憧れ
静けさが増す深夜、一般的な都内の高校の職員室に、全身を甲冑に身を包んだ鎧武者が、十字槍を構えていた。
漂う雰囲気は、新卒の女性教師が本来纏う筈の無いものであった。
歴戦の武者の如き殺気により、新谷 米子の背後の景色は陽炎の様に揺らいでいた。そして一片の油断なき瞳は、この高校の在校生である富東 矢那を、その背中に背負う女に向けられていた。
その女は、美しく流れる黒髪に、朱に染まるシャツを見に纏うヤナビであった。
「さて、言葉は未だ通じますか?」
ヤナビの問いかけに、米子は応えることはない。
深く息を吸い、そして精神を研ぎ澄ませるように、長く息を吐く。そして、重心をやや前傾よりに傾けた瞬間、ヤナビの首に十字槍が紙一重にまで迫っていた。
「くっ⁉︎ 本当にマスターの高校は、どうなっているのですか! 脳筋には、脳筋が寄ってくるとでも言うのですか!」
矢那を背負ったままで、ヤナビは十字槍からギリギリで首を躱すが、そのまま米子の槍による乱撃が、荒れ狂う暴風のようにヤナビを襲った。
当然、米子の教職員用のデスクは、自身の槍により木っ端微塵になっており、ヤナビが破壊したというより、完全に自分で壊したと言ってよかった。
そしてそればかりか、米子のヤナビへの追撃を、ヤナビが避けることで、結果として職員室は既に原型を留めていなかった。
それにも関わらず、米子の瞳は血走っており、とても正気とは見えなかった。しかし、その扱う槍術の精度は達人と言って、余りあるものであった。
「しまった⁉︎ マスター!」
槍の柄を巧みに、矢那とヤナビの背中の間に通し、一気に矢那を強引にヤナビから引き剥がしたのだった。そして、その勢いのままに、矢那は米子に両腕で抱えられた。
世間一般的に、お姫様抱っこと言われる状態である。
「堅牢なる我が鎧よ この者を癒やし護れ 【城塞の姫君】」
詠唱と共に、米子が纏っていた鎧が、矢那を囲う様に宙に浮き始めた。
そして、米子が優しく矢那を、宙を漂う鎧に向かって差し出すと、具足や籠手や甲冑、兜等が互いを起点にして、矢那を取り囲むように、障壁で一人サイズのカプセルを形成した。
鎧を矢那に譲った形になった米子は、色鮮やかな鎧直垂の姿となっていたが、油断なく十字槍を手に持ち、ヤナビに相対していた。
そしてその瞳は、先程と異なり、澄んだ瞳だった。
「会話によるコミュニケーションは、取らせてもらえるのでしょうか?」
「重傷を負った高校生を背負い、高校に不法侵入した挙句、職員のデスクを破壊した不届き者と、私が会話をするとでも?」
「何一つ、事実と異なる部分が無いのが痛いですね」
事実を列挙されると、何も言い返すことのできないヤナビだったが、目の前の米子に集中しながらも、当然矢那の状況を把握するのにも意識を向けていた。
「貴方のソレは、対象を保護する上に、治療まで出来ると判断して、よろしいでしょうか?」
ヤナビの問いに、応える義理も必要もないと考え、無視しようとした米子だったが、目の前の相手からの圧は、それまでの比ではなかった。
〝問いに答えよ。さもなければ、何をしてでも聞き出す〟
目は口ほどに物を言うとはこの事かと思うほどに、米子の背中に冷たい汗が流れ落ちる。しかし、それでも尚、米子の口が開くことはなかった。
先程までと異なる異質な威圧感は、熱くなっていた米子の頭を、急速に冷やしていく。
重傷だと思われた見知った生徒を見たことで、冷静さを欠いた事を、心の中で自らを叱責する米子だが、冷静になった頭で改めて今の状況を考えると、正直冷や汗が止まらなかった。
不審者が破壊したのは、あくまで教職員用のデスクの引き出し程度に対し、嵐でも吹き荒れたのか思わんばかりに職員室全体を破壊したのは、自分が暴れたからであったからだ。
流石に、そんな事に焦っていると悟らせる訳にはいかない為、無理矢理に頭を切り替え、後のことは後で考えようと、米子は決めたのだった。そして、更に手に持つ槍に力を入れ、これからの展開に備えようとした。
しかし、それは叶わなかった。
「がはぁ⁉︎ 予備動作が見えな……くそぉおおおがぁああ!」
腹部に衝撃を感じた時には、既に職員室の壁をぶち抜き、更にその先の廊下の壁をも破壊して、中庭にまで殴り飛ばされていた。
さらに体勢を整えようとした時、頭上からぞっとする気配を感じ米子が顔を上げると、そこには拳の弾幕が降り注ぐ瞬間だった。
防御障壁を展開する様な時間を与えられることなく、出来ることといえば全身に力を入れ、魔力を高め、自身を護る魔鎧硬度を上げることだけだった。
隙間なく、途切れる事なく降り注ぐ拳の弾幕に耐えながら、その攻撃が途絶える瞬間を米子は待った。
一撃一撃が全力であることは、その拳から伝わってくるのだ。そんな全力が長く続くはずがないと米子は、人間の常識から判断した。だからこそ、防御に全振りして耐えているのだ。
