2.現代の暮らし
その日の翌朝。俺は不安に苛まれながら階段を下りていた。
理由はもちろん、突然現れた正体不明の女・アニエスのことである。彼女は母が部屋を出た後、『あれは誰だ』と訊ね、俺の母親だと知ると、
『となればここの家主か? おおっ、こうしてはおられん!』
高々に声をあげ、部屋を飛び出して行った。
階段の下で何やら話しているようだったが、彼女はそれっきり戻ってはこず、俺はそのままベッドの中に潜り込んだのでコトの顛末を語ることは出来ない。
猿ビンタで脳みそが混乱していたが、落ちついて考えられるようになると、この状況は呑気に構えていられるものではないと感じるようになっていた。
おかげで、寝られたのか寝られてないのか分からない。曖昧な狭間の中で、気がつけば窓は白み始めた空を迎えていた。
階段を下りきると、食卓のあるリビングから賑やかな声が起こった。
『おおおっ、何ぞこれは!』
記憶に新しい女の声。リビングを覗き込むとそこには、何だ何だとテレビ裏を調べる女の姿があった。
「は、箱の中に人が入っておる! こ、こう言う魔物なのか!」
「あっはっは! それはテレビと言うもの――あら祐護、起きてたの?」
「む? おお、ユウゴか!」
アニエスは顔だけをこちらに向けた。
「この箱の中の人間は取り出せないのか! どれだけ薄っぺらい奴なのか、この目で見てみたい!」
「い、いや、中に人は入っていない……と言うか、えぇっと何と言うか……」
手を宙に浮かせるが、指先は行き場を見失っている。それに気付いた母は、
「アニエスちゃんは、うちで面倒見ることになったからね」
と、疑問の答えを口にした。
「え、えぇぇ!? ってか、家に上がり込んでいたことに疑問を持たないの……?」
「私も若い頃、夜中に男を入れたことあるからね」
母のそのような話、息子は聞きとうない。
ゲンナリと肩を落とす俺の前で、アニエスは腕を組み、うんと頷く。
「私から母君に頼んだのだ。あの猿が外に逃げたとなれば、一日や二日では捕らえられぬし――」
「られぬし?」
「この世界は驚くことばかりだ」
そう言って、母のいるキッチンやダイニングテーブルに目を向けた。
既に朝食を食べ終えたのか、俺の席の横には空になった皿が置かれている。
「触るだけで熱湯が流れる。触るだけで火がつく竈、中に入れれば冷たいものが熱々に熱される箱……見渡す限り、私が知るものは殆どない」
やはり、と俺は思った。時代錯誤な格好、ひいては腰に剣まで携えている。
アニエスは言わば、中世の時代からタイムスリップしたようなものだろう。
「そんなことなので、この世界に慣れるためしばし厄介になりたいと思う」
「う、うぅむ、まぁ仕方ない……のか?」
何か言いくるめられてしまったような気がするものの、右も左も分からない世界で猿を追うには危険だし、理由としても尤もだ。それにしてはまったく動揺した様子が見受けられないが。
「アニエスっていったい何者……?」
「何者と言うのは、役務のことと認識していいか? 昨日も話したが、私は国境警備隊――魔物どもを領内に入れぬよう、国境線で見張りをしている」
「ま、魔物!?」
「そうだ」驚きを隠せない俺の様子に、アニエスは緑色の胴衣を揺らしながら腕を組んだ。「母君から聞いたが、この世界にはおらぬらしいな」
「あの猿も、もしかしてモンスター……魔物なの?」
アニエスは頷いた。
「奴は〈殴り猿〉と呼ばれ、夜な夜な家に忍び込んでは金品を盗んでゆくケダモノだ。昨夜、うちの兵舎に忍び入り、兄上から預かっていた大切な〈喚び出しの杖〉を奪ったのだ」
「じゃあ、それを追ってここに?」
「うむ。……いや、気がつけば来ていた、と言った方が正しいな。奴を追い詰めたと思ったその時、足下に魔法陣が浮かび上がったのだ」
そして気がつけば、俺の部屋にやって来ていたと言う。
いわゆる“転移”というものだろう。だが今はそんなことより、雲を掴むような彼女の話の中、これだけは解決せねばならない問題が一つある。
「あの猿、俺の財布を盗んでいったんだよ!」
「それはどうでもいい」
「よくないわっ!?」
こいつは自分本位と言うか、かなりドライなのか……?
