遠吠
天真 桜花の住む屋敷では、銀色の毛並みを美しく靡かせる狼男が、老執事の目の前に立っていた。所々の銀色の毛並みが、淡く朱に染まっており、五指全ての爪は、長く鋭利な刃となり、その全てが相手の血で紅く濡れていた。
それは、一瞬の出来事だったのだ。
丸太のように太い右腕が、夜船 一之進の胸を貫いていたのだ。直後に銀狼は雄叫びを上げ、それは正しく狼の遠吠えだった。
夜船が、東京上空で矢那と“嗤う男”の力がぶつかり合った瞬間、思わず天を見上げた時だった。銀狼となっていた風神は、目の前の夜船が隙を見せたとしか感じなかった。
風神にとって、遠くの強敵より目の前の獲物であったのだ。
だからこそ、風神は矢那と嗤う男の激突よりも、目の前の好敵手に集中していたのだった。
「が……は……」
胸を狼男に貫かれた夜船の呻き声を他所に、風神は無慈悲に貫いた右腕を相手の身体から引き抜いた。噴き出す夜船の血を避けもせず、その身に返り血を浴びると、元の和装姿の風神へと戻っていった。
「全力で解放する【銀狼】とは、これほどなのですね」
朱に染まる右腕と、地面に倒れ伏す夜船を見ると、少し寂しそうに風神は呟いた。
風神はギルド『宿り木』に属する前まで、母親と共に“始末屋”を生業としていた。母親は帰還者であり、父親は目覚めし血脈だった。
父親は、能力者が中心となっているマフィアの一構成員だった。その事を知らなかった高校生の風神は、突然自分を組織に連れて行こうとする父親に抵抗し、息子を守ろうとした母親はその際に父親に殴り飛ばされた。
そして運悪く、二階のアパートの窓を割り、そのまま気を失いながら地面へと落ちていった。
“母さん⁉︎”
そんな母親への仕打ちに、激昂する風神だったが、身体強化を自らに施していた父親には、全く歯が立たなかった。この時に、風神の父親は違和感に気付くべきだった。
無能力者の前では、逸脱した力を発揮できない“力”である身体強化魔法が、解除される事なく自分の妻を殴る事が出来たのかを。
息子と妻には、自身の家系が目覚めし血脈だと明かしては居なかった。しかし、明かしていないだけで、自分の血を受け継ぐ息子の前では父親は、身体強化術が扱える為、先に妻を殴って気を失わせば、息子の回収は楽だと考えていた。
しかし、現実に起こったのは、あらかじめ発動していた術の効果が、そのまま妻に対して消える事なく発揮されたのだった。父親も妻が窓を突き破って落ちていく姿に動揺し、早くこの場から息子を連れて行かなければと焦っていた。
結果として、父親は息子の前で一瞬にして細切れとなったのだった。何が自分の身に起きたのか理解する事なく、この世を去ったのだ。
目の前で実の父親が、細切れになった姿に、呆然とする風神に飄々とした声が届く。
“あぁ、スッキリした。でも、汚しちゃったわね。永新、ごめんね。クズだとしても、あんたの父親をバラバラにしちゃって”
血溜まりの中で唖然としている息子に声をかけたのは、先ほど落ちた窓から何事もなかったかの様に入ってきた母親だった。そして、別人かと思うほどに纏う空気が異なっていたのだった。
母親は先程の命の危機によって、帰還者に覚醒していた。そしてそこからは、修羅の道だった。
手始めに父親が所属していた組織を壊滅させた母親は、狂ったように能力者を抱える反社会的な組織に喧嘩を売って回り、その都度壊滅させていた。そして同時に、息子である風神を鍛え上げた。
風神が“先祖返り”として【銀狼】を覚醒させると、更に二人の活動は活発化し、その筋の者達からは“始末屋”として怖れられる親子となっていた。
そしてそんな二人と、天真家は浅からぬ因縁が出来る事になる。
風神の母親が、天真家当主である天真 周に喧嘩を売ったのだ。その理由を、母親は語らなかったが、その頃には、風神にとって理由等は割とどうでも良くなっていた。
特に【銀狼】の力を得てからは顕著に現れる様になっていたが、完全に戦う事に呑まれていたのだった。命のやり取りが出来れば、理由など気にしなくなっていた。
そんな中で、風神は夜船と出会った。周の片腕として、幾度となく刃を交えた二人は互角だった。夜船は“先祖返り”では無かったが、卓越した戦闘技術を持っていた。
そして風神は【銀狼】を完全解放するまでの魔力を持ち合わせておらず、それがまた二人の死合を楽しいものとしていた。
魔素が存在しない世界では、魔力消費の効率も非常に悪く、術の発動にも強力なものであればある程、所謂燃費が悪かった。だからこそ、風神は身体の一部のみを獣化させるに止まっていた。
その状態で互角だった二人であれば、【銀狼】を完全解放し、全身を獣化した風神に対して、年老いた夜船が立ち向かえないのは道理であった。
