傍観者
新宿三丁目駅の改札口から外へと出てくる人々は、空を見上げていた。天から落ちる雨粒は、天気予報通りに夕暮れから降っているものの、然程強く降っているわけではなかった為、割と傘を刺さず足早に目的地へと歩く者も多く、ルーカ・レオーネもその中の一人だった。
駅から三分程歩いた場所にあるビルの一階に、『onlooker』と書かれたレトロな看板を掲げる扉があり、その前に辿り着くと、ルーカは軽く肩に付いていた雨粒を払い、扉を押して入っていった。
店内に流れるカントリージャズや、レンガ調の壁に貼られている古い映画女優のポスターは、アメリカの禁酒法時代を彷彿とさせ、その雰囲気はイタリア人のルーカも気に入っていた。
「いらっしゃいませ」
「マスター。今日も、おまかせで頼むよ」
カウンターの前に座るなり、ルーカがバーテンダーにそう告げると、マスターと呼ばれた日色雅はルーカの顔をじっと見た。
「かしこまりました」
『onlooker』のバーテンダーでありオーナーでもある日色は、若く見られるが30代半ばのイタリア人であるルーカより年上である。日本人は童顔に見えるらしく、ルーカは日色をまだ二十代だと思っている。しかし、それはこの店にくる日本人も含めた大半の客が思うことでもあった。それほどまでに、日色は若く見えるのだ。
ツーブロックにしながら頭の上で艶のある黒髪を縛り上げ、切長の目は程よい危うさを見るものに印象付ける。しかし、物腰や口調はやわらかく、声だけを録音させて聴かせられれば、どこかの貴族に使える執事だと思えるほどだ。
『onlooker』は、所謂隠れ家的バーで人気の店だった。店の佇まいは勿論だが、何よりこの店の特徴は、“おまかせ”で作られるカクテルだった。クチコミで来客した者や常連客は、まず日色に“おまかせ”で頼む。そして作られるカクテルは、不思議とその時の気分に合わせたものが出されていた。
悲しみたい者は、綺麗に泣けるように。
喜びたいものは、幸せを抱きしめるように。
怒っているものは、刀のように研ぎ澄ませるように。
そして、目の前に出されたカクテルを一口飲んだルーカは、僅かに目を見開いた。そして微笑んだ。昼間、彌太郎に実質倒され負った心の傷が、その一口で癒される様だった。
そんなルーカの様子をみて満足そうな顔をしている日色は、目線を入り口の扉へと向けると、新し
い訪問者が扉を開けた所だった。丸い眼鏡をかけた老紳士は、同じく日色に“おまかせ”を頼むとルーカの隣の席に腰掛けた。
「今日は、此処に来るだろうと思ってましたよ」
「風神さん、今日は助かったよ」
風神の言葉に苦笑しながら、ルーカは礼を述べた。その言葉に風神は微笑みで返すと、日色がリズム良くシェイカーを振る様子を、二人して静かに眺めた。
今日はこの時間には珍しく、店内にはルーカと風神の二人の客しかいなかった。その為か、いつもにも増してジャズに合わせるかのように、日色の振る腕がしなって見えた。
そして出されてたカクテルの説明を受け、風神が口に運ぶとやはりルーカと同じ表情になっていた。風神が、カクテルをひとしきり味わったところで、それを見計らう様にルーカが口を開いた。
「今日此処に来たのは、偶然かい?」
「半分半分、と言ったところでしょうかね。ルーカ君に会えたら幸運だな、ぐらいの偶然ですね」
「昼間の事を聞きに?」
「そうですね。時雨君とルーカ君のコミュニケーションについての、詳しい話を聞きにね。君、あの後直ぐに二階に行ってしまうから、話を聞けなくてね」
「女の子達に慰めて貰わないと、立ち直れそうになかったからな。すぐさま戦闘狂の爺さんに質問責めとか、本気で勘弁。と思ってたのに、此処で捕まるとはツイてない」
