ある貧乏神の話
ある男が座って居た。町の人々は、その男をとても迷惑そうに、鬱陶しそうな顔をして見ていた。男は、人々の視線は気にしていないようだったが、いつも恨めしそうに、何か一点をただじっと見つめていた。ある人は物珍しいものを見たように男へと話かけるものもいるが、男は何も喋らず、何も言わないため大抵は肩をすかして男の前から立ち去ってしまう。
そんな日を繰り返し繰り返し、もう何年繰り返しただろうか、男は何も喋らず、何も言わないから知る由もないが、とにかくずっとこの場所に居た。人々は、いつしかその男の事を文鎮さんと呼ぶようになっていた。
文鎮さんは、暑かろうと、寒かろうといつもと変わらない同じ格好で、いつものように、同じ場所にじっと座り一点を見つめていると、文鎮さんの目の前に影が写った。文鎮さんは、かすかに男を見上げたような気がしたが、何せ町の人々が鬱陶しそうな顔をして見る程の男である。開いているのか閉じているのかわからないまぶたでは、見当がつかない。
「こんにちは!いい天気ですね。」
当然のことながら、文鎮さんは無反応だった。
文鎮さんにとっては、天気などさほど…というより、季節の移り変わりですら無反応なのだから、天気の事など、至極どうでもいいことだった。
「やあ、鳥が二羽飛んでるなあ。夫婦なんだべかな。」
男は、訛りのある言葉で文鎮さんに話しかける。が、文鎮さんは無反応である。
「あっちでは、花が咲いてるべ、綺麗だなあ。」
男は、いちいち感激しながら大げさに話しかけている。鳥が二羽飛んでいようが、綺麗な花が咲いていようが、世の中には何一つ影響をもたらすものでは無い。それをこの男は、さも初めて見たもののように話すのだから、文鎮さんは、呆れていた。いや、文鎮さんの表情からは呆れた顔や嬉しい顔などは、読み取れないが文鎮さんが呆れているであろうという事は、想像にかたくない。
文鎮さんは、表情一つ変わらないまま一点を見つめているだけだったが、訛りのある男は文鎮さんの態度に怒った様子もなく、かといって呆れた様子も見せなかった。それどころか、次はどんな話をしようかと考えていた。文鎮さんは男を一瞬横目で見たが、興味無さそうにすぐに前を向いてまた一点を見つめた。
「文鎮さん。貴方は何故文鎮さんと呼ばれでいるのですか?」
文鎮さんの表情が少しだけ、険しいものになった。自分が、町の人々から“文鎮さん”などと呼ばれているのは、とうに知っている。同じ場所から動く事はないから、“文鎮さん”と呼ばれていても間違いではないし文鎮さん本人ですら、密かに納得している呼び名である。
しかし、改めて文鎮さんの呼び名のルーツを聞かれると、文鎮さんもあまりいい気はしない。呼び名を認めているが、あくまで認めているだけなので、文鎮さん本人の感情や心中というのは複雑だった。とはいえ呼ばれたところで、返事をすることもないが…やはり妙なあだ名というのは面白いものではない。
文鎮さんはじっと黙って一点を見つめたまま、また動かなくなってしまった。男は、文鎮というよりお地蔵様ではないかと、ふと思ってしまった。文鎮さんに、お地蔵様みたいですねと、言ったらどんな反応をするのか。男は、見てみたい気持ちになったが、あまり神経を逆撫でするのは良くないと思い。「さようなら文鎮さん」と言って帰ることにした。
文鎮さんは、答えるでもなく男の方を見ないままただただじっと一点を見つめていた。