だからこそ、例え夜船の意識が矢那と嗤う男に逸れなくても、戦う前から風神はこの結末を予想していた。
「さて、あとは天真 桜花さんを保護すれば終わりですか」
「“保護”とは、どう言う事でしょう?」
僅かに見える窓からの灯りに目を向けて、風神が呟いた瞬間、耳元で夜船の声が突然聞こえると、背筋が一瞬にして凍りつくような感覚を覚えた。
そして、後を振り向くことなく、その場から脱しようとするも、それは叶うことはなかった。
「か……う……何故……」
背後から首を掴まれた風神は、突然の事に動揺しながらも、声を絞り出した。先程確かに、夜船の心臓を貫いた感触が、まだ自身の右腕に残っていたからだ。
万力で締められているのでは無いかと、風神が錯覚するほどの力が首にかかり、秋風は全く身動き一つ取ることが出来なくなっていた。更に背中に手の平が添えられた感触がすると、背筋がより一層に寒くなった。
心臓の真裏に添えられた夜船の手は、今まさに風神の命を握っていたのだ。
「無理して喋らなくて結構ですよ。何故と聞かれて、答える義理も義務もありませんし。ただ、こちらからは少々尋ねなければなりません。おや、流石でございますね。もう心音が平常に戻っておいでだ」
背中越しに伝わる風神の心音は、既に一定の調子で鼓動を響かせており、少なくとも平静を保とうとしていることが、背中を右手で触れている夜船に伝わってきた。
「さて、まず聞かねばならないのが、貴方が此処に来た理由なのですが、話す気はありますか?」
「……依頼の内容を……話すとでも?」
「まぁ、そうでしょうね。同じ立場であれば、同じように答えるでしょうし、そもそも私の立場としては敵に捕まった時点で、即自害しますから。念の為にとお聞きしたのですが、そういう人間ではなかったと言うのは、此方としては嬉しくはありませんねぇ」
風神の返答に、分かりやすく嘆息する夜船は、そのままどうするか思案している。三下の刺客からは、既に依頼内容を確認しているが、明らかに強さの次元が異なる風神の存在をどの様に考えれば良いのか、正直迷っていた。
風神が呟いた“桜花を保護する”という言葉から、自分の主人を攫いに来たことは確定しており、それが先程までの三下の刺客達と異なる点だった。
彼らは、“桜花を殺しに来ていた”。もっと下卑た言葉も発していたが、その様な輩も含めて、再起不能にしている夜船だったが、風神は暗殺者ではないと言うことだ。
一つ嘆息を吐いた夜船は、風神に向かって問いかける。
「さて、銀狼。ここで、選択の時間です。依頼の失敗を受け入れ逃げ帰るか、ここで全てを失うか。選んでください。これが私なりの貴方に対する“慈悲”です」
夜船の言葉に、風神は驚き目を見開いた。
「無……慈悲の二つ名は……何処に?」
思いがけない提案に、思わず苦笑しながら、そんな言葉が自然に風神の口から出ていた。
「私奴も、変わるのですよ」
穏やかにそう告げる夜船だが、その言葉には躊躇という感情は見られなかった。
首と心臓、どちらかを守ればどちらかを喪う。現状は、風神が完全に詰んでいる状況であった。だからこそ、風神は冷静に考える。何を守り、何を捨てるのかを。
そんな時に、風神の和装の帯の中から、携帯端末にメッセージが届いた事を知らせる着信音が鳴った。
「……確認しても、良いでしょうか?」
「えぇ、どうぞ」
特に気にする事なく夜船は、風神に携帯端末を確認する事を許可した。そして、風神はその知らせを確認すると、一瞬目を細めたあとに、嗤ったのだった。
“依頼者死亡により、依頼はキャンセルとなりました“
たったの一文であるが、それを目にした時に風神の肚は決まった。そして次の瞬間には、一瞬にして掴まれている首のみを銀狼化した上に、両腕で首を掴んでいる左腕を引き裂きに動いた。
夜船は、さして驚くこともなく左手を首から離すと、代わりに風神の背中に右腕を刺しこみ、心臓を貫き、そのまま胸まで貫通させた。
その瞬間、風神もまた全身から風の刃を放出し、夜船を自身から飛び退かせると、その隙に懐に忍ばせていた回復薬を飲み干すと、全身の“銀狼化“を行い、見えない月に向かって吼えた。
その様子をじっと観察する夜船は、風神の身体が淡く碧色で包まれる様子を見て、今風神が飲んだものが回復薬の類だと確信した。
「流石に、霊薬程のもので無ければ、失われた器官は、再生出来ない筈ですが?」
「その通り。私の心臓は、貴方に穿たれたまま。しかし、私は“闘える”。手負いの獣ほど、恐ろしいものはないのですから」
「手負いどころが、死を待つだけの獣だと見受けま……ほほう?」
刹那、夜船の右腕の肘から下が咬みちぎられていた。そして夜船が後に振り向くと、銀色の狼の牙が、自分の腕を咥えていたのを見たのだった。
