依頼
護れなかった私を、責めてはくれないのですか
惨めに生きながらえる私を、罵ってはくれないのですか
貴方の面影にしがみつく私を、叱ってはくれないのですか
年季の入った柱時計の短針は、二十三時を超えていた。壁を埋め尽くす本は、今のこの部屋の主人でなく、前の主人の趣味だった。今のこの部屋の主人は、この部屋の全てを自分の物としたが、特に興味はなかった。
ただ、アンティークで統一された家具や、品の良い照明等に関しては気に入っており、この書斎は落ち着ける場所となっていた。
古き時代を生き抜いてきたと主張する重厚な趣きのある木の机には、部屋の雰囲気を壊さない上品なコーヒーカップが置かれていた。アンティークのカップに注がれている香りの良いコーヒーが、無理矢理にでも椅子に座る男の心の不安を、和らげようとしていた。
コーヒーをこの部屋へと持ってきた老人は、齢八十を超えていたが、背筋はしっかりと伸びており、瞼はしっかりと見開き、実年齢より大分若く見えた。
「理様、まだ少し時間はあります。それに何かが起きるとは、まだ決まったわけではありませんよ」
この部屋の主人である地道 理は、隣に立つ兎古野 乙にそう言われると、一つ深呼吸をしてからコーヒーカップに手を伸ばした。
腕を伸ばす動きはゆっくりというより緩慢で、瞳には疲れが見え、髪も少し乱れており、二人の年齢差は四十もあるとは思えなかった。
理がコーヒーカップに触れると、静かな部屋にカタカタとカップと皿が触れ合う音が広がっていた。その音に理は顔を顰め、兎古野は顔色一つ変えずに佇んでいた。
「なんとも……情けないな。これほど不安と恐怖で心が支配されるだなんて、思っても見なかった」
無理矢理にカップを口元に持っていき、一口コーヒーを喉に通すと、理は使用人である兎古野の前で、弱音を吐いていた。
「それは、仕方がありません。理様の持つ恐怖や不安という感情の元が、我が身の心配ではないのですから」
兎古野は、理に対し諭すような言葉をかけ、それは主人と使用人という関係以上のものを感じさせた。
理は兎古野の言葉を聞きながら、迫る二十四時に向かって止まらない秒針を睨みつけるのだった。
地道家は天真家の分家であり、理は三年前から当主となっていた。先代である両親が揃って交通事故で亡くなり、三十七歳という若さで地道家の当主となった。同時に父親が務めていた商社の社長の席に、天真家の指示で座ることとなった。
地道家を含め、天真の分家は周が過去に、“目覚めし血脈”の血を強制的に取り入れされることで、能力者の家系とさせられていた。代々当主は第一子が原則務める事が、天真家の縛りによって決められており、それは分家に関しては魔力的な素質の優劣に関わらずであった。
“天真家を支える為に分家はある”と言うのは、周の代より前からの共通認識だったが、そこには物理的な強制力は持っておらず、あくまで義理人情の範囲であった。しかし、周が天真家の当主となる際に、そこには“服従”という言葉が最適な関係へと変わった。
「周様は、一体どう言う意図があってこんなことを……ここまで大きくなった所で、締め付けていた縛りを無くすなど。しかも、今日このタイミングでなど……」
「幸にして地道家には、他の家との怨恨はありません。他家との抗争が、すぐさま起きることはないでしょう。兎古野家の分家筋に関しては、私が知る限りではあくまで直接手を下した天真家への恨みの方が強く、おそらく今日の知らせの事もしらないでしょう」
乙の言葉に、理は思わず苦笑した。とても笑う内容では無かったはずだが、それでも自分の中にある呆れの部分がそうさせていた。
「他家との間……ではな。他の分家よりましだろうが、自分の弟から襲撃される可能性が高いという状況が情けなくなるな」
「それは……昨日、魔力を十二分に扱える様になってからの、今日ですから。水樹様の性格上、当主である理様を狙うことは、悲しいことですが十二分にあり得ます」
乙の言葉を納得してしまうことに、当主としての器が足りていないと実感させられ、理の額は眉間の皺が益々深くなっていく。そして、部屋は理がコーヒーを啜る音と、柱時計の秒針が進む音しかしなくなっていた。
「確認だが、彩菜と華の護衛依頼は、受理されているのだな?」
既に何度も確認していることを、理は再び乙に尋ねた。そして乙もまた主人の問いに同じ答えを返す。
「ギルド『宿り木』への御二方の護衛依頼は、しっかり受理されております」
「そうか……ただの取り越し苦労になれば、良いんだが」
「これまでも最新の注意を払い行動してきましたが、何事にも予想外と言うものがございます。ただ、それについても準備をしていれば、十二分に対応出来るでしょう。何より『宿り木』の名は、良くも悪くも信頼出来ます」
「神殺しの剣の名を冠するギルドか……私は噂程度でしか知り得ないが、今夜に関しては味方側だと思えば心強いな」
顔面蒼白と表現できる顔色をしながら、自分の使用人に対して笑みを浮かべる様は、当主としての強がりか。乙は孫のような存在でもある主人に向かって、優しく微笑んだ。そして、乙は部屋の柱時計に目を向ける。
