5.
窓の外にポツポツと建物が見え始めた頃になって、電車はゆっくりと速度を落とし始めた。次第にホームが姿を現し、車両が完全に停車する。二人は大慌てでドアの前に立って、開ききる前にホームへ飛び降りる。少しの時間も無駄にしたくなかった。だから二人はいそいそと改札を抜け、街を駆け回った。駅前にあった大人びた服を売った店へ入ってみる。一度こういうとこで服を買ってみたいんだよね、なんて言いながら意気揚揚と値札を見て、ちょっぴり落ち込んですぐに店を出た。どうやら中学生にはまだ早過ぎたらしい。主に、財布の中身的な意味で。今度は隣のクレープ屋でイチゴとバナナのクレープを一つずつ買った。一口ずつ交換しあって、深雪はやっぱり自分もイチゴクレープにすれば良かったと思った。ところが明日香はバナナクレープにすれば良かったと零した。それがおかしくてちょっと笑った。そういえば、現代文のメガネをかけたハゲの先生がこんな慣用句を言っていた。隣のかきゃカカ……噛んだ。落ち着け、私。と……隣の客はよく柿食う客だ!言えた!っと喜んでいると、明日香から、それを言うなら隣の芝生は青いだよ、と笑われた。そう言えばそうだったような気がする。他人のものは良く見えるものだということわざだ。そんな訳で二人はクレープを丸々交換して食べることにした。そうしたら、今度はやっぱりバナナクレープの方が良かったように思えた。本当に隣の芝生は、青い。某ネコ型ロボットが主役の漫画で、ガキ大将に追いかけられ必死で逃げるメガネ君の顔くらい真っ青だ。
「深雪ちゃんは、どうして、神社に来るようになったの?」
突然、明日香がそんなことを尋ねた。ガキ大将からボコボコに殴られるメガネ君を想像していた深雪は、慌ててその光景を振り払う。どうして神社へ来たか。それは以前にも明日香から尋ねられた質問だった。今なら答えが出るかもしれない。そう思ってしばらく考えたが、やはり結果は同じだった。特段理由はない。強いて言うなら──
「強いて言うなら?」
明日香が言うので、深雪はちょっと驚いた。心を読まれているのかと思いきや、知らぬ間に考えていることを言葉として自ら発していたことに気付いた。少し恥ずかしくなって、顔が熱い。
「強いて言うなら、明日香に会いたかったから、かなぁ」
「何それ」
冗談でも聞いたように明日香は笑ったが、深雪が真剣な表情をしていたことに気付いて、すぐに笑うのをやめた。さっき、明日香が自分の前で泣いてくれたからだろうか。深雪は、なんとなく失恋した時のことを話してみようと思った。
「好きな人がいたの。野球部の人で」
明日香は、黙っていた。深雪の覚悟、と言えば大袈裟かもしれないが、何かそういうものを感じてくれたらしい。深雪はなんとなく嬉しくなって、話を続けた。
「でも、振られちゃったんだ、明日香と初めて会った、あの日」
そうだったんだ、と明日香は呟いた。しばらく沈黙が続いて、どういうとこが好きだったの、と明日香が尋ねた。ちょっと考えてから、小学校の時の話だけどね、と深雪は口を開いた。
「運動会のリレーで、私、アンカーだったの。こう見えても、結構足速い方でさ。それで、一個前の人から一位でバトン貰って、そのままゴールまで走った。だけど……ゴール直前で靴ひもがほどけて、それ踏ん付けて転んじゃったの。格好悪いでしょ? そのせいで、結局最下位」
深雪は笑って話したが、明日香は笑わなかった。真面目に聞いてくれていると分かって、心が温まる思いだった。明日香は、笑顔じゃなくても人を元気付けられるんだと知った。やっぱり、敵わないなと思った。
「私、無茶苦茶恥ずかしくて。でも、転んだことより、恥ずかしかったことより、クラスのみんなにそのことで文句言われるのが、一番辛かった。せっかく一位だったのにって。でも……その人だけは、私を味方してくれた」
「……優しかったんだ」