その判断は決して、間違いではない。
帰還者であろうと、人であったならば、全力を維持し続けるのは不可能であり、必ず呼吸が必要になる。
一息付く前に、相手の反撃に備え、攻めている者も限界を越える前に手を緩める。それが、戦いの呼吸である。
しかしそれは、相手が、〝人〟であったときの常識でしかなかった。
今、米子を頭上から、拳の弾幕で押し潰そうとしているのは、〝人〟ではない。
否、正確に言えば、生物でもない。
異世界の女神の分核が、神の位階に至った男の手によって、創世の炎で創られた身体に宿っているのだ。
謂わば、人の形をしている〝神器〟と言える。
そして、魔法兵器ともいえるそれが、知性を持ち、自らの意思で行動しているのだ。人の常識から外れた存在に、〝普通〟を当てはめた時点で米子の敗北は決まっていた。
しかし、だからと言って彼女が戦うことをやめるかと問われれば、その答えは彼女の行動が示すとおりである。
「受け切れないのであれば……攻めあうしかないじゃないのぉお! 〝穿つは水滴の如き 押し潰すは濁流の如く 吼えろ〟【怒牙水龍波】!」
彼女の心にあるのは、生徒を命懸けで守る教師の姿。
それはドラマのことで、彼女とてそれが創作だと、勿論理解している。
だからそれが、どうした。
自身の持つ力もまた、これまでの世界で言えば創作で、どちらかといえばファンタジーなのだ。そしてその力は、今では誰の前でも行使できる。
彼女の夢は、現実に自身の手によって叶えられる世界となったのだ。それを引き起こした者が、どのような存在かなど彼女は知る由もないが、今の彼女にとっては関係ないことだ。
今の彼女にとって重要なのは、〝保護〟した生徒を護ることが出来るかどうかなのだから。
彼女における敗北条件とは、何であるのか? 当然それは、生徒を護れなかった時である。
「お前の拳で、私の心は折れやしない!」
終わりなく降り注がれる拳の弾幕に対し、防御を捨て、血に染まる身体を推して、手に持つ十字槍の斬撃を繰り出す。
自身の方が先に力尽きることなど、彼女は承知の上での行動だった。しかし、彼女はそれでも動くのを止めない。
倒れず槍を繰り出す時間が長ければ長いほど、彼女の敗北は遠のくのだから。
米子の頭上から、殴打のラッシュを浴びせ続けるヤナビは、米子がただ耐える戦いから、ラッシュの終わりがないことを察し、攻めに転じた際も、特に動じることはなかった。
しかし、それと同時にある異変に気が付いた。
「マスターの気配が……」
職員室に置き去りの状態だった筈の矢那の気配が、突然希薄になり出したのだ。それは刻一刻と秒単位での経過と共に、気配が感じにくくなり続けていた。
「生徒を人目から隠して、ナニをするつもりですか。変態先生ぃ?」
寒気がする程の低音で発せられた言葉は、拳と槍が創り出す激しい激突音の中でも、米子の耳に粘り着くように届いた。
「誰が変態教師だ! お前こそ、富東君をどうするつもりだったんだ!」
「重傷を負ったマスターを治癒し、弱体化しているうちに押し倒して、性的な意味で食べるに決まってるじゃないですか。性的な意味として、食べるんですよ!」
「な⁉︎ 完全にお前の方が、変態じゃないか! 高校教師の前で、さも大事なことみたいに、二回もいう事か!」
まさかの返しに、違う意味で米子の背筋が寒くなったのは、下世話な冗談や挑発としてヤナビが発しているように、全く聞こえなかったからだ。
〝ガチな人だ〟と、米子に確信させるだけの狂気が、ヤナビの言葉には感じられた。だからこそ、急ぎ米子は術の発動を急いだ。
「〝隠し 霞み 眩ませろ〟【影牢】」
米子の詠唱と共に、希薄になり続けていた矢那の気配が、完全に消失した。
「マスターの気配が……くっ! 流石に、直ぐに行かせるつもりはないと言うことですね」
「当たり前だろう! 安全な場所まで、匿わせてもらう!」
ヤナビが職員室へと向かおうと、少しでも手数を緩めようものなら、米子の槍の突きが、拳の弾幕を貫き、ヤナビを襲う。ここにきて、弾幕の撃ち合いによる膠着状態が、ヤナビにとって裏目に出ていた。
強引に向かおうとしたくても、米子の一撃一撃もまた、己の全力を乗せており、軽々しく身体に受けて良いレベルの斬撃ではなかった。
「そんな力の使い方では、マスターを拉致出来ても、自分が逃げることが出来ませんよ!」
「そんなこと! 元より考えていない! 自分の生徒を守れずして、何が教師か! その先に、己の命が失われようとも、命を賭して生徒を護る! それが、私の理想なのだから!」
「全く……自分に酔って、状況を正確に把握できない様では、指導者失格だと私は思いますよ」
米子の言葉に、冷静に呟くヤナビだったが、内に秘めたる感情は異なっている。
