喫茶店
セーラはジョンの手を引き、街の喫茶店のドアを開けると、店内を見まわした。
今日はニコラスと、ジョンの服やおもちゃを買いに行く約束をしていた。
奥のテーブルに座っているニコラスの姿を見つけ、セーラはそちらへと向かった。
ニコラスはいつもの乞食服ではなく、少しカジュアルな普通の服を着ていた。
髪もそれなりに整え、無精ひげもちゃんと剃っている。
また親友のクレメンスから借りたのだろう。
セーラは数着ほどニコラスの服を仕立てたのだが、ニコラスはそれを後生大事に仕舞い込んでしまい、着ようとしてくれない。
何度も着るように言ってはみたものの、「服はクレちゃんから借りればいいんだよ。減るもんじゃないし」と全然取り合ってくれないのだ。
クレメンスに申し訳ないと、ニコラスが借りた服を返しがてら、クレメンスに謝ったが、クレメンスは「ニコが普通の格好をするようになるとはな」と笑うだけで、気にもとめていない様子だった。
クレメンスは細かいことをあまり気にしないというよりは、いちいち目くじらを立てていてはニコラスと渡り合えないとよく理解しているようだ。
最近ではセーラも、ニコラスの図々しさに関しては、半ばあきらめの境地に達していた。
ニコラスのテーブルの横を若いウエイトレスが通りかかった。
「ねぇ君」
ニコラスは呼び止めると、ウエイトレスを見上げる。
前髪がふわっと揺れる。
「オイラに気があるでしょ?」
形のよい唇から飛び出したとんでも発言に、セーラの足が止まった。
ニコラスはいきなり何を言いだしてるのだろうか。
いつも予想外の発言に晒されているセーラでさえ、驚きの発言だった。
「さっきから、オイラのことチラチラ見てたよね? 隠しても無駄だよ。オイラには何でもわかっちゃうんだ」
ニコラスは、真っ赤になって首を横に振るウエイトレスを覗き込むように、不敵に笑いかけた。
セーラは息をのんで、その様子を見守る。
ニコラスは、一体どういうつもりなのだろう。
いつものお得意の言いがかりなのだろうか。
それとも、ウエイトレスがそのような素振りをしたのだろうか。
まともな格好をしたニコラスは美男子だ。
蠱惑的な灰色の瞳、鼻筋のスッと通った顔立ち、青みがかった柔らかな黒髪。
黙っていれば、どこぞの貴公子にも見えなくもない。
そう、黙っていれば……。
「デートぐらいならしてあげてもいいよ」
ニコラスは魔性の笑みを浮かべ、ウエイトレスをじっと見つめる。
セーラはジョンとつないだ手に力を込めた。
「母たん?」
母親の異変に、ジョンは不思議そうにセーラを見上げたが、セーラはそれどころではなかった。
ニコラスがナンパをしている。
セーラという妻がいるのに。
しかも、ニコラスはここでセーラと待ち合わせしているのだ。
セーラが来ると分かっていながら、堂々とナンパをしている。
信じられなかった。
「オイラ、博愛精神旺盛だから、貢いでくれるなら誰でもオッケーなんだ。特に、君みたいな可愛い子ちゃんなら大歓迎さ」
ニコラスはまるで歌でも歌っているかのように、テンポよくしゃべり続けながら、真っ赤になって戸惑っているウエイトレスの手をとる。
「デートはいつにする? 場所はオイラが決めていいよね?」
矢継早に問いかける。
ウエイトレスはうつむきながら、恥ずかしそうに身体をくねらせている。
「明日の晩は空いている? ちょうどオークションがあってね。垂涎モノの出展があるんだ」
ウエイトレスは顔をあげ、きょとんと首をかしげた。
「もちろん、オイラのために競り落としてくれるよね?」
極めつけの一言に、目を丸くしてニコラスの顔を見つめる。
ニコラスはニタァと、いつもの気味の悪い笑みを浮かべると、立ち尽くしているセーラの方を向いた。