うん、と頷いて街をテクテクと歩く。いつの間にか店が途切れる辺りまで来ていて、二人は構わずにそのまま歩き続けた。線路沿いの道に出て、踏切がカンカンと鳴り響く。すっかり薄暗くなった街は、街灯に照らされながら今日の役目を終えたように息を潜め始めている。道行く人々も段々とその数を減らしていた。
「告白、したんだ?」
明日香の問いに、深雪は首を横に振った。
「じゃぁ、どうして失恋なの?」
「女の子と……街を歩いているのを見たの。ちょうど、そこら辺、かな」
今来た道を振り返り指差しながら、深雪は笑った。それが自分で、切ないのを誤魔化した微笑みだと気付いていた。
「でも……分かんないじゃん、それだけじゃ。たまたま、街で見掛けて声を掛けただけかもしれないし」
「ううん……手、握ってたから」
ゆっくりと俯いて、そっか、と明日香が呟いた。切ないね、と付け足して、明日香は小さく笑った。あの元気をくれる笑顔だった。深雪もまた、同じように笑ってみる。そうしたら、心の疼きが少し和らいだ気がした。しばらく無言で歩いていると、いつの間にか駅からだいぶ離れた場所まで来ていることに気付いた。明日香もほぼ同時に気付いたようで、戻ろっか、と言った。頷いて踵を返す。今来た道をもう一度踏みしめて歩く。数日前まで、好きだった人を見掛けて切なさを感じるだけだった通りも、今は明日香と二人歩いた記憶がそれを埋めてくれた。まだほんの少しでしかなかったけれど、前へ進めるような気がした。そして、そう思わせてくれる明日香の笑顔に感謝した。
「明日香の笑顔を見てるとね、凄い元気になるんだ。どうしたら、明日香みたいに人を元気付けられる笑顔を作れるようになるんだろう」
すると明日香は右手の人差し指を立てて深雪の口元に翳した。何かまずいことを言ったのかと思ってバツが悪そうにしていると、明日香は微笑みながらこう答えた。
「笑顔は、作ろうとして作る物じゃないよ。幸せだと感じたら、自然と溢れる物なんだよ」
妙に納得して深雪は頷いた。確かにそうかもしれない。笑顔は工場で作られる大量生産品でも何でもない。気が付けば込み上げてくるものなんだ。馬鹿なこと尋ねた自分の言葉がなんだか情けなく思えた。照れ隠しに舌を出して笑うと、明日香はピン、と深雪のおでこを弾いた。地味に痛くて涙が出そうになる。それを見て明日香が微笑んだ。
「でも、私は貰ったよ」
何が、と尋ね返すと、明日香はやはり笑顔で答えた。それはおそらく今日一番の笑顔だったに違いない。ドキッとして、自分が男の子だったら間違いなく今の瞬間恋に落ちていたんじゃないかと思った。
「元気。深雪ちゃんの笑顔から、ちゃんと貰ったよ」
得意気に明日香が言うものだから深雪は嬉しくて思わず笑った。明日香も同じように笑った。段々とテンションが上がって、笑い声は大きくなっていく。絶滅危惧種となりつつある数少ない通行人が、不可解そうに二人を睨みながらすれ違った。頭がおかしくなったと思われたかもしれない。でもそんなことお構いなしに笑う。嬉しい、楽しい、そんなありきたりな形容詞なんかじゃ今の心境は表現出来なかった。幸せ、確かにそうだがそんな一言で済ませられる程度の感情ではない。どれくらい幸せかっていうと、オランダの首都がアムステルダムじゃなくてハム捨てるダムだと思っていた自分の間違いに気づきひとりで大笑いしていた小学校三年の秋なんか比べ物にならないほど幸せだ。何のこっちゃ分からないかもしれないが、それは深雪にとって今までで一番笑ったと思われる大事件だった。真剣だ。大真面目だ。笑う門には福来たるというくらいだ。そう、笑えることは、幸せなことなんだ。さっき明日香だってそう言っていたじゃないか。笑顔は、幸せだと感じたら溢れるんだって。なんか、もっと格好良い言い回しだった気がするけれど。こういうとき、自分の記憶力の悪さを呪いたくなる。それにしても、笑い過ぎて涙が出てきた。視界に映る街灯の光が滲んでキラキラと眩しい。顎が疲れて重たかった。だけど溢れだす笑顔はいつまでも絶えることなく、二人の表情を彩り続けていた。