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春宵の月  作者: 日次立樹


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3/6

春の夜は宵心地

さらさらと、柔らかい布の擦れるような音。ふわり、と頬に感じる風。

かすかに甘い香りがする。花のような…。窓を開けっぱなしにしていただろうか?覚えていない。確認しなくちゃ。ああでも、あと少しだけ。眠いんだってば。


ふふ、と誰かが笑った。その人は俺の耳元に口を寄せて、また笑う。誰だろう。瞼が重くて開けられない。

「桜が咲きましたよ」

女だ、と思った。

「どうぞ花見にいらしてくださいな」

ぼんやりと浮かぶ影に、頷いて見せる。彼女はふわりと俺の髪を撫でて、どこかへ行ってしまった。



夕方、テレビを見ていたら桜についてのニュースがあった。そういえば誰かが桜が咲いたといっていた気がする。

誰だったかなあ。ここ2,3日は家にこもりきりだったから、心当たりといえば編集の彼くらいしかいないのだが。女性だった気がするのだ。もしかしたら、執筆中に聞き流していたラジオの中で誰かが言ったのかもしれない。

この近辺で桜といえば、何処だろうか。最近は暖かい日が続いたから、もう咲いているかもしれない。見に行ってみようか。



頂きものの高いビールを数本、それからいつものネタ帳を持って外に出る。

目的地は公園だ。あまり普段は利用されていない小さなところだが、春だけは花見客が集まるから、そこに桜があることは知っていた。俺は人混みがあんまり好きじゃないから、そこで花見をしたことはない。


3月の終わりとはいえ、日が暮れてからは肌寒かった。

夜空は灰色にくすんでいて、目を凝らすと飛行機の明かりが点滅しているのが分かった。

月にはぼんやりと影がかかっている。明日は雨だろうか。今日でなくて良かった。寝不足の上に天気の悪い日は頭痛がするのだ。


ふわりと甘い匂いがした。桜だ、と咄嗟に思う。桜の匂いなどというものの記憶が、自分の中にあったことに驚いた。

あたりを見回すと、知らない場所にいることに気づく。いつの間に。


ゆらり、足元で何かが揺れた。

視線を落とすと、真っ黒な生き物が俺を見つめ返してきた。金色の瞳。

「なんだ、猫か」

返事をするように、影は鳴いた。ふふ、と誰かが笑った。

影はするりと俺から離れると、数メートル先まで走り、振り返った。

「…?」

立ち止まったままの俺を急かすように、影がまた鳴く。

試しに数歩進んでみると、また影は数メートル走り、振り返って俺を見る。

「案内のつもりか?」

猫の集会でもあるのだろうか。

どうせこれ以上迷子になったって夜中だ、人が見ているわけでもない。もしかしたらついて歩くうちに知っている場所に出るかもしれない。そしたらそこで帰ることにすればいい。

そう考えて、俺はその黒猫についていくことにした。


明確な目的もなく夜の街を歩くというのは不思議と高揚するものだった。

LEDの蛍光灯の青白い光は幻想的で、一層現実味を感じさせない。肌に感じるかすかな風と、運ばれてくる花の香りだけが本当のことであるようだ。


そんなに長い距離を歩いたわけではなかった。いくつかの角を曲がって、見えてきたのは白い鳥居だった。

石でできた灰色の鳥居が星明りに照らされてほの白く浮かび上がって見えるのだ。

鳥居の向こうには暖かいオレンジ色の明かりがともっていて、ざわめきが聞こえる。


影は最後にもう一度俺を振り返ってから、するりと鳥居をくぐった。

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