ではなかった。
心臓を貫かれた夜船が、それでも桜花の前に立ち、その身体を持って盾となり主人を守っていた。
そして最後の一本まで光のナイフが夜船に刺さると、光の刃は泡となり消えていき、代わりに桜花に血の雨が降り注いだ。
そしてやがて雨は止むと、鮮やかな朱に染まる桜花が、その場に座り込んでいた。
「嘘……でしょ? 十七年よ? 貴方が私の側にいた時間が、こんな呆気なく……貴方まで、私を置いていっちゃうの? ねぇ? 引退だなんて、私は許可してないわ……」
吹けば飛ぶ様な弱々しい声だったが、静まりかえった部屋に、その声が響き渡るには十分だった。
だからこそ、その言葉に応える声もまた、しっかりと彼女に届いた。
「二十年で……ございます……桜花様……お暇を頂くには……まだ私奴は……若輩者でございます」
両手を広げ桜花を護る格好で、夜船はまだそれでも生きてきた。
心臓を貫かれ、数十箇所にナイフが刺さった筈の老人が、死にもせず倒れもせず主君を護るべく、そこに立ち続けていた。
「は……早く医者を!」
壁際で腰が抜けている侍女に向かって桜花が叫ぶが、夜船は動こうとした侍女に向かって視線を向けるとそれを止めた。
「夜船、なんで止めるの! 貴方、即死であっても不思議じゃないくらいの傷が……」
夜船が生きており、更には落ち着いて桜花に対し口を聞いている事に、気が動転する桜花を余所に、夜船は瞳を閉じながら、桜花には全く意味の分からない言葉の様な歌のような何かを発していた。
そしてすぐに夜船から薄らと身体を包む碧色の光が漏れ出し、口に出す声が力強さを増すごとに、夜船の身体もまた更に強く光を発する様になった。
やがて夜船の口が止まると、破れた執事服の間から見える夜船の皮膚は、全くの元通りになっていた。
「夜船……心臓を貫かれ、身体中の風通しが良くなった老人が、死なないばかりか全くの元通りになるくらいの力が、〝多少心得がある程度〟なのかしら?」
「いやはや、先ほどまでは〝多少心得がある程度〟だったのですが、どうやら私奴は桜花様の右腕に成れるほどの心得はあるようですな」
「私の右腕ですって? 私に、そのような価値はないわ」
桜花の言葉に夜船は優しく微笑むと、姿勢を正し、思わず見惚れるほどに美しい一礼を、主人たる人物に捧げた。
「天下無双の大剣豪も、絶望を撒き散らす竜魔剣士も、堅牢なる聖騎士さえも、その者を散らすこと叶わず。燃え盛る激情と溢れ出る愛をその身に宿すその者は、咲き誇る桜の如し。その者、剣聖にして剣神、殲滅鬼にして滅殺姫」
そして自らの業と慈しみの心にて、万物の傷を癒す男が、従者として主君の名を語る。
「その者の名は、天真 桜花。貴方様にございます」
その者はまだ、終わっても始まってもいない。しかし、これまでの世界は既に終わり、新しき世界は始まっている。
この世界の歯車は、動きを止めることは誰にも出来ない。
誰かがそれを壊すまで。
狂り狂りと止まらない。