「セーラ。どうしたの? 早く座んなよ。そんなとこにいつまでも立ってたら、疲れちゃうよ?」
ニッコリと小首をかしげる。
セーラは半眼になり、ニコラスを睨みつけた。
「父たん」
ジョンは緩んだセーラの手を振りほどき、両手を前にかかげるようにして、ニコラスに向かって、よちよちと歩き出した。
ウエイトレスはハッとし、慌ててニコラスの手を払いのけると、そそくさと逃げるように店の奥へと消えていった。
「ジョン。いい子だねぇ」
ニコラスは、とろけるように顔をほころばせ、ジョンを抱き上げると、膝の上にのせ、頬ずりする。
ジョンは「キャッキャッ」と大喜びだ。
セーラはニコラスの前に仁王立ちになり、無言で見下ろした。
「セーラどうしたの? こわーい顔して。ねぇジョン。お母ちゃん、顔コワイねぇ」
ジョンの顔を覗き込むようにして言う。
「こあーい。こあーい」
ジョンは上機嫌で繰り返す。
「ニコラス。あなた一体今、何をしていたの?」
セーラは薄目で睨みつけながら、責めるように言った。
「ちょっとした暇つぶし」
「暇つぶしって……」
悪びれる様子もなく平然と答えるニコラスに、セーラの目はさらに薄くなった。
「ん? セーラ。もしかして、やきもち焼いちゃった?」
ニコラスはニタニタ笑いながら、からかうように言った。
セーラの目がつり上がる。
「大丈夫。オイラ、セーラ一筋だから」
「そういう問題じゃないでしょ!!」
「じゃあ、どういう問題? オイラ、わかんなぁーい」
ニコラスはわざとらしく小首をかしげ、キョトンとした表情をつくった。
「なっ……」
言いたいことが山のようにありすぎて言葉にならず、セーラは頬を膨らませ、ニコラスを睨みつけた。
「だってさぁ~。あの娘の方からオイラにガン飛ばして来たんだよ?」
ニコラスは口をとがらせて、自分は被害者だとでもいう風に弁明しはじめたが、セーラはまるで聞き入れるつもりがないというように表情を変えなかった。
ジョンは二人の顔を交互にキョロキョロとみていた。
「売られた喧嘩は買わなきゃもったいないでしょ。無料なんだから。ねぇジョン」
居心地が悪くなったのか、ニコラスはセーラから目を逸らし、ジョンに語りかけるように言った。
ジョンはニコラスを見ずに、じーっとセーラを見つめている。
セーラの目は怒りでうるみ、琥珀の瞳が黄金色にゆらゆら揺れていた。
「母たん、泣かないで……」
悲しそうな声を出したジョンの大きな目にみるみる涙がたまる。
セーラはハッとして、かかんでジョンと視線を合わせる。
「ジョン。ごめんね。お母ちゃん、泣いてるんじゃないのよ」
そう言ってジョンの手を握る。
「ほんと?」
「ほんとよ」
小首をかしげるジョンに、優しく笑いかける。
「ジョン。ごめん。お父ちゃんが悪いんだ」
ニコラスはジョンの頭をなでながら言った。
ジョンは問いかけるように、セーラをじっと見つめ、セーラが顔をしかめて軽く頷くと、仰け反るようにして、ニコラスを見上げた。
「父たん、メンメ」
眉間にしわを寄せ、たしなめるように言った。
ニコラスは眉をハの字にして、すまなそうな顔をする。
「ジョン。悪いお父ちゃんをやっつけて」
セーラはチラリとニコラスを見あげ、握ったジョンの手を上下に振る。
「父たん、メッ!!」
ジョンの空いた手がニコラスの顔面にヒットし、勢いあまった小さな指先が鼻の穴にムニュッと入った。
「ふがっ」
ニコラスは反射的に短い声をあげて仰け反る。
追い打ちをかけるように、ジョンはさらに手をつき上げる。
「鼻はダメ。鼻は……」
ニコラスは涙目になりながら、ジョンの手から逃れようとする。
その必死の形相に、セーラはたまらず噴きだした。
「メンメ、メンメ」
ジョンは楽しそうに笑いを声をたてながら、もう片方の手も伸ばし、ニコラスを攻め続けた。