大袈裟に頭を項垂れながら、ルーカは嘆息を吐いた。風神が聞きたいという昼間の事とは、勿論彌太郎とビルの屋上で戦った時のことであった。あの時、彌太郎の手刀がルーカの背中を貫く間際、風神がその腕を止めていた。
ルーカが再び口を開くまで、風神は静かにカクテルを飲みながら待っていた。風神もこの店の常連である為、この店の雰囲気を楽しみながら座っていた。
「風神さん、昔にエヴァと戦ったことがあると言ってたろ」
「えぇ、それはルーカ君も同じなのでは?」
「俺の時は、戦ったと言うより遊ばれたに近かった」
「私も同じようなものでしたよ。本気にさせる前にこちらの内包魔力が尽き、そうなれば勝負になりませんから。それまでは、そうなる前に即座に決着を付けることが出来たのですが、ギルマスには無理でしたね」
結果として負けた話をしている筈だが、風神は愉しそうだった。相手にすらならないと落胆し、それでも諦めずに技術を高めていた矢先、昨日の世界改変による魔素の突然の発生は、これまでの自分とは格別する程の力を感じた。内包魔力量自体に変化は起きていないが、魔力消費の効率は驚くべき程に上昇していた。加えて空気中の魔素を取り込むことにより、魔力の補充も可能になっていたのである。
これを、笑わずにいられるだろうか。それは、風神にとって無理な話だ。風神とは、そういう男なのだ。
「おい、不良爺さん。牙が見えてるぞ」
「おっと、これは失敬」
戦闘狂に呆れながらも、手に持つグラスの中身をルーカは喉に流し込む。
「今日の俺は、これまでの俺とは別の存在と言える程に力に溢れていた。身体を巡る魔力は髪の一本一本まで伝わる様で、正直負ける気はしなかった。俺とて先祖返りとして、その辺の目覚めし血脈共に遅れを取るつもりは全くないが……帰還者ってのは、何なんだ?」
「確かに、これまでは帰還者とは“強き者”ぐらいの認識でしたが、私もそれを改めねばならないでしょうね。全ての帰還者がそうなのかはさておき、目の前で見た彌太郎君は、異質というか……そうですね、“人種が異なる”と言う感覚が近いでしょうかね」
「“人種が異なる”か……風神さんが言うと、深く聞こえるな」
ルーカは風神の言葉に、笑みが溢れた。馬鹿にしたという訳ではなく、純粋に力を解放した風神の姿を思い出すと、“人種の違い”と言う言葉が可笑しく聞こえたのだ。
「風神さんは、特に人種が違うと感じないんだがな」
「それは残念ですねぇ」
風神もまた微笑むと、グラスの中を空にした。二人とも日色に二杯目を注文すると、待つまでの間はお互い一言も喋ることはなかった。
“人種が違う”
その言葉が、驚くほどに腑に落ちたのだ。
これまでも二人は、エヴァや彌太郎以外の帰還者と会っている。そもそも宿り木東京支部の支部長が帰還者である。しかし、十全に力を使える状態での帰還者と戦ったのは初めてだった。
それまでも帰還者に対して異質な感覚を持っていたが、力を行使している状態の彌太郎は先祖返りである彼らからしても、“同じ生物”とは思えない感覚だった。
「それでも……仕留められないという訳でもないか」
「それは、そうでしょうな」
「というか、これからはそういう奴らが俺らの相手になるんだろうなぁ。嫌んなるね、全く」
「私は、ワクワクします」
「どこのアニメキャラだよ」
「先ずは、今宵です。今日のような夜が、満月というのにも関わらず、雨雲が邪魔をしているのが不満ですが」
「今夜?」
風神の瞳が獲物を追う狼のようになり始めたとことで、ルーカが首を傾げた。特に自分は何も聞いていないが、横の老人はどうやら心を滾らす程の何かを知っているらしい事は察するが、正直そこに首を突っ込むかどうかは迷っている。そんな様子のルーカを察し、風神は上着のから携帯端末を取り出した。画面を操作してから、それをルーカに見せるようにカウンターの上に置いた。
