格率の時計
二年前の没話です。読み返した感想は「まったく面白くない」でした。しかし、勿体無いので期間限定で公開します。
読み飛ばして後書きの活動報告兼、新作告知だけでも読んでくれると嬉しいです。
目を覚ます。
柄のない天井を数秒間眺めた後、静かに起き上がる。薔薇色のカーテンを開けると窓の外から昇かけた太陽が僅かに部屋を照らす。時計はいつもと同じ時間を指している。
顔を洗い、服を着替える。
昨日作ったコルネットを焼き、無骨なケトルから深煎りさせたエスプレッソをカップに注ぎ、食卓に起く。木製のダイニングチェアに座り、朝食を始める。
砂糖をふんだんに入れたエスプレッソを口に含み、コルネットを頬張る。
食べ終えた食器を洗い、簡単に身支度を済ませると部屋を出た。
朝の4時半。
腕時計が示すその時間に、私はアパートの螺旋階段を降り、人気のないいつもの道を走り始めた。
今日も、いい天気だ。
朝のランニングを済ませ部屋に戻ると既に時計の針は6時を回っている。
簡単なランニングシャツからポロシャツに着替える。
まとめ終えてある鞄を手に持ち、棚から幾つかの魔法瓶と巾着袋。引き出しから何本かシースを取り出し適当なところに詰める。
紅茶色のキャスケット帽を被り、長く磨き忘れた革靴を履くと、再び部屋を後にした。
……また、何もない1日が始まる。
⌘ ⌘ ⌘ ⌘
電車に揺られながら、見慣れた車窓の景色を眺めていると、ふと脳内で音楽が流れる時がある。
その幻聴は、増えて行く乗客の雑踏とレトロな蒸気機関車が奏でるスチーム音を一緒に掻き混ぜて行く。
そんな音色に耳を傾けていると、ふと歌詞の一説が脳を霞む。
「Lascia ch'io pianga
mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà.
Il duolo infranga queste ritorte
de' miei martiri sol per pietà.
(どうか泣くのをお許しください
この過酷な運命に
どうか自由にあこがれることをお許しください
わが悲しみは、打ち続く受難に鎖されたまま
憐れみさえも受けられないのであれば)」
お気に入りの一節を口ずさみ、歌詞の意味を吟味しながら、さて何の曲だったかと誰何していると、目的地へ辿り着く。
殺風景な駅を一番乗りで降りていくと、吹き付けるアルプスからの冷たい北風が夏の終わりを静かに告げる。
私は再び同じ楽曲を脳内再生し、通い慣れた煉瓦風の道を歩く。
しばらくすると大学の門を潜る。
他の生徒達はオシャレな服で仲間内と戯れながら門をくぐっていく。実に楽しそうだ。
疼く心を抑えながら、私は今日も一人で講堂へ向かう。
もうすぐ一年生も終わる。
終業のベルが鳴ると、学生たちは講義の内容をまとめながら、仲間内で話を始める。
雑多な会話は波を広げ、次々と講堂から立ち去っていく。
大多数の生徒は昼からの講義に向けて食堂や売店に向かうが私はその波に逆らうように、一人校門へ向かう。
木々のさざ波は波紋し、宙に舞う葉に目をやりながら、木製のベンチに腰掛ける。
そのベンチにはすでに先着がおり、足を組みながら新聞を読んでいる。
黒い背広姿でネクタイをしっかりと締めた強面の男だ。一見この大学の講師のように見える。
他の生徒はベンチに座る二人のことなど意に介さないように、津々浦々へ青春謳歌の足取りを進める。
そして、何の予備動作もなく、声をかけられた。
「次の仕事だ。標的の資料と共に、前回分の報酬を入れてある」
「……」
私は何も返事をせずに、他人を装う。
「次回も期待している」
そういうと、男は新聞を折りたたみ気取りのない足取りでどこかへ歩き去って行った。
私は男のいた場所に残された茶封筒に手をやる。
資料と思われる紙束と、リラの札束が丁寧に置いてあった。
私はリラの金額を確認することもせず無造作に封筒ごと鞄に入れるとその場を絶った。
また、しばらく調査に掛り切りになるだろう。だが、そのサイクルにも慣れた。月に一度のことだ。
私は駅へ向かい、先程貰った札束から無造作にリラを引き抜いて切符を買う。