“今日という日が終わりし時より、天真家に於ける全ての縛りを払う。己が想い、欲、信念に殉ぜよ”
天真家からの使者から、天真家の最高権力者である周の言葉だと伝えられた時、乙は一瞬頭が呆けてしまっていた。
そして現れた感情は、“怒り”である。
兎古野家は古い“目覚めし血脈”の家系であり、乙はその分家の者であった。”能力を扱える家系“と言った所で、この世界に於いて自然界に魔力は存在しない上に、非能力者の前で常識を超える力は発動させる事が出来なかった。
帰還者や先祖返りでない限りは、殆どが“持たぬ者“と何ら変わらない生活を送っていた。乙も、そんな者達の中の一人だった。能力など、少し手品が出来る程度としか、思っていなかったのだ。
しかし、彼はそれを後悔することになる。
乙には三歳年上の従姉がいた。彼女は帰還者でも先祖返りでもなかったが、持って生まれた魔力的素質が高く、内包魔力は兎古野本家の中でも群を抜いていた。
しかし病弱であった彼女は、よく兎古野本家の離れで療養していることが多かった。
乙は、何の拍子に彼女の居る離れの前を通りかかったかは、覚えていない。しかし、その時の光景は、八十を超える歳となった今も鮮明に覚えている。
離れの縁側で座る彼女の長い黒髪が風に流れ、ただただそこに座っているだけであるのにも関わらず、絵画の様に決まっていた。
“あら、どこの子?”
乙に気づいたその少女は、優しい声で話しかける。突然声をかけられた乙は、おどおどしながらも、自分の名を告げた。
“乙君ね。私は、流。そういえば、今日は親族会だったわね、お父さんは誰?”
中学生くらいの少女であっても、小学生の乙には十分に大人に見えた。父親の名前を告げると、流は笑った。
“乙君は、私の従弟だったのね。ごめんね、知らなくて”
申し訳なさそうにする流に、乙は大声でわざとらしく笑った。悲しそうな顔をする人を元気になってもらう方法なんて、まだ子供である乙にはこれしか思いつかなかったのである。
突然笑い出した乙に驚いた顔を見せる流だったが、目の前の男の子がきっと自分を元気づけようとしてくれているのだと気づき、顔が綻んだ。そしてきっと、両親が親戚の中でも歳が近いこの子を、自分の元へとやったのだと彼女は思った。
それの証拠に、乙は一定の距離より近づいて来なかった。
“乙君は、とっても優しくて強いね“
微笑みながらの言葉に、乙は顔を赤くして硬直した。この時、乙の心に風が吹いた。心地よく、それでいて熱くなるような、そんな風だった。
二人はそれから度々会う様になり、乙が高校に入学する頃には、乙が高校の帰りに寄って行くのが日課になる程だった。流が乙の事をどのような存在として見ていたのか、彼は知らない。
世間一般からみれば、きっと乙にとっては、流が初恋の相手で、今も一途に想い続ける相手なのだろう。だが、乙は確かに慕っているが、それは恋とは違うのはでないかとも感じていた。
二人の間に劇的な何かがあった訳でも、流が圧倒的なカリスマを持っていた訳でもない。それでも、乙はあの初めて会ったときから、感じた想いは同じだった。
『貴方を、護りたい』
社会人になってからであれば、それを乙は言葉にすることが出来た。それは“忠誠心“という言葉が、彼の中では一番腹に素直に落ちた想いだった。恥ずかし気もなくその言葉を口にする乙に、流はいつも微笑んだ。
周囲から見れば、それを“愛”と呼ぶものかもしれない。
乙と流は、それで幸せだった。そして、それが続くと思っていた。
「乙、屋敷の中の使用人達は全員帰らせたな?」
「はい、理様のご指示通りにしております。しかし、警備の者達は大分不貞腐れておりましたが」
苦笑しながら、乙は告げた。その様子に、理もまた同じ反応を見せるが、とても余裕のある感じではなかった。
「俺は、駄目な男だ」
「理様?」
「これほどまでに、覚悟がいるものとは……大事な人が巻き込まれる覚悟が、これほどのものだとはおもっても見なかったんだよ。自分が死ぬことよりも、最愛の女性と最愛の娘が、こんな愚かな事に巻き込まれるかもしれないと思うと……それだけで、身体が震えるんだ」
四十にもなる男が自らの肩を抱きしめ、身体の震えを止めようとする姿は、滑稽に映るかもしれない。しかし乙は、優しく主人の頭を撫でた。まるで、孫の頭を撫でて安心させるように。
理は、子供の頃は良く泣いた。次期当主としての心構え、鍛錬、立ち振る舞いを先代から指導される時、上手く術が発動しない時、彼は酷く泣いた。
小学校にも満たない子供には、怖かったのだろう。普通の子供であれば、魔法が使えればと考えるだけで楽しくなる。だが、理は空想ではなく実際に扱える上に、感覚を覚えるのが早かった。
結果として、力が暴走するということも珍しくなく、よく身体を傷つけた。
“もうやだ……”
鍛錬の時間から逃げて、屋敷の物置等に隠れている理を乙はいつも見つけていた。そしてしゃがみ込むと、泣き止むまで頭を撫でた。
“おとは、どうしてボクのいるところ、しってるの?”