訛りのある男が、自分のところに来たのはいつだったか。文鎮さんは、ふとそんなことを考えていた。昔を振り返るなんてずいぶんしてなかったことだし、意味の無いことのように思えたからだ。ただ、あの訛りのある男のことがふと気になった。顔立ちは幼く見えるが、それなりに歳を重ねた男なのだろう。この町にいる人間にしては身なりがずいぶんと汚かった。かえって身なりが汚かったことが、文鎮さんの記憶に残ったのだろう。この町の人間は、文鎮さんを避けて、馬鹿にして、罵ってきたというのに何故あの男は、話しかけてきたのだろうか。余程、文鎮さんの事が物珍しく見えたのか。訛りのある男よりも文鎮さんの方がみすぼらしく、滑稽に見えたからだろうか……こんなに物事を考えたのは、いつだったか。相も変わらず無表情で、無感情だったが文鎮さんの頭の中はフルに活動していた。
けれど、活動している頭の中とは打って変わって文鎮さんの身体は、じっと座ったまま動かないから、町の人々はてっきり死んだのではないかと、文鎮さんの目の前で手を振ったり、指をパチンと鳴らしてみたり、耳元に声をかけたりしたが、無表情のままだったから、感情はわからないが毛のフサフサな眉毛をかすかに動かし反応を示した。生存を確認したことで、一安心した町の人々は、また文鎮さんに呆れつつ首を傾げ去っていく。どこからか、嘲笑も聴こえたが自分には、関係のない問題だから放っておくことにした。
文鎮さんが、いつものように一点を見つめたままぼうっとしていると、文鎮さんの皺だらけの耳に、いかにもみすぼらしいおそまつな草履の音が聴こえてきた。歩いているだけで、藁がぼろぼろと、道に落ちていく。賑やかな町の音には、似つかわしくないなんとも寂れた足音。
「ああ。いたいた文鎮さん、ごんにちは」
文鎮さんは、まぶたをかすかに動かし男を見た。訛りのある男は、以前よりも身なりが汚くなっており、年齢よりも若く見えた顔もなんとなくやつれているように見えた。前に声をかけてきた時がいつだったか、覚えてはいないが、その見た目と訛りは覚えていた。文鎮さんは、話をする訳では無かったが、少しだけ安心している自分がいた。何故そんな気持ちになったのかわからないが、男の顔を見て安心していた。
男は、文鎮さんが思っていたとおり以前よりも服やら草履やらがぼろぼろになっていたし、元気というか覇気のようなものが、なくなっているように感じた。目の奥の光りみたいなものも濁っているようにも見え、身体の方があまり快調ではないのではないかと思った。
「お久しぶりだす。文鎮さんは、相変わらずこごで座っているんだっぺな。」
訛りのある男の声は、綺麗とは言い難い声だったが、声色も少ししゃがれていた。文鎮さんは、男の姿を改めて見回して見て見た。背丈…はあまり高くないようで、細身というよりは、痩せ気味で、健康体とは言えない体格、肌は浅黒くて、身体と着物のあちこちに土埃が付いている。
「…お前さんは、何処から来た…」
文鎮さんは、何年、いや何十年振りかに口を開き声を発した。長い間この町に住んでいる人ですら、会話はおろか声を出している文鎮さんを見たことはないであろう。久しぶりに発した声は、聴こえるか聴こえないかくらいの音量だったが、耳の方はハッキリとしているらしく男は文鎮さんの言葉をしっかりと聴いていた。
「文鎮さんは、そんな声しでたんだなあ。俺ァ嬉しいです。俺ァこの町に住んでるんではなぐて、もっと遠い村に住んでいます。」
「……何故来た?」
「はァ、この町に来だのは商いする為です。」
「……」
「…俺ァの村は、貧すくで物があっでもあまり商売にならんのです。んだば、町さ出て商いしだ方が稼げるんです。」