命あっての物種とは言うものの、俺にとって金を失うことは、いやこの街に暮らすすべての高校生にとっては大問題なのだ。
朝食を摂り終えた俺は、制服に着替えて学校へと向かう。
アニエスは家に残っている。『学び舎に通っておるのか』と興味津々だったものの、『しかし、まずこの世界につい知らねば』とのことだ。
家の外は“日常”だけが広がっていた。商店街を抜け、学校に繋がる道のどこにも、彼女の言う“モンスター”なんてものはいやしない。
学校に向かって歩く白いカッターシャツやセーラー服の一団に混じり、校門をくぐる。しかし教室へは向かわず、俺は校舎の裏に向かって歩いていた。
そこには十メートル四方の菜園があった。
【菜園部および料理部の畑。勝手に持っていくべからず】
雑な字で書かれた看板の横にあるジョウロを手に取り、日陰に置いてあるポリタンクから水を汲む。
そしてそれを、畑に植わっている枝豆、トマト、ピーマン、シシトウ、キュウリなどの、実り始める夏野菜に与えてゆく。
「大きく育てよー」
日差しを受けキラキラと光輝きながら滴り墜ちてゆく。これが俺の日課、たった一人だけの部活動なのである。
額に浮かぶ汗を拭い、ふうと一つ息を吐いたその時、校舎裏に大きな女の声が響いた。
「おーい、祐護ーっ!」
よく響く声の主は、熊井 正佳――小学校からの幼なじみだ。まだ顔は見えないものの、よく日に焼けた肌とこの日差しの中を駆けてくるのは一人しかいない。
「正佳、また寝坊か?」
「あはは、ちょっと二度寝しちった」
ニカッと屈託のない笑みを浮かべながら、セーラー服の袖で顔の汗を拭った。
まだ六月にも拘わらず小麦色に焼けた肌、黒々とした短い髪の毛は寝癖でボサボサ。ボーイッシュと言えば聞こえはいいが、良くも悪くも“がさつ”な女子だ。
「作物はどうだ? そろそろ収穫できそうか?」
「んー、そうだな……トマトは色がつけば、シシトウは大きいのは収穫できるかも」
「そうか! シシトウなら、まずは天ぷらだなー」
正佳は宙を見上げながら、うんと頷いた。
この畑は料理部との共同、そして彼女がその部員なのである。
「正佳が来る時間ってことは、もう三十分回ってるのか……ちょっと職員室に行かないと」
「職員室って何かやったのか? なぁ、なぁっ」
楽しげに詰め寄ってくる正佳。
「わ、悪いことはしてないからな? 昨日の夜、盗みに入られて財布盗まれたんだよ」
「財布って、えぇぇ!? ま、まずいじゃないかそれっ、夏休みどころか留年しちゃうじゃん!?」
留年。それが財布・金を失うことの大きな問題だった。
ここは商業高校であるが、世間一般的な商業高校ではない。
金を稼ぐことを何よりとされており、各学期の終わりまでに一定額を稼いでいなければ、あっさりと留年させられてしまうのである。
「ほんと散々だよ。見知らぬ女が現れたかと思うと、いきなりうちで寝泊まりするって言うしさ……」
「女が?」
正佳が片眉をぴくりと上げたその時、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
「あ、ヤバっ! ちょっと職員室に行ってくる!」
「あ、う、うん……」
俺はカバンを拾い上げ、校舎に向かってたっと駆け出した。