「あ……そういうことか。今日、依頼を受ける気分じゃなかったから、依頼板を見てなかったな」
風神が表示させた画面には、ギルド【宿り木】への依頼表が映し出されていた。堂々とカウンターの上に置いているが、これはギルドメンバー以外は見ることが出来ない仕様になっている為であった。
日色もその仕様は知っている上に、視界に入っているだけで画面の内容を把握するには問題ない為、特に気にする素振りも見せていない。
ルーカが風神の携帯端末の画面を操作すると、依頼受諾者の項目で指が止まった。
「へぇ、早々に新副支部長殿も依頼を受けたんだな」
「どうやらそのようですね。千乃ちゃんと一月君と三人でということみたいですな。私とは別の依頼ですが、やはり天真家絡みの依頼ですか。今日のギルドへの依頼主は、天真の表と裏とどちらからもですが、対象は全て表天真家系統の人物ばかり。うちのギルドだけでなく、とにかく人を集めているらしいので、身内で抗争でも起きましたかな。いや、一斉に今夜から依頼が入るということは、これから起きる予定、というところかも知れませんな」
「なるほど、それで機嫌良く呑んでるわけか。良いのかよ、これからあからさまに揉め事になりそうな依頼に向かうのに、酒なんぞ飲んじまって」
「これくらいは、呑んだうちに入りませんよ。それにマスターの作るカクテルは、不思議と酔いたい時しか酔いませんからね」
風神が日色に微笑み掛けると、日色も微笑みながら軽く頭をさげた。
「そうだった。だから傷心の俺は、マスターに酔わされている訳か」
酒には強い筈のルーカは、すでに気分良くほろ酔いになっていた。カクテルの二、三杯どころで、こんな状態にはあり得るはずもないのだが、日色の作るカクテルは特別だった。
風神が胸元から懐中時計を取り出すと、あと数分で二十二時を回ろうとしていた。
「さて、そろそろ依頼人の所へと向かいますかな。それでは、また」
立ち上がり会計を済ませた風神が、外へ出ようと扉を開けた際に店内に顔を向けた。
「ルーカ君を酔わせるのは、夜道で襲われても死なない程度にさせておいてください、マスター」
「どんな心配だよ、そりゃ。俺は今日、依頼は受けてないの。だから、襲われる理由もないの」
風神の言葉に、日色は微笑み、ルーカは呆れていた。そして完全に扉が閉まると、店内に一人残ったルーカは無言でグラスを空にした。このまま飲み続けるか迷うかのように、ルーカはグラスを指で回していると、一つ大きな嘆息を吐き、日色に勘定を頼んだ。
日色は特に引き留めたりする事なく、店から出て行くルーカに軽く頭を下げて見送った。時刻は二十二時を既に十分程過ぎたところだった。
そして『onlooker』の店内は、マスターでありバーテンダーの日色のみとなった。グラスを一つ一つ丁寧に磨く音が、不思議と店内に響いた。
「今日は、そろそろ閉めようかな」
日色は誰も居ない店内を見渡しながら呟くと、右手の指を鳴らした。その音に反応したかのように、入り口の看板の“open”の文字が消えていき“close”へと変わってく。BARが閉まるにはまだ早い時間帯であるにも関わらず、『onlooker』はこの日の営業を終えた。
いつも来ているバイトの青年と厨房を任している女性は、今日は来ていない。そもそも今日は二人に対し、店が休みである為に来なくて良いと伝えていた。連絡したのが今日の昼間であった為、急だったが二人ともに連絡がついたことは、二人にとっても幸運だった。
電話に出なければ、そのまま日色は店に出てもらうので良いかと思っていたからだ。
その場合、今夜起きる事に巻き込まれる危険性が高まる。特段彼らが巻き込まれ命を落としたところで、日色は悲しんだりするわけではないが、また人手を募集したり仕事の教育をし直すのを、面倒だと思うくらいは思うのではある。