男は、商いに使うのであろう野菜やちょっとした金物、藁で編んだ笠などを文鎮さんに見せた。しかし、野菜はあちこち傷んでいる上に形も大きさも歪で、金物は錆び付いていて物を切るにも、物を煮るにも使えるような代物には見えなかった。おまけに、藁で編んだ笠なんか藁の編みかたが雑で、雑な加減が手作りの良さと言ってしまえばそれまでだが、そこそこ栄えているこの町で、売れるかといえば恐らく売れないだろう。野菜も上質なものが農家から手に入るし、金物にしても一級品の品が揃えられる上に藁でなくても、もっと上等な笠もある。商いに来るには、相応しくない場所である。
商いをするだけなら、もっと場所があるだろうにと文鎮さんは思った。とはいえ町自体はたくさんあるが、大きい町があるかといえばそういう訳でもなかった。宿場町は昔見た覚えはあるが、この町ほどの規模の町はなかったような気もした。そう思えば、ここで商いをするのはあながち間違いではないのかも知れなかった。
「ああ。文鎮さんも良がったらお一つ如何ですが」
そう言って、形の悪い野菜なのか果物なのかわからない物体を差し出してきた。形状からして丸いというのはわかる…が、野菜か果物かと問われれば、正しく答えられるのは果たして何人いるのだろうか。ただ、形が悪いだけで傷んでいる訳でもなく色が悪いこともなかった。
文鎮さんは、別段腹が減ってはいなかったが、野菜か果物なのかわからない物体をまじまじと見つめた。物体を指で撫でるように、触ってみると表面にはざらざらとした感触があり、その部分を軽く押してみると、ほのかに甘酸っぱいような香りが漂った。
「…これは、蜜柑かい?」
「はァ、仰る通りですだ。あんま形は良ぐねえけども味は保証済みだべ」
男は、少し誇らしげに言った。文鎮さんは皮を、剥いてみると確かに橙色のした果実が姿を表した。これは、紛れもなく蜜柑だった。形が悪い割には、匂いは悪くない。歪な丸の房から一つ剥がして、口に入れる。薄皮の部分は硬くなくて、果実の粒の一つ一つがしっかりしていた。噛んでみると、酸味の中に甘味もあり、みずみずしくて美味だった。文鎮さんは、気に入ったのか、次々と口へ運んでいく。そうしてあっという間に一個平らげてしまった。
「どうだったべか?美味かったが?」
文鎮さんは、無表情だったが満足したとみえて、男も嬉しそうな顔をしていた。しかし、肝心の品物の方は売れていないようで文鎮さんに渡した蜜柑以外は、手付かずの状態だった。
「お前さんは、いつも商いをしているのかい?」
「いえいえ、いつもは農作業とか畑仕事しているんだども、収穫の時期さなったら商いもしてるんです」
あまり売れないんだども…と男は頭をかきながら付け加えた。
「…お前さんはなんでこの町で商いをしようと思った?」
「えっ?」
男はそう言いながら、考え込んでしまった。
うーん、うーんと唸りながら男は、文鎮さんの質問に答えようとしていた。その様子を文鎮さんはじっと眺めていた。
「そうだなあ…この町はでかいし、人も沢山いるし、賑やがで明るぐて楽しいんです」
そう言って男は、はにかんだ。文鎮さんは人の心からの笑顔というものを久々に見た。この町をいく人々は、笑っていて楽しそうだが、心の底から出ている笑顔をしているのは、果たしてどれだけいるのだろうか。文鎮さんは恨めしそうにそんな人々を見つめているだけだが。
「じゃあ、文鎮さんはなんで、この町にいらっしゃるんですか?」
「……」
文鎮さんは、男の方を少し見上げて、すぐに前を向きぼそぼそと呟くように
「お前さんには、あまり関係のないことだよ…」
と、返答した。普通の人間ならこの辺りで自分の前から立ち去ってしまうのだが、どうやらこの男は違っていたようだ。