「獣人族は、確かに追い詰められた際に、自らの命を燃やし、脅威的な身体強化を図る術を奥の手に持っていましたが、似たような術を行使したと見て良いでしょうか?」
「……まるで、実際に見てきた様な言い方ですね。獣人族等と言われても、見た目はこんなですが、私は人間ですよ」
「これは失礼致しました。確かに、貴方は只の人間でした」
そう言うと、夜船は食いちぎられた右腕を見ながら、冷静に言葉を唱えるのだった。
「“慈しみ 愛し 痛みを憎み 血を疎み 死を嘆く” 【干天の慈雨】」
先程風神を包んだ碧色の光よりも、傷口が鮮やかな翠色の光を放つと、夜船の欠損した右腕が、見事に元通りに再生したのだった。銀狼の顔でも分かるほどに、風神の目は見開き、驚いているのが見て取れた。
「驚くのも無理はないかと。私奴も、つい昨日まで忘れていましたから。自分が帰還者であると言うことを」
「帰還者ですか……まさかの大当たりではありませんか」
銀狼の口が裂けるように広がり、嗤うという表現がよく似合う表情を、風神は自然と作っていた。
この世界において能力者と言えば、“目覚めし血脈”の事であり、帰還者など会うことすら稀である。風神がこの人生で、会ったことがある帰還者は、四名だった。
ギルド『宿り木』ギルドマスター、エヴァ=コールマン。
同ギルド東京支部長、土生 源矢。
同ギルド東京副支部長、時雨 彌太郎。
天真本家当主、天真 周。
風神にとって、少なくとも周以外の三名に関しては、命のやり取りを行うことは出来ない。そして周に関しては、ギルドのターゲットの一人ではあるものの、簡単に襲える相手ではなかった。
そんな中で、目の前に突然訪れたのは、本気で殺し合える帰還者との出会いである。
心臓一つ犠牲にして、その機会が得られるのであれば、間違いなく心臓を棄てる。それが、風神という男であった。
「客人をもてなすのも、執事の役割。私の命尽きるまで、当然付き合ってくれるのでしょう? 天真 周の右腕、夜船 一之進殿」
「私が帰還者でなくとも、そのつもりだったのでしょうに。それに一つ訂正をさせて頂きます。今の私の主は、この屋敷の主人である天真 桜花様でございます」
教本にでも載りそうな程に、綺麗で丁寧なお辞儀を見せた夜船の身体からは、翠色の光が消えることなく覆われ続けていた。そして頭を上げた夜船の両手には、いつの間にか苦無の様な暗器が握られていた。
「さて、最後の相手を務めさせていただくと致しましょう」
「よろしくお願い致します。是非とも、帰還者を仕留めたと、地獄の母への手土産とさせてもらいますよ」
そして始まる。
生命力を燃料としたスキル【大神】を、風神はその命尽きるまで解くつもりはなかった。夜船に破壊された心臓はギルドの高性能な回復薬を持ってしても、再生されることはない。今は、回復薬の効果と【大神】の効果で、身体を騙しているに過ぎない。
魔力が尽きれば、その時にこの人生を終える。
何れ人は死ぬ。
目の前で父親が、母親により野菜を刻むかの如く斬って捨てられた時から、風神 永新にとって命は軽いモノとなっていた。
「蜥蜴の尻尾の様ですね!」
「せめて、超速再生とでも言って欲しいところです」
身体能力に加え、母親譲りの風刃魔法を全身に纏い戦う風神は、戦闘が始まってから幾度となく、夜船の四肢を飛ばしていた。しかし夜船が首だけは絶対に飛ばさせない様に立ち振る舞っている所をみると、頭部と胴体を切り離される程の傷は再生できないと考えている風神だが、それは夜船の守りが硬く、実現できていなかった。
風のように舞い。
嵐の如く斬り刻み。
それでも命に届かない。
「ぐ……もう目が慣れたとでも?」
身体に刺さり始める苦無は、全身を銀狼と成している風神の毛並みを、紅に染めて行く。
「もてなす相手を、いつまでも見失う様では、執事失格ですので。それに、そろそろ終幕のお時間が迫っている様ですので、しっかり止めは刺しませんと、地獄にいる“鎌鼬”に悪いでしょう?」
「言って……くれますね!」
互いに既に相手と自分の血により、ドス黒い朱に染まっているが、それでも身体は動き続けた。
風神の脳裏に、エヴァの顔が浮かぶ。
“私とくれば、きっと楽しい事があるだろうよ”
「神殺しには……同席出来ないのは残念でなりませんが……貴方に付いてきて、これほど良かったと思うことはない」
夜船と風神の死の舞曲は、終わりに近づけば近づくほどに燃え上がり、それは最後の刻まで萎むことはなかった。
最後の一噛みが首に届き、銀狼の牙が獲物の首を半分食いちぎった時、その戦いは幕を閉じた。
命の灯火が光を喪い、男は倒れた。
「何を勝ったかの様な顔をしているのですか、全く」
落とされかけた首を押さえながら、夜船は見下ろした。
風神 永新、所属ギルド【宿り木】。
悔いはあっても、後悔のない人生を、此処に終えたのだった。





