春の夜はよいごこち
本編です。
がらがら、ぴしゃり。
玄関の閉まる音を畳に寝っ転がって聞いた。
ぱたぱたと軽快な足音をさせて彼が駆けていく様を想像する。
書き上げたばかりの原稿の入った封筒を両手で抱えて走るのが彼の癖だ。いつもそうなのだ。それでいて転んで台無しにしたという話は聞かないから、器用なことである。
ぼうっと天井を見上げる。蛍光灯の明かりがちかちかと光って目に優しくない。
昨晩は一睡もしていない。ずっと原稿を書いていたからだ。締め切りは今日だった。筆が乗ると一気に書いてしまうたちだから、仮眠もとらなかった。
俺はしがない物書きだ。ちょこちょこと雑誌の仕事を貰って書きはするが、本なんてめったに出さない、というか出せない、大したことのない男だ。その大したことのない男でも、何かたいそうなことをやり遂げた気になれるのだから、全く締め切り明けの朝というのは素晴らしいものである。
「あー、眠い」
ひたすら眠い。当たり前だ。
徹夜明けなのだから、このまま眠ってしまったからと言って罰は当たらないだろう。
もし編集の彼が転んだら電話がかかって来るかもしれないが、さすがにそれは起きられると思う。何もかもいったん放り出して、本能のままに惰眠を貪ることにした。