「…文鎮さんには、何かこの町にいなければならない理由が、あるんだっペ。うん、そうに違いない」
男は、うん…うんと言いながら一人で納得していた。この男は、少々思い込みの激しい面があるのかもしれない…文鎮さんは思った。
「…ところで、お前さんはいいのかい?」
「?」
いい加減、男と長話をするのが億劫になってきた文鎮さんは男に質問をした。自分が、男の商いを邪魔しているなら、悪いとは思うし自分のせいでこの男が、今日の分の稼ぎが出来ないとなっては、この男の家族にも申し訳ない…と、ここまでの気持ちは本当で、先に思った億劫という気持ちも文鎮さんの本音だった。本当に人と長時間会話をしたのは、何年振りかの事だし、自分が声を発したのも随分と無かった。
そのせいか、疲れのような症状も出てきていた。この男といると、症状が悪化しかねない。
文鎮さんは、ここから立ち去るつもりは無かったから、男に立ち去ってもらおうと考えた。
「あ。いけねえ!忘れでたべ。つい…文鎮さんと話しが出来たのが嬉しぐで」
文鎮さんは、細くて小さな目を白黒させた。
「お前さん…オイラと話したいって随分とお人好しなんだねぇ」
「俺ァ、人と関わるのが好ぎなんです。色々んな人と話したり、触れ合ったりするのが好ぎなんです」
人と関わりたがる奴がいるなんて、なんて馬鹿な奴だと思った。人なんてのは、都合の良いことで喜び、すぐに手のひらを返し、体裁を繕い、他人に媚びて批判して、嘘を吐きおよそ自分には救えないどうしようもないものだと決めつけていたから、この男の言葉が妙に文鎮さんの心に響いた。なんとなく暖かいような、むず痒いような不思議な気持ちだった。
「お前さん…名前は?」
「は?」
「名前だよ、お前さんの名前を聞いているんだよ。まさか、名無しの権兵衛じゃないんだろう?名前を聞いているんだ」
「はァ、俺ァ忠吉ってモンです」
「忠吉かい…立派な名前じゃないか」
「はは、はあ…」
忠吉と名乗った男は照れくさそうに頬を掻いていた。
「お前さんの…持ってきた物はそれで全部かい?」
「えっ?」
「いちいち聞き返すんじゃないよ…それで全部かって聞いてんだよ…」
「えっ?は、はァ…今日はこれで全部です」
「買ってやるよ…いくらだい?…」
「え、は、はァ」
「いちいち驚くんじゃないよ…全部買うんだよ…代金はいくらだい?」
「いやあ、文鎮さんからはお代頂けねえ。全部持っていって下さい」
「お前さん今なんて言った…」
「お代は、結構で。タダで持っていってくだせえ」
「お前さんは馬鹿かい?タダで持っていってどうするんだい…オイラの身なりを見てそう言ってんなら、余計なお節介だよ…」
「ああ。いやいや、違うんだべ。そうじゃなぐて本当にタダでいいんです。」
この忠吉という男は、どこまでお人好しなんだろうか…文鎮さんは、寒気というか戦慄というか何か気持ちの悪さを感じた。良からぬ事を企んでそんなことを言っているのか。何か悪意を持っているのか、はたまたもっと別のナニカなのか、文鎮さんには全くわからなかった。忠吉という男の言っている意味を、解釈できずにただただ困惑していた。
「お前さんは…何か企んでいるのかい?」
たまらずこんな質問をしてしまう。
「企むなんで、そんなまさが」
はっはっはと、忠吉は笑いながら答えた。
「俺ァ、嬉しかっだんです…俺ァ達が一生懸命作っだモノを気に入ってくれる人がいで、美味しい、ありがとう、って言っで貰えるだげで俺ァ、十分幸せなんです。…だがら持っていってくだせえ。それが俺ァの気持ちなんです」
「だからって、全部って事はないだろう…なら、オイラが食べた蜜柑代は払ってやるよ…」