泣き腫らした目を擦りながら、いつも不思議そうに理は乙に聞いていた。乙は優しく微笑み、いつも同じ答えを返していた。
『貴方の事が、大好きだからですよ』
多少の才はあっても、弱気で身体も貧弱。それが理に対する周りの評価であり、一つ下の弟の水樹は強気で豪胆であり身体も大きかった為、家の外では水樹が兄だと思われる事が多かった。
特に成長してからは、水樹は天真家との繋がりを持つようになったのに加えて、天真の他の分家から嫁を貰い、長男も授かった。
周りから向けられる当主としてのプレッシャーに、理は潰されそうになっていた時、彼女に出会った。尾藤彩菜は、理と大学の同級生であった。彩菜の明るく包容力のある性格に、理は惹かれた。そして、二人は恋に落ちた。
二人は若く無鉄砲で、そして理は現実から逃げるように、彩菜に縋った。彩菜も理を受けれた結果、彼女は大学在学中にお腹の中に子を授かった。もし、彩菜が“目覚めし血脈”であれば、今後の事について話し合えばそれで良かったのかもしれない。
しかし、彼女は能力者ではなかった。
天真家には、分家に守らせているいくつかの縛りがある。その中に、『能力者同士に限り、婚姻及び子をなすことを認める』という縛りがある。そして天真の縛りを破りし場合、その縛りの重さによって対処が変わるが、非能力者との間に子を作るというのは、相当に重い罪となった。
理が頼る先は、地道家の中で一人しかいなかった。幼少の頃より、常に自分の味方であり、魔力の扱いを教わってきた師でもある兎古野 乙。
天真の“縛り”を破り、愛する人との間に子を成したという理の報告を聞いた時、乙は当然その軽率な行動に苦言を呈した。下手を打てば、地道家という家筋が天真によって滅ぼされる可能性すらある行いであり、叛逆と言っても良い程の重大な違反行為だからだ。
しかし、乙は内心では異なる想いを抱いていた。それは、理に対する賞賛である。行動自体は褒めるべきことなど有りはしないだろう。将来のことや、現状の自分の立場から逃げた結果として、起きたのだから。
それでも、憎むべき天真に逆らっているのだ。これほど痛快な事はなかった。しかし、ここで乙も予想外の事が起きてしまった。彩菜が突如として理の前から消えてしまったのだった。どのタイミングでかは不明だが、理が乙へと電話しているときに、話の内容を聞かれたらしい。
この時に理は、当然の如く取り乱した。身重の、そして未だ結婚もしていないパートナーが消息を絶ったのだ。急ぎ調査に乗り出そうとしたところで、乙がそれを止めた。
“乙! 何故だ! どうして探してくれない! 乙は、俺の味方じゃないのか……”
涙を流し、怒鳴りながらも声は最後には萎んでいく理に、乙はゆっくりと説明した。
最近の理の様子がおかしい事で、地道家の者が訝しがっていると。更には、他の天真家からの縁談を断っている事もタイミングが悪く、ここで何かしらの行動を起こすことは掟破りが露見する可能性が高いと、理が理解するまで幾度となく説明した。
そして、最後にいつも、乙はこう締め括るのだ。
『天真は、簡単に人を殺しますよ』
それから、十年の月日が流れた頃、偶然にも理は彩菜を出先の街で見かけた。
彩菜の手には女の子の手が繋がっており、楽しそうに笑っていた。すぐにでも駆け寄ろうとする理の腕を乙が強く掴んだ。弟の水樹はその場に居なかったが、乙以外の使用人も側には控えていたのだ。
理は、歯を食いしばる。今ここで駆け寄ることで、危険に晒すのはあの二人なのだ。降り続く雪の様に、天真への怒りは理の中で積もり続ける。
乙は、理の想いが暴発しないように、ここで行動に出る事にした。すでに周りも、地道家の次期当主として水樹の息子である大炎を育成している為、理への関心も薄れている。理に許可を貰い受けると、乙はあの街へと足を運んだのだった。
あの二人と、出会うために。





