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とある特急電車内での話

作者: 海原海苔糊

特急電車の良いところは、目的地まで早く着けることだが、悪いところは一駅の間隔が長いことだ。

しかし、間違って乗る必要のない特急電車に乗ってしまった人以外、悪いところを認識する人はいない。

なぜなら、それは悪いことになり得ないからだ。

なんてことを間違って乗った特急電車で目的の駅をすっとばした時に考えていました。



文学フリマ短編小説賞



泣いている大人の男は、下手したら動物園のパンダに匹敵する程の求心力があると知ったのは、つい今しがたのことだ。


パンダとの一番の違いは、観客が笑顔になるかどうかというくらいで、三者三様の見方でその男の泣き顔を覗き見ている。


耳まで赤く染め、声を上げまいと歯をくいしばるたびに、全身の細胞の隙間という隙間から絞り出された水の奔流が、涙腺を唯一の出口と定め、押し寄せてくるかの如く、眼球を潤す透明な粒となって押し出されていく。


男の、少々普通より酸素の吸い方が大袈裟になっているフリをするための決死の努力が実を結んだのだろう。

男を挟んで右隣に腰掛けている若い女性は自分の隣で巻き起こっている興行に全く気がついていないようで、スマートフォンの画面に釘付けになり、よっぽどしつこくこびりついた油汚れでもあるのか、夢中で人差し指を上下に動かしている。


左隣で競馬新聞を読み耽っているのは、でっぷりとした贅肉を、ズボンの上に大胆に乗せている中年の男だ。眼鏡を作って何年も経っているのか、顔幅よりだいぶミニマムなフレームの上下にも中年男の堂々たる脂肪が添えられている。


その様が余計に泣く男の特異さを際立たせているというのに、意図せずパンダの引き立て役を引き受けたということを、この二人はなぜ気がつかないのか。

観客の視線を全く感じない神経の図太さというのは、舞台俳優か曲芸師には必要なスキルかもしれないが、どう考えても今発揮すべきものではない。


お前たちがこそっと男に駅前で配っているテレクラのティッシュの一枚でも渡してやれば、一気にかたはつくんだ!と叫びたい気持ちになる。


私の鞄の底には昼間にコンビニで唐揚げを買った際にもらった紙ナプキン。

くしゃくしゃだが新品未使用だ。

だが、私が席を立ち10メートルばかり歩いて男にこれを手渡したとして、泣く男にとってそれがどれほどの羞恥を呼び起こすのか、計り知れなさすぎる。

ただでさえ、たっぷりと水分を含んでいる代物だ。

これで涙を拭いたとして、もし紙ナプキン越しに涙が滴り落ちることにでもなったら、いよいよ見世物として大一番を迎えるに違いない。

仮に男が泣き止んだとして、オーディエンスの熱気が白けることに対して、とてもじゃないが責任を負えない。


そうこう考えているうちに、中年男が不自然に新聞に顔を近づけて読み始めた。

初めからそうであったなら、近眼の可能性も浮上しただろうが、オーディエンスの心は一致した。


即ち、お前ついに気がついたな、だ。


ただし、なぜ中年男が顔を隠す必要があるのか。泣いてもいない上に眼鏡というフィルターを常備しているお前が。


中年男は新聞で顔を隠し隣の男を覗き見ているが、なんという資源の無駄遣い。

そこは、隣で泣く男にそっと新聞を差し出すべきだろう。

その一面に乗っているレースは今日の昼過ぎに終わったもので、それを読んだとて終わったレースに賭けることはできんのだぞ。

年内の大一番はそのレースで全て終わりで、今目の前で展開されている泣く男がどうなるのかが残り少ない今年の最も熱い勝負の一つと言っても過言ではない。


相変わらず、男は泣いているし、右隣の若い女はまだ画面の汚れの範囲を拡大させ続けているし、左隣の中年男ははみ出した顔の脂肪を隠すのに必死だ。


オーディエンスはそんな3人に釘付けだし、中にはこそこそと何かを話しているカップルもいる。

泣く男を中心とした、左右10メートルに乗り合わせた人々にとって、次の停車駅が、それはそれは長く感じられた。


ようやく運転手のアナウンスが流れ、次の駅までもうすぐだということがわかる。


一際重い胴体を、やっとの事で駅に滑り込ませた特急電車は、安堵の息を吐くようにその扉を開き、体内に溜まった老廃物を一斉に放出した。

泣く男もまた、首筋から耳まで赤く染めた後ろ姿を見せつけ幕引きとなった。


男がいなくなった車内は、いつも通りのありふれた、誰もお互いを意識することのない静けさが戻った。







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