忠吉は、それすらも断り、いいんですタダで持っていってくだせえ、の一点張りだった。
それでも、文鎮さんは全部はいらないと、突っぱねたのだが忠吉も一歩も譲らず持っていってくだせえ、いらないの押し問答になっていた。
「お前さんも、いい加減頑固だね…オイラ疲れちまったよ…そこまで言うなら、全部持っていってやるよ。だからお前さんはとっとと自分のとこへ帰んな…家族が居るんだろう…」
「文鎮さんこそ、頑固でたまげたもんで。」
忠吉は、嬉しそうに答えた。しかし、
「俺ァ、恥ずかしながら一人モンなんです」
「……」
「嫁も子供も居たんだども、俺ァがしっかりしでながったから随分前に、嫁が若い男の元へ行っちまっで…それがら子供ど暮らしてたんだども、流行り病で逝っちまっで…」
忠吉は、寂しそうに答えた。
「人ってのはいつか死ぬ…そういうモンだよ。…子供はまだ小さかったのかい?」
「四つになったばがりで…」
「そうかい…」
それっきり、文鎮さんから言葉は無かった。
お互い、無言の時間が続いていた。文鎮さんは、相変わらず座っているし、忠吉はただ立ち尽くしていただけだった。二人の間には時間だけが過ぎていく。
「だども…」
不意に、忠吉が口を開いた。
「俺ァ、自分が不幸だっで思った事は一度もなかっだんです。俺ァの家は貧しぐで、おっ父も早ぐに死んで、おっ母が必死で俺ァ達を育ててくれで…」
「……」
「だがら…俺ァ落ち込んだり、へこたれたりできないんです。おっ母に申し訳が立たなぐて」
文鎮さんは、黙って話を聴いていた。頷くわけでも、何か答えるわけでもなかったが忠吉の気の済むまで、話を聴いてやった。おそらく、忠吉はこれまで、身の上話などあまりしたことがなかったのだろう。表面上は明るく見えて何も考えていない、お気楽そうなこの男にも辛い過去があったのだ。文鎮さんは、それを吐き出せるなら、まあ良いかという想いもあった。
「すんません…俺ァのつまらない話なんがしてしまっで」
「別に…好きにしたらいいさ」
忠吉は、文鎮さんの言葉に嬉しそうな、けれど困ったような、泣きそうな顔をしていた。
「…代金代わりと、言っちゃなんだけどさ」
「?」
「どうせお前さんはまた来るんだろう…次はもっと美味いモンを持ってきなよ…来たら、またお前さんのつまらない話をいくらでも聴いてやるよ…」
その言葉に、忠吉はまた嬉しそうに笑った。
文鎮さんの表情も少しだけいつもよりも明るく見えた。
それからも、二人は何度か顔を合わせていた。しかし、当初は忠吉も頻繁に文鎮さんに顔を見せていたのだが、季節が、一度、二度…と巡っていく度に、忠吉が町へ来ることが少なくなっていった。文鎮さんも、昔よりも社交的になっていたのだが忠吉が、顔を見せる頻度が減ってからまた、無口で、無表情で無関心な文鎮さんに戻っていった。そんな日が続いたある日忠吉は数ヶ月ぶりに、文鎮さんと顔を合わせた。
忠吉は以前よりも遥かに、痩せこけており顔色が明らかに悪くなっていた。元々、身なりは汚かったが、それにさらに拍車がかかっていた。
髪もボサボサで、まるで浮浪者のような風体だった。
「お久しぶりです。文鎮さん、元気だっただか?」
忠吉の声も、大分聞き取りにくくなっていた。それは、文鎮さんが老いたのではなく忠吉の声量が落ちていたからだ。元気そうに声をかけてきたが、かなり辛そうな声色だった。
「随分と久しぶりだね…お前さんまた痩せたんじゃないかい?ちゃんと食ってるのかい?」
「はあ…最近不作であんまり作物が、出来なくで」
ははは…と笑っていたが、前のような軽快さが薄れている。