日色はカウンターの足元にある小型の冷蔵庫から、中華クラゲのパックと缶ビールを取り出した。つまみと缶ビールをカウンターの上に置き、折り畳みの椅子を取り出し腰掛けると、さも楽しみにしていたと言わんばかりの表情で缶ビールの蓋を開けた。
「さてと……誰を視るか、迷うなぁ」
日色が右手を水平に空を薙ぐと、一瞬にして十数個に及ぶ映像が浮かび上がり、それはまるで家電用品店のテレビのショーディスプレイの様だった。もっとも、今のテレビは空中に浮くことはない。そしてそのテレビ画面の様な映像枠の上には、人の名前らしき表示も見てとれ、中には先程の風神やルーカの名前もあった。
左手に缶ビールを持ちながら、右手ではまるでスワイプするかのような動きをしている。そして実際に、日色が出した映像枠のいくつかが大きくなったり、小さくなったりもしていた。
日色雅は、BAR『onlooker』のオーナー兼バーテンダーであり、そして帰還者である。
彼が異世界へと飛ばされた際に、その身に宿した固有スキルは【鑑定】だった。
世界の壁を超えた際に、様々な状況で得られる力。“神からの贈り物”とも“魂の力“とも言われる固有スキルは、彼の行動原理とも言える欲求を形にした物であった。初めは相手の名前程度のものしか分からなかった彼の【鑑定】は、勇者として召喚された異世界で鍛え上げられ、死線を幾つも超えることで限界を超え、今の力にまで昇華した。
“知る”という行為にかけて、日色以上の者はこの世界には居ない。そして、勇者として救った異世界『カグラビト』においても、神を含めて最早彼以上に“知っている”者は居ない。人、物、理、ありとあらゆるモノを、魔王を討伐した後も異世界の地で【鑑定】した。
当然、ありとあらゆるモノということは、自分を彼の地に召喚した術である“勇者召喚陣”についても【鑑定】している。結果、彼は元の世界に異世界『カグラビト』の勇者召喚陣を“改良“し、この世界へと記憶も力も封印されていない状態で帰ってきた。
そして今、彼は何の因果か、旧友の遺したこのBARのマスター兼バーテンダーとなっている。
この世界に何が起き、誰が世界の理を改変したのか。そしてそれは、どの様な方法だったのか。そこにはどんな理由があるのか。
日色は、知りたかった。
そう、ただ知りたいだけだった。だから、彼は視るだけなのである。
日色は先程カウンター越しに風神の携帯端末も横目でしっかりと【鑑定】しており、“依頼“の内容も把握している。その為、二十四時からは風神の視点映像を楽しむと決めていたが、それまでまだ一時間余りあるこの余白の時に誰を視るかと、ビールを喉に流し込みながら他の視点映像を眺める。
そして、一人の視点映像の前で目が止まった。
この人物もまた、この店の常連であり、帰還者だった。当然、彼のことも『鑑定』しており、間違いなく日色的に面白い人物だと確信していた。
口に中華クラゲを運び咀嚼し味わいながら、そこにビールを流し込むという、家でリラックスしながらドラマでも見ているかのようにしている日色の瞳には、この国の特務機関“八咫烏“局長、七々扇律紀の名前が表示された画面が反射して映っていた。
どこかの打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた部屋で、白衣を着た男の顔が映し出されている。
今から目の前で何が起きたとしても、日色は何も動かないし誰にも知らせない。
その理由は、この店を引き継ぐきっかけの一つでもある、旧友が営んでいたBAR『onlooker』の意味と同じ。
正に、日色に相応しい名だった。
“傍観者"
彼は、今日も観ている。