神と思われる人物との突然の戦闘、そして魔力とスキルを封じられた自身のマスターが、自分の手から奪われた。
矢那に創ってもらった〝永遠の献身〟の力を過信し、己の存在意義である矢那から、離れてしまった。
内に秘めたるは、自身への怒り。
しかし、その怒りは内に留まることはなく、溢れ出す。
初めて、主人が存在しない一個体として、今のヤナビはいる。それはヤナビの心というものを不安定にさせるには十分すぎた。
生物として経験したことがある筈の、その当たり前の感覚を、ヤナビは生まれて初めて感じていた。
孤独である。
矢那との接続が切れ、単独での行動においても、まだ手の届く範囲に矢那がいた。しかし今は、数十メートルと言えども手の届く範囲から離れ、そして矢那の気配すらも完全に絶たれた。
冷静にならなければならないと努めれば努めるほどに、その想いは重くなる。
矢那が作った長い黒髪が乱れ、白かったシャツは主の血で染まる。どんなに不安であろうと、その身に矢那を感じていたからこそ、正気を保てていたのだ。
それが消えたら、どうなるか。
そんな事、火を見るより明らかなことである。
正気を失う。それだけの事だった。
「よし! 届くぞ! このまま、押しきれば……」
ヤナビの動きが、やや硬くなった隙を見逃さず、米子が渾身の一撃を繰り出す。
誘いの隙ではなく、正真正銘の戦いの隙。その一撃を持って仕留められないまでも、この場から離脱するだけの傷を負わすことが出来る確信。それは、背水の陣の決意で挑む米子に舞い降りた希望の光。
「がはぁああ⁉︎」
しかし、倒れたのは米子の方であった。
顔面に叩き込まれたヤナビの拳は、丁度米子の繰り出した一撃に対するカウンターとなった。そしてその衝撃は凄まじく、米子が叩きつけられた地面は、ひび割れ陥没していた。
その反動で、地面を転がる米子の身体は、魔力が霧散し、姿が裸足にジャージ姿と、宿直室に居た時の状態へと戻っていた。
「な……そんな……馬鹿……な……」
最早、片目しか開いていない瞳で、自分を見下ろすヤナビを見ると、確かに心臓を貫く位置に槍が刺さっていた。
しかし、そんな事を胃にも介さない様子のヤナビは、ただの組み立て式と戻っている槍を、何事もなかったかのように身体から引き抜くと、雑に投げ捨てた。
その瞳に光はなく、見下ろす様は、とても人には見えなかった。
だからこそ、米子は恐怖した。
人と戦う訓練はした。
人を傷つける決意はした。
人を殺める信念も持った。
人に殺される覚悟も持った。
しかし、人外に塵の様に見下ろされる事など、全くの想定外であり、予想だにしない事だった。
そして、それは恐怖となって心を蝕む。
動けなかった。迫り来る世の理を超える存在に対し、身体が恐怖で縛られているのが、はっきりと感じることが出来た。
「もっと……生徒と一緒に……過ごしたかったな……」
その言葉を最後に、米子の頭があった場所を、ヤナビが渾身の一撃を持って打ち抜いた。
どんなにピンチでも、敵に背を向けることのない大きな背中に、生徒は安堵した
〝お前らは、俺が死んでも護る〟
その言葉に、心震えた
創作だ
想像だ
妄想だ
だからこそ、自分が成ろうと決めた
でも本当の憧れは、もう一つあった
あの背中に、護られてみたかった
あの台詞を言って貰いたかった
だから、米子は目の前の光景を疑った。
自分を護る様に立つ背中に、過去のドラマの映像が重なったのだ。
「俺が来たからには、もう安心だ」
助けなければと思い、保護して癒やし、そして戦いから遠ざけようとした人物が、そこに居た。
何のために、今の自分が頑張ったのだと、叱りつけたかった。
しかし、その口からでてしまった言葉は、そんな強い言葉ではなかった。
「守って……くれる……の?」
縋り付くように、折れた心に追い討ちをかけるように、それでも口から出た言葉は、米子の本心だった。
だからこそ、その想いに応えるかのように、その凡百の凡人と変わらぬ強さしか持たない青年は、それでも明瞭に且つ力強く応える。
「任せろ」
そう応える矢那とて、状況を理解ている訳では全くない。むしろ、困惑していた。
しかし、それでも見るからに暴走している相棒が、隣のクラスの担任を殺そうとしていた。
そして魔力の質から自身を治癒してくれたのが米子であることを、矢那は分かっていた。
そして、今の自分の身体の状態も、当然把握している。
まるで、初めて異世界へと飛ばされた時のような、吹けば飛ぶような魔力。
それはヤナビとの【接続】すら発動出来ないほどの、貧弱さ。
それでも、この男はヤナビの前に立ち塞がる。
「これぞ、まさにヒーローの出番って感じだよな」
不敵に嗤う。
異世界帰りの英雄は、再び〝凡人〟と化した。
それでも、彼の心は折れやしない。
何故なら彼は、世界を滅ぼそうとした神でさえも、〝不屈〟と呼ばずにはいられなかった男なのだから。