「お前さん…具合悪いんじゃないのかい?…」
「え?そうですが?俺ァあんまり気にしたことねえから…元々痩せてる方だし」
「……」
身体を使って、痩せた訳ではないことは明白だった。言葉は元気でも身体の方はというと、肌も浅黒くて腕も足も枯れ木のように細くて身体全体にまるで覇気を感じないのである。
「お前さん、医者にかかってないのかい…?」
「お医者さん?いやあ、全く。生まれでこのかた大病したこどないのが、自慢なんです」
「そうかい…」
文鎮さんは寂しそうに呟いた。
「…お前さんに、一つ言っておかなきゃいけないことがある…」
忠吉は、文鎮さんの思い詰めた雰囲気にただならぬものを感じ、しっかりと話を聴くことにした。文鎮さんは、忠吉をちらりと見て、ぽつぽつと話を初めた。
「お前さんの、身体の不調と貧乏の原因はね…オイラのせいなのさ。オイラと会ってから、野菜が作れなくなったとか、身体を壊しやすくなったとか、身内や知人に不幸が起こっただろう?」
「いやあ、そんなごとは…」
「気を遣わなくていいんだよ…本当の事なのさ。わかるんだよオイラには…オイラは、貧乏神なんだから」
忠吉は、文鎮さんの言葉を黙って聴いていた。文鎮さんが、自分を騙したり、嘘を吐いて語っているとも思えず何も言葉が返せなかった。忠吉にも、思い当たる節はあった。文鎮さんの言った事は、忠吉の周りでほぼ起きていたしまるで見て来たような発言も当てはまる。
「みんなそうさ…オイラと関わるとみんな不幸になっちまう。オイラは、ただ居るだけで不幸なヤツなのさ」
「文鎮さんは…貧乏神なんかじゃ…」
「お前さんも、貧乏神に関わっちまったのが運の尽きだったね…」
文鎮さんが、寂しそうにそう言った。
「俺ァ、自分を不幸に思った事はないですよ」
「それは…前に聴いたよ。今の話はオイラと会ってからの話をしたんだよ…」
「今もです。俺ァ…確かに野菜も作れなくなってるし…身体もなんだか重ぐで、つれえけど」
「……」
「けど、おっ母が言ってたんです。貧乏でも不幸でも、自分に何もなぐでも、それは自分の外側ばっか気にすてるがら何もない気持ちになるんだっで。肝心なのは、自分の中だっで。」
「自分の中…」
「んだ。足りないものじゃなぐて、あるものを見るようにしろっで。ないよりもあるを思えっで、自分の中のあるものに感謝の気持ちを忘れないように生ぎろって言ってましだ」
「あるものってなんだい…?」
「それは、色々ですよ。お天道様だったり、雨だったり、畑だったり、友達だったり、着物だったり、おっ父とおっ母の息子に生まれてきたことだったり…数えたら、キリがねえです」
忠吉は、にっこり笑って答えた。文鎮さんは呆れて「なんだいそりゃ…」と言いながらもこの変わり者の男をついに嫌うことはできなかった。
文鎮さんは相変わらず、ずっとこの町でこの場所で座っていた。あの日忠吉と会ってから四度ほど季節が巡った。しかし、忠吉が文鎮さんの前に姿を現すことは、ついになかった。あの後、忠吉は「また来まず。今度は美味しい蜜柑を持っで」と笑顔で言って文鎮さんと別れた。
しかし、それからしばらくして、風の噂で忠吉が死んだという話を聞いた。なんでも、忠吉の姿が見えないのを心配した村の人が見に行った所、自分の小屋で倒れており、村の人が見つけた時には既に息を引き取っていたらしい。
忠吉の周りには蜜柑が転がっており、とても良い形をした素晴らしいものだったという。文鎮さんは、蜜柑を剥き一粒口に入れた。蜜柑はとても甘くてみずみずしくて美味しかった。文鎮さんは寂しそうな、悲しそうな顔でいつまでもいつまでも蜜柑を見つめていた。