自宅とは違う、別方向への切符だ。
しばらく仕事に追われる。少しくらい遊んでも構わないだろう。
そう思いながら、退屈な人生にささやかなスパイスを加えるべく、私は電車に乗り込んだ。
⌘ ⌘ ⌘ ⌘
いつ来てもこの街はひどく居心地が良い。一体、誰がどのような目的で作ったのかと思わせるような入り組んだ迷宮都市だ。
廃棄されたこの街の至る所に人が転がっている。店先に売られているものはどこの既製品かと疑いたくなるような悪質な品ばかりだ。
そんな中を私は慣れたようにその街を進む。
まともな人間など一人もいない、無法地帯のこの街には様々な目的で人々が集う。
そんな中に紛れながら、被った帽子を目深にしながら、路地裏へ逸れる。
壊れた看板、割れた窓、人気のない建築物が乱立する。
傾き始めた太陽はガラクタばかりの道を橙色に染めている。
ふと、道の先に一人の人間がいた。
黒い肌をした女だ。
私は足取りを止めることなく進む。
すると、女は私に気がついたのか大袈裟に振り返る。
「alladhi?!」
訛りのあるアラビア語でシャウトした女は、咄嗟に袋を手に持っていた後ろへ回す。
僅かに白い粉が零れ落ちる。
安価な市場を求めてやって来た不法入国者の麻薬中毒者。問題ない。
よく見れば女の腹は不自然に膨らんでいた。妊娠でもしているのだろうか。なら、きっと夫に捨てられでもしたのだろうが、興味のないことだ。
女は慌てて懐から慣れない風に銃を突き出す。
私は腰に回したシースからナイフを抜き取り投擲すると、狙い数多ず女の震える手から銃を弾き飛ばす。
懐から抜き出した2本目を、女の心臓に深々と突き刺した。ゆっくりと血が滲み、引き抜くと弾け出た。そして、女は無抵抗に倒れる。
広がっていく血液の海。女は嗄れた声で何かを喘ぐと、間も無く絶命した。「死にたくない」わたしには、女がそう言っているように聞こえた。
死にたくない、なんて。
「……みっともない」
私はその光景を脳裏に焼き付ける。しばらくこの表情は見れないのだ、しばらくこれで抑えるしかないだろう。
死を見届けると、私は女の懐から財布を抜き取る。その際、膨らんだ女の腹に手が当たる。柔らかく温かい、まだ脈があるようだがそれも直に消えるだろう。
私は女の財布から使用したナイフと電車賃を拝借すると道端に捨てる。財布はゴミの山に紛れて見えなくなった。
元来た道を歩き、私はその場を後にした。
⌘ ⌘ ⌘ ⌘
家に辿り着くと荷物を整理し、すぐに風呂に入る。拭いきれなかった血液を洗い流す。赤い血はあっさりと落ちた。
丸めた返り血のついた服と昨日の分をまとめて湯につける。
服を洗い干し終えると夕飯の支度にかかる。
明日の分のパンを作り、サラダ、肉を用意する。簡単な夕食だ。
それを終えると私はロッキングチェアに腰掛け、リズムよく揺らしながらリラを確認する。
指定の金額通りだ。その中の幾らかを財布に移し、残りを金庫へしまう。使い道のない札束だけが無造作に閉じ込められた金庫は、減ることのない札束で詰まっている。
資料に目を通し終え、本棚から読みかけの本を取り出し。
淹れたてのコーヒーを傾けながらドミトリーの『コラ・ブルニョン』を開き、味読する。
1時間ほどして睡魔がチラつくと迷わず本を閉じる。
そして私はベッドへ身を預ける。
同じ生活の繰り返し。一定のリズムで乱れることなく、一歩ずつ確実に死への人生を歩む。
私はそんなことを思いながら静かに目を閉じた。
……また、何もない1日が終わる。
お久しぶりです。紡芽です。
久しぶりにこのサイトに飛んで、丁度一年前に書きかけてやめた作品の一話を見つけました。忘れていた書きかけの話に、どこか運命を感じて修正なしで投稿しました。
この「お久しぶりです」は今年出す予定の新作で言う予定でしたが、丁度いいのでここで告知しておきます。
12月くらいに前作『17エテルノの弾丸』に類似した起承転結全4(または5)話の作品を投稿します。
絶賛文章練り込み中です。記憶の片隅にでも留めていてくれると嬉しいです。
あ、ちなみに紡芽は元気に大学生活してます。
それではまた次作で。