1.猿ビンタと異世界からの女
寝ていたところをビンタで起こされる、なんてことは誰にでもあるだろう。
そして一生に一度ぐらい、人ではなく猿に起こされることもあるだろう。
「ウキッ!」
あるだろうか?
「……」
あるのかもしれない。
俺はそう結論づけ、薄らと開いた目を閉じた。……が、
「キッ!」
パシッと音と共に、頬に小さな痛みが走った。
俺はまた目を開く。
藍色の夜の中。やはりそこには、胸の上で馬乗りになり、満面の笑みを浮かべる猿がいた。
顔はニホンザルに近いが身体はそれより一回り大きい。どこかの軍団から逃げてきたのか、赤いベストを羽織っている。
「なんで――」
「キッ!」猿は再びビンタする。こちらの質問は許さない、と言うかのように。
理不尽さと混乱の中、猿は俺の寝間着の襟首を掴みながら真横の窓を指さした。誘導されるように目を向けるが、そこは網戸が閉じた一般的な窓しかない。
だが、言わんとしていることは分かる。
「……開けろ、と言うのか?」
「ウキッ!」
猿は返事をした。反抗すると喉笛を噛みちぎられそうなので、命じられるまま腕を伸ばし網戸に指をかけた。
金属が摺れる耳障りな音と共に、新鮮な夜の光が広がりを見せてゆく。半分ほど開かれると猿は俺から離れ、嬉しそうに窓の縁に手をかけた。
目の前の出来事が現実なのか。俺は頭だけを持ち上げ確かめるも、目に映るのはやはり猿であった。赤いベストの背には、薄紫色の宝石が輝くステッキが据えられていることに気づいた。
ひょっとしたら猿使いによる、新手の押し込み強盗なのか……?
「……」
目は無意識に机の上の財布に向いていた。
「キ?」
妙な動きに気付いたのか。猿は縁に手をかけたまま、反射的に振り向いていた。
そして、机の上のそれに気付いたらしく――
「キキキーッ♪」
「ま、待てっ! それだけは――ぶッ!?」
腕を伸ばすが猿はまたビンタをし、目にも留まらぬ早さで財布をひったくる。
そして身軽に窓から飛び出し、夜の向こうに消えてしまった。
「……」
呆然と、猿が消えた藍色の向こうを見つめるしか出来ない。
しばらくしてから、網戸を閉め、窓を閉め、施錠をし、掛け布団を顔まで被った。
今は六月の末。布団の中が汗ばんでくるが、そんなことに構っていられない。
とりあえず寝て、『これは夢だった』となっていればいいのだ。再び瞼を閉じ、深く息を吐いた。
しかしそれから、幾ばくもしない頃――。
『Ghw !?』
背後の方から、どすっ、と何かが落ちた音がした。
『B , Bn nrdym......』
侵入口を調べていなかった。物音からして進入路は屋根裏、やって来たのは猿の飼い主だろうか。布団にくるまっていてよく分からないが、たぶん外国人のようだ。
『N......?』
侵入者はベッドの上の俺に気付いたらしい。背後から、チャリ、チャリと金属音を立てながら歩み寄ってくるのが分かった。
不意打ちに布団をかぶせて、その隙に逃げようと思ったが、武器を携行しているとなるとそれも危険だろう。
となれば――
『Hy !!』
寝たふりをしよう。
『Hy !! Hy !!』
身体を揺さぶられる。
声からして若い女のようだ。深夜、部屋に忍び込んだ異国の女の子に起こされる、なんて夢のようなシチュではあるけれど、今は夢であって欲しい状況だ。
『Hmm......』
女は小さく唸った。そして衣擦れのような音を立てたかと思った矢先、左側頭部に硬いものが乗せられ――
ゴリュッと音と共に激痛が走った。「うぎゅああッ!?」
飛び起きるとそこに、右脚を上げた状態の女が立っていた。
鉄靴のようなものを履いていて、その踵でプロレス技よろしくとばかりに擦られたのだろう。どこかの世界ではご褒美かもしれないが、今の俺には拷問である。
「な、何するんだ馬鹿ッ!?」
じんと痛む左側のこめかみを押さえながら、女を睨みつけた。
年は二十代半ばぐらい。つばの広いハットから金髪が流れ、革の肩当てがついた丈の長い上着、そしてその腰から剣と思われる柄が覗いていている。―― 一言で現せば、ファンタジー映画に出てくるような格好だった。
「Br Mymn !! Mymn nry gtt !!」
陰影がハッキリした鋭い目をつり上げ、俺の胸ぐらを掴みながら強くまくし立てる。
「ぶ、ぶら……?」
英語ではない。外国語は明るくないけれど、まるで聞いたことのない言語だった。
「Gmm......」
言葉が分からず困惑しているのが伝わったのか、顎に手をやり歯がみしている。
しかしすぐに
「H , b d ? rw !!」
と思い出したように、腰に据えてあるポーチから細長い小さな筒を取りだし、それをぐっとあおった。
苦虫を噛みつぶしたような顔をした後、女はゆっくりと口を開いた。
「あー、あー、言葉が分かるか?」
「えっ!? あ、ああ、わ、分かる!」
何と先ほどとはうって変わり、彼女は流暢な日本語を喋り始めた。
「よし! お前に聞くが、ここに猿が来たか?」
「き、きた!」
「そうか!」彼女は声を弾ませ、剣に手をかけた「それはどこにいる!」
俺はおそるおそる窓を指差す。「外に出たがっていたので……」
「何だと?」
薄ぐら闇の中でも彼女の表情が険しくなってゆくのが分かった。
そして突然また、両手で俺の胸ぐらを掴み上げ、
「猿の言いなりになったのか! 男のくせに、抵抗もせず!」
「猿ビンタで起こされたら誰だってそうなるわ!」
「ぐぬぬぬぬ……!」
悔しそうに襟首を締め上げられる。
されるがまま不快な息苦しさを味わっていたが、埒があかないからか、突然ふっと緩められた。
「……奴は、〈喚び出しの杖〉を持っていたか?」
「〈喚び出しの杖〉……? む、紫の宝石がついたステッキなら……」
聞くなり彼女は「くそったれ!」と呪詛を吐き、手袋越しに親指の爪をぎりぎりと噛み始めた。
しばらくそうしていたが、彼女はやがて部屋を見渡し始めた。
「しかし、ここはどこなのだ? 狭くて臭いが」
「う、うるさい! 勝手に部屋に侵入しておいて、人の部屋にケチをつけるな! てか、何モンだお前は!」
「む、人に名を尋ねる時は先に名乗るのが筋であろう」
「俺は守屋 祐護だ」
自己紹介すると彼女は真っ直ぐ居直り、胸に握り拳を当てた。
「我が名はアニエス・ルセブル。レヌ領・トャーランの出、今はルネケラズの国境警備に努めている」
「る、ルネ……?」
「知らんのか? まぁ、かなり辺鄙な場所だからな」
アニエスと名乗った彼女の言う国名は、恐らく地球上には存在しないだろう。それは身なりからして分かる。
仮に『映画の撮影中だ』と言われれば納得もゆくが、先ほどの剣幕からしてそうとは思えない。
「それで、ここはどこなのだ? 湿っぽいが、クラディア地方ではあるまい」
「え、えぇっと、何と言うか……に、日本?」
「ニホン? 聞いたこともない名だ。――お前の着ている服が、ここで着られているものか?」
「服? Tシャツのことか?」
「“てぃーしゃつ”と言うのか。チュニックにしては薄いし、そこに奇妙な絵を描くなど見たことがない」
アニエスはベッドに膝を乗せたかと思うと、おもむろに俺のシャツの裾を握り締め始め、
「ちょ、ちょっと!?」脱がせようとしてきたのである。
「ええい動くな! 何も身ぐるみすべて剥ぐわけではないのだ!」
目的のためなら手段を選ばないのかもしれない。
乱暴に胸元までまくり上げられ、いよいよ剥ぎ取られると思ったその時――
『祐護。アンタ何騒いでいるの!』
部屋の外から、母の不機嫌そうな声がした。
そして、「もう夜中の三時――」と言いながら、部屋の扉を開いた。
「……」目の前の光景に固まる俺。
「……」目の前の光景に固まる母。
「……」誰だ、と言う目で睨むアニエス。
ほんの数秒のはずなのに、何分も、何十分も過ぎているような錯覚を起こしている。
「ちょ、ちょっと防衛戦を……」
寝起きと混乱で、そう言うのが精一杯だった。
しかし母も理解したのか、アニエスを一瞥して小さく頷いた。
「タイトルは奪われるものよ」
「違う!? そっちの理解は示さなくていいから!?」
母は聞く耳持たず、優しくそっと扉を閉